そこまでとは言わんけれども、魂の奥深い所にあるものを触ろうとするなら、
鎧をがんがん叩いてゆさぶって、ときには割って持ち出すしかない。
そういうのって、だいたい人間は、言葉によって行うわけです。

こういう言葉には強い摩擦抵抗力がある。
鎧を削り取っていく、やすりのような。
しかし、この種の言葉は脅威であるとともに、
自分自身を知るためにはどうしても必要なのですよな。
なにが自分にとっての抵抗であるか知りたいという欲求はつねに人間は持っている。
これを知っておかないと、いざというとき生存に関わるからです。

だから、畏れながらもつねに関心を持たざるをえない。
目で追わないではいられない。
やすりを持っている者がどこにいるかつねに確認せざるをえない。
この相反した気持ちが「見ながらなにも見ていない」ってことにつながってるし、
やすり持っているひとのことは「なにも知らないのに存在は感じてる」ってことになるんだと思いもす。