>>458
おはようございます。
オレにもそういうひとはおります。

> 人の魂というのは体の交渉で汚染されやすい。

まことにそのとおりだと思います。
しかし、それがわからないひとも多くいます。
いまそのただなかにいる当事者すらわかっていない。

オレは「知る」には二種類あると思う。
ただ知識として知ることと、経験とセットで知ることと。
後者は「思い知る」ということです。

そして「思い知る」という知のありようは、たまに懲罰のようにそのひとを撃つ。
サウロの回心を想起する。
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」
同じように、自分の心が自分自身を撃つ。

これはある意味、運命的なものです。
なにも知らなかった人が、ある日突然思い知る。
運よく一生思い知らないひともいるかもしれない。
思い知らない人には思いもよらない。
しかし、青天の霹靂(稲妻)のように、それは素早く逃れようなくやってきて撃ちのめし手足をもぐ。
そのときに、

そのときに再び立ち上がれるようにしたい。
そこでもう立ち上がれず、身体的にあるいは精神的に死んでしまうひともいるかもしれないが
助けられる者は助ける。
そういう努力を重ねる他者の姿を見かけることも多い世の中になれば、
ちっとはこの苦界/苦海もマシになるかもしれない。

「末路」というのは、性風俗に携わるひとらが、男性性の汚わいを追って生きている、
つまりアンタッチャブルな穢れを負っているということを無意識にK-30155が是認/追認していることを示していると思う。
いや、現実的にはいまそうかもしれないが、性風俗に携わる彼女ら彼らは罪びとではありませんからな。
罪は男性性の暴力的なあまりものをまっとうに処理できない男たちが、本来は背負うべきものです。
それを男どもに自覚させるためにも、思い知ってしまったひとたちにこの男性優位社会は、少しは優しくしないとなりません。