友達とは「概念」であり「便宜上の呼称」である。

近所の同年代や学校のクラスメイトを呼ぶときに
呼び名がないと困るので「友達」と便宜上呼ぶ。

ところが某週刊少年漫画雑誌等の活躍や、
「友だちは大事にするもんだ」という古くからの「迷信」のようなものが、
「友達と呼称されるもの」の在り方のハードルのインフレを起こしてしまった。
「友達とは」と言った時に要求されるものがものすごく高尚でハイレベルになってしまった。
現実に「友達と呼称されるもの」つまり「友達風」の、裏切りやその人の欠点からくる「不十分さ」に対して、
轟々と非難されるようになってしまった。

「高尚な意味で友達」と思って疑わなかったものが、
突然自分可愛さで私たちを「イケニエ」として恐怖の対象に差し出したとしよう。
裏切りられた喪失感でおなかいっぱいになってしまう。

しかし、人間みんなそんなものなのである。
荀子の性悪説が正しいという話ではない。
性善説をとってもそんなものであろう。
昔の中国人は「大人の交わりは淡きこと水のごとし。小人の交わりは甘きことれい(甘酒)のごとし。」
と言ってこのことを嘆いた、いや、それで良いと割り切ったのである。
ニーチェが人生に意味は無いと割り切ったのによく似た割り切りではないか。
そんなにベッタリ友人に期待し拘束する交わり、つまり友人関係は、
つまらない人間のすることだと割り切ったのである。