>>655
わかるw
ちょっと固い印象がある句ではありますよな。
俳句にしては漢字が多くて、なんか情緒に欠ける印象もある。
まあ俳句ってものは、本来の文脈から取り出して、独立して存在させても、
どこでもいつでもちゃんとしてるのが秀句なわけですから、
もしかしたらそれほど優れた句とは言えないのかもしれない。

ただ、もともと波郷はこんな感じの、硬質な句を作ってきたひとで
好みの問題はあるかも知れません。

この句は1948年の『雨覆』という句集に入ってて、実際に詠んだのは終戦直後の秋。
彼は出征先で結核を患い、大陸の戦線から日本に戻され、
終戦直前には埼玉の田舎に妻子と疎開してるんですよな。
体調がよくなくて、当時は身長ばかり高い、ひょろひょろした人だったらしい。

東京は焦土と化し、妻の両親は空襲で焼け死んでしまい、
たぶんこの頃は、自分の同期や友人たちの戦死の報せを頻々と聞きながら
自分の死も予感してた時期だと思う。
それをふまえて、もう一度読んでみる。

 栗食むや若く哀しき背を曲げて

死がとても近くにあって、それをもどこかで嘲っているような俳人の自意識を感じる句だと思うのですよな。
茹でた栗を、肥後守かなにかでちまちま剥きながら食ってる自分。
なんというか、死に満ちたこの世全体を、
この句を詠みながら寂しく笑っているような。

哀悼、悲哀、哀惜。
哀傷歌といえば、挽歌のことになる。
「哀し」という直接的な表現は、この死を見据えたものであったと思います。
この表現は、当時の俳人にとって切実なもので、たぶん仕方がないものだったんじゃないかなあ。