オレはこの「ただし人がこのような事情を見てとるのは、少数の事例においてであり」ってところが好きだ。
結局オレは、善いの反対の悪い、悪いの反対の善いを探しているわけじゃない。
悪いの反対の悪い、悪いの反対の中庸を探し当てたほうが、オレ個人は楽しい。
5ちゃんねるには、極端な、いかにも図式的な、シンプルな様態のキャラクターがやたら多い。
だから「善いの反対の悪い」「悪いの反対の善い」を見つけるのは簡単だと思う。
複雑なキャラクター、善い悪いが入り混じり、混淆し、統一されてるのに混沌としてるようなキャラ、
部分を観察してると全体が見えなくなり、全体を観察してると部分が見えなくなるようなキャラは、
比較的少ないように思える。

でもよくよく見ると、つまりキャラクターとは切り離されたところでなら、
「悪いの反対の悪い」はよくあり、「悪いの反対の中庸」はもっとたくさん見つかる。
ここでのマンウォッチングの基本は、
「善いの反対の悪い」のなかに、「悪いの反対の悪い」や「悪いの反対の中庸」を見出すことなのではないかと思う。

何度も書いたけれど、だからと言ってこれは許す/許さないの問題とはなんの関わりもない。
許せないものを許す必要はない。
しかし同時にそれは、知的トレーニングとしての「悪いの反対の悪い」「悪いの反対の中庸」探しとも
あまり関係はない。

許せなくても観察し考えることは、とくに悪いことじゃない。
矛盾もしていない。