そういうことありましたかな?

まあしかし、ハートってのは音楽の一部なのであって、
それがない音楽は音楽ではないかというとそうでもないと思うんですよな。

たとえばこないだここに貼ってみた、ろうそくが作るノイズ。
あれは徹底的にノイジーで、コンセプト先行で、演奏にハートはない。
音を出してるろうそくにはハートがないから。
でもそういう無味乾燥な「ただの現象」にすら人間は、なにかしらの意味を見つける。
あるいは、無味乾燥であるから、つまり「ハート」なんていう作為がないからこそ
そこに自身の情動をのっけることができることもある。

「音楽=演奏にのっかったハート」ではない。
オレはダンスミュージックに救われた人間なので、それは強く感じますな。

アウシュビッツ=ビルケナウの遺構に行かれたことがありますか?
あそこでは亡くなった人の固有名というよりも、圧倒的な無記名性の山が、
見学に来た一般人を直撃します。
無味乾燥な指輪の山、無味乾燥な入れ歯の山、無味乾燥な汚れた衣類の山、
無味乾燥な鞄の山、無味乾燥な靴の山、無味乾燥な切り取られた髪の山。
あそこにはハートも何もないけれど、ハートの不在がそこにあったハートの影を指し示す。
そういう存在の在り方も、まあこの世にはあるということですな。