*『小説作法』

「人口あれば語る。人情あれば文をつくる。春来つて花開き鳥歌ふに同じ。皆自然の事なり。
これを究むるの道今これを審美学といふ。森先生が『審美綱領』『審美新説』を熟読せば事足るべし」

「文学雑誌の投書欄に小品文短篇小説なぞの掲載せらるるを無上の喜びとなすものはまづ大成の見込なきものなり...
論より証拠は今日文壇の泰斗と仰がるる人々を見よかし。森先生の弱冠にして『読売新聞』に投書せられしは
今のいはゆる地方青年投書家の投書と同じからず。紅葉露伴樗牛逍遥の諸家初めより一家の見識気品を持して文壇に臨みたり。
紅葉門下の作者に至りても今名をなす人々皆然り」

*『書かでもの記』

「一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時、わが傍にありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ、
いで紹介すべしとて、わが驚きうろたへるをも構はずわれを引き行きぬ。われ森先生の謦咳に接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを顧み微笑して
『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし」

*『断膓亭日記巻之二大正七戊午年』

「正月廿四日。鴎外先生の書に接す。先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後
全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし」