0021革命的名無しさん
2020/05/14(木) 08:47:44.01八日市市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。
政界引退後は龍谷大学客員教授、徳島文理大学大学院教授を務めた
1986年7月6日の第38回衆議院議員総選挙(衆参同日選挙)に滋賀県全県区で保守系無所属で立候補し(選挙期間中に自民党公認となり)当選、
国政へ進出(同区で自身が最初に知事選出馬した際の支援者たる民社党新人川端達夫も当選)[10]。
自民党では清和政策研究会(安倍派→三塚派)に所属する(本当は田中派から出馬を希望していたが同派現職山下元利が居たため、
同派内の創政会会長竹下登が自身の盟友で安倍派会長安倍晋太郎に武村を紹介した)。
1988年9月2日、鳩山由紀夫、石破茂らと政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成し、金のかかる政治に対する改革を訴えた[11]。
なお、このユートピア政治研究会がのちの「新党さきがけ」の母体となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%BE%A9
田中 秀征(たなか しゅうせい、1940年9月30日 - )は、日本の政治家。福山大学経済学部客員教授。
1972年、第33回衆議院議員総選挙に旧長野1区(定数3)から無所属で出馬したが、最下位の得票数5位で落選した。
この総選挙では、東大1959年入学同期の3人(加藤紘一 、与謝野馨、田中秀征)の若手候補が
立候補すると週刊誌に取り上げられた[8]。
以後、34・35・36回の各総選挙に無所属で立候補するも、落選を繰り返す。
この間、一時的に新自由クラブに籍を置いていた時期があるが、党内の路線対立により離党した。
当選後、宏池会に入会、宮澤喜一に師事し、宮澤が執筆した「国連常設軍の創設と全面軍縮」の論文を手伝うなど側近として行動する[11][12]。
1993年4月、武村正義と新党結成を決断。二人は鳩山由紀夫を最初に誘い[22]、そこから離党する仲間は計10人なった。
6月18日、宮澤改造内閣の不信任決議案の採決では反対票を投じたものの、同日、他の9人の仲間とともに自民党を離党。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%A7%80%E5%BE%81