真性のマジキチには、分からない世界がある。
真性のマジキチには、見えない世界がある。
真性のマジキチには、分かち合えない世界がある。

そもそもマジキチなんて思考が出来ていない分、すぐファビョる事しか出来ない猿寄りスペックなんだからね。猿並み、ただの猿並み…。
ヤツらには偏執という常に偏りがあり、その異様な狂った行動原理の格は、欠落した某かの劣等感を補うものだけの残念なものだったりする。もうバカ丸だし。
歪みありきのその異常さに違和感を禁じ得ない以上は、まともな人間とは認知する訳にはいかない。
当の患者は其が先天的な資質である以上、異常だとは感じられないから、これが悲劇ですから。
そして様子のおかしなものと、論理的におかしなものが分からないバカが大杉。
様子のおかしなものは、何かが欠落しているから、素でおかしく見えているのであって…
論理的におかしなものというモノには、思考した軌跡があり、人間の経験則により、共感出来る事でおかしい訳である。
所謂低俗な笑いでしか共感を知らぬ者や歪んだ卑屈な自我を持つ者は、得てして様子のおかしな前者に同調する化学変化を示す傾向が強く、実は理智自体が全く体質に合っていない。
こうして脳のタイブである衝動型と思考型に種は別れる事になる。サイコの害を知る者の中には、衝動型でも思考型にシフトチェンジすることは自覚次第では可能と言われている。
二元的主観の理性が生まれるかどうかにかかっている。理性が己を監視出来ているかにが要になってくる。
自己愛や日和見も前頭葉が起動している以上は、スペックは一応微弱ながらもあるという意味だから、絶望的ではない。絶望的なのは前頭葉機能不全の珍犯だけである。
自己愛や日和見は、一元的な私しか持てない、未熟な自我を持ち、感情論しか持てないが故に、衝動的でファビョりやすく、疲弊しやすい。
何かしらの奈落には陥り易いのは、己の中の未熟な主観とセーブしきれていない気性がそうさせている。こんな未熟な主観しか持てないのなんてね…土人でしかないよ。土人!