「定言命法」は、「世界の理」としてこの世と人間の生に埋め込まれていて
善を為そうとするときの最初の一歩を踏み出す力を与えるわけだけれども
しかし、二歩三歩、千歩万歩と先に進んでいくと、定言命法の声はどんどん遠くなる
最初の厳命、「目の前にある人を助けよ」といういちばん最初のいちばん大きかった声を忘れていく

そうすると、エコノミーの思考が動き始める
わたしはなぜに他人のためにこんな我慢を強いられるのか
自分にどんな利得があって、相手にはどんな利得があるのか
アンバランスではないか、損をしてるんじゃないか
そう考え始める

この「定言命法とその後に行うエコノミー的な思考の乖離」が、
だいたいいつも人間を苦しめる
自分はよいことをしたはずなのに、こんなにしんどい

周りは「あなたのやり方が間違っていたのだ」と言う
あるいは「中途半端に関わるくらいなら最初から関わるべきではなかった」と言う
そんなことを言われ始めるころには、
善を為した人の心の中には定言命法の最初の圧倒的な声が
幻のように消えている

オレは、まあそれをよく知ったうえで
可能ならば定言命法に従うことに後悔しないひとでありたいとは思う
それができるかわからんですけど

なおかつ、それをみながやるべきだとも思わない
これは個のあり方を自分自身で拓いていく、ひたすら主体的な、
誰かが代わってやってあげられるようなものではないですからなw