あるよ。例えば、過疎の商店街を賑わせたいと思った店主が、看板のデザインを一新する。この場合「原因が何か?」ではなく「看板のデザインを変えれば人は来るかどうか?」で判断している。

納得や言い訳についてはがそれが出来たとしても問題が解決するとは限らないから、問題解決とは関係ないものだと思う。そう。原因究明にはそれ自身を目的とさせる性質があるんだよね。
ブッダの毒矢のたとえだって、「原因究明に捕らわれて問題解決を蔑ろにするな」という寓話。人は「死んでも良いから矢がどの方向から飛んできたか知りたい」「失敗してもいいから弁解が出来るよう備えたい」と思ってしまうもの。
そうなることが問題なんであって、最終的に対策を打つことができるなら「仮説を立てる」ことは間違いではない。