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Monadaisuki !!!

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1( ´∀`)さん
垢版 |
2019/02/23(土) 21:59:52.79ID:El3DUVtf0
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Monadaisuki ! 〜!  >( ゚∀゚ )/ |    / \__________
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2019/03/06(水) 21:57:08.85ID:jjDH+NLd0
>>303
ウィキペディアの基地外はとうとう埋め役の自分まで>>1にしたのか

>>302
そんなことを言っても通じるような人間ではないですよ
ウィキペディアから来た基地外荒らしは
何でも>>1だと言うことにすれば、自分の荒らし行為が正当化できると思っているのでしょう
自分はウィキペディアの荒らしが粘着過ぎるので埋めたいだけ
AA板を正常化したいだけ

>>305
しばらくお待ちを
2019/03/06(水) 22:15:22.56ID:jjDH+NLd0
☆さあ、埋めよう!
2019/03/06(水) 22:15:33.69ID:jjDH+NLd0
マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた[197][198]。
2019/03/06(水) 22:15:40.42ID:jjDH+NLd0
エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミス、リカード、セイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した[199]。
2019/03/06(水) 22:15:49.18ID:jjDH+NLd0
これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。
2019/03/06(水) 22:15:57.16ID:jjDH+NLd0
アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモン、フーリエ、プルードン等の社会主義者の本を読み漁った[197]。
2019/03/06(水) 22:16:04.88ID:jjDH+NLd0
この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿(ドイツ語版)』である[200][201]。
2019/03/06(水) 22:16:12.71ID:jjDH+NLd0
その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する[202]。
2019/03/06(水) 22:16:23.69ID:jjDH+NLd0
またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった[203][204]。
2019/03/06(水) 22:16:31.79ID:jjDH+NLd0
「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている[205][206]。
2019/03/06(水) 22:16:36.75ID:jjDH+NLd0
またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を共産主義と定義するようになった[207]。
2019/03/06(水) 22:16:44.39ID:jjDH+NLd0
1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった[208][209]。
2019/03/06(水) 22:16:52.80ID:jjDH+NLd0
この著作はバウアー派を批判したもので、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。
2019/03/06(水) 22:17:01.45ID:jjDH+NLd0
まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。
2019/03/06(水) 22:17:07.69ID:jjDH+NLd0
神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた[210]。
2019/03/06(水) 22:17:16.35ID:jjDH+NLd0
また1844年7月にルーゲが『フォールヴェルツ(ドイツ語版)』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した[211][212][213]。
2019/03/06(水) 22:17:21.77ID:jjDH+NLd0
マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した[214]。
2019/03/06(水) 22:17:29.38ID:jjDH+NLd0
しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。
2019/03/06(水) 22:17:37.19ID:jjDH+NLd0
プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、フランス外務大臣フランソワ・ギゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした[215][216][214][217][218]。
2019/03/06(水) 22:17:54.72ID:jjDH+NLd0
こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。
2019/03/06(水) 22:18:04.03ID:jjDH+NLd0
パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった[219]。
2019/03/06(水) 22:18:13.25ID:jjDH+NLd0
マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住した[220][221]。
2019/03/06(水) 22:18:21.67ID:jjDH+NLd0
ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。
2019/03/06(水) 22:18:29.37ID:jjDH+NLd0
マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した[216][222]。
2019/03/06(水) 22:18:37.20ID:jjDH+NLd0
しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた[223]。
2019/03/06(水) 22:18:44.03ID:jjDH+NLd0
またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで無国籍者であった[224]。
2019/03/06(水) 22:18:59.22ID:jjDH+NLd0
ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人フェルディナント・フライリヒラート、元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、学校教師のヴィルヘルム・ヴォルフ(ドイツ語版)、マルクスの義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)などがブリュッセルを往来した[225]。
2019/03/06(水) 22:19:16.75ID:jjDH+NLd0
1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた[226]。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる[227]。
2019/03/06(水) 22:19:29.88ID:jjDH+NLd0
1845年夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった[228][229][230]。
2019/03/06(水) 22:19:41.02ID:jjDH+NLd0
この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスやカール・グリューンら「真正社会主義者」[注釈 12]に批判を加えている[232][233]。
2019/03/06(水) 22:19:57.81ID:jjDH+NLd0
マルクスは同じころに書いたメモ『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき唯物史観を萌芽させた[234]。
2019/03/06(水) 22:23:33.57ID:jjDH+NLd0
さらに1847年には『哲学の貧困』を著した。
2019/03/06(水) 22:23:44.51ID:jjDH+NLd0
これはプルードンの著作『貧困の哲学(仏:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、漸進主義ですませようとしている物として批判したものである[235]。
2019/03/06(水) 22:23:50.90ID:jjDH+NLd0
この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。
2019/03/06(水) 22:23:57.57ID:jjDH+NLd0
低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、剰余価値理論を萌芽させた[236]。
2019/03/06(水) 22:24:04.36ID:jjDH+NLd0
また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。
2019/03/06(水) 22:24:12.47ID:jjDH+NLd0
古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。
2019/03/06(水) 22:24:22.45ID:jjDH+NLd0
そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する[237]。
2019/03/06(水) 22:24:28.98ID:jjDH+NLd0
そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする小ブルジョアに過ぎない」と結論している[238]。
2019/03/06(水) 22:24:36.78ID:jjDH+NLd0
1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『賃金労働と資本(ドイツ語版)』としてまとめられるものである。
2019/03/06(水) 22:24:45.63ID:jjDH+NLd0
その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。
2019/03/06(水) 22:24:52.27ID:jjDH+NLd0
「賃金とは労働力という商品の価格である。
2019/03/06(水) 22:24:58.64ID:jjDH+NLd0
本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。
2019/03/06(水) 22:25:09.45ID:jjDH+NLd0
したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」[239]、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。
2019/03/06(水) 22:25:22.45ID:jjDH+NLd0
労働力の生産費、つまり生活費で決まる」[240]、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。
2019/03/06(水) 22:25:39.93ID:jjDH+NLd0
資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている[241]。
2019/03/06(水) 22:25:51.48ID:jjDH+NLd0
パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。
2019/03/06(水) 22:26:08.49ID:jjDH+NLd0
「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった[242]。
2019/03/06(水) 22:26:34.08ID:jjDH+NLd0
1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン(ドイツ語版)、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー(ドイツ語版)、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、ヘルマン・クリーゲ(ドイツ語版)、
エルンスト・ドロンケ(ドイツ語版)らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している[243][244][245]。
2019/03/06(水) 22:26:44.43ID:jjDH+NLd0
しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。
2019/03/06(水) 22:26:51.11ID:jjDH+NLd0
そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。
2019/03/06(水) 22:26:59.13ID:jjDH+NLd0
マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる[246][247]。
2019/03/06(水) 22:27:06.77ID:jjDH+NLd0
その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。
2019/03/06(水) 22:27:17.03ID:jjDH+NLd0
この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する[248]。
2019/03/06(水) 22:27:25.28ID:jjDH+NLd0
新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月、ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。
2019/03/06(水) 22:27:34.79ID:jjDH+NLd0
マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した[249][250]。
2019/03/06(水) 22:27:44.38ID:jjDH+NLd0
またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された[251]。
2019/03/06(水) 22:27:54.36ID:jjDH+NLd0
合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった[251]。
2019/03/06(水) 22:28:02.17ID:jjDH+NLd0
11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させた[252][253]。
2019/03/06(水) 22:28:20.67ID:jjDH+NLd0
一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった[254]。
2019/03/06(水) 22:28:26.41ID:jjDH+NLd0
この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。
2019/03/06(水) 22:28:36.77ID:jjDH+NLd0
共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。
2019/03/06(水) 22:28:45.76ID:jjDH+NLd0
ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く[255][256]。
2019/03/06(水) 22:28:55.62ID:jjDH+NLd0
さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する[注釈 13]。
2019/03/06(水) 22:29:06.01ID:jjDH+NLd0
そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている[258]。
2019/03/06(水) 22:29:24.75ID:jjDH+NLd0
そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。
2019/03/06(水) 22:29:34.34ID:jjDH+NLd0
共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。
2019/03/06(水) 22:29:46.06ID:jjDH+NLd0
支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。
2019/03/06(水) 22:29:54.17ID:jjDH+NLd0
プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。
2019/03/06(水) 22:30:01.38ID:jjDH+NLd0
彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ[259]。
2019/03/06(水) 22:30:16.85ID:jjDH+NLd0
1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命)[260][261][注釈 14]。
2019/03/06(水) 22:30:24.59ID:jjDH+NLd0
この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及した。
2019/03/06(水) 22:30:34.93ID:jjDH+NLd0
全ヨーロッパで自由主義・民主主義・社会主義・共産主義・ナショナリズム・民族統一運動など「進歩思想」が燃え上がった。
2019/03/06(水) 22:30:52.86ID:jjDH+NLd0
これを1848年革命と呼ぶ。
2019/03/06(水) 22:31:07.14ID:jjDH+NLd0
ドイツ連邦議会(ドイツ語版)議長国であるオーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる事態となった。
2019/03/06(水) 22:31:13.98ID:jjDH+NLd0
オーストリア支配下のハンガリーやボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された[265]。
2019/03/06(水) 22:31:25.24ID:jjDH+NLd0
プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会(ドイツ語版)の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた[266][267]。
2019/03/06(水) 22:31:36.60ID:jjDH+NLd0
他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した[268]。
2019/03/06(水) 22:31:46.82ID:jjDH+NLd0
そして自由都市フランクフルト・アム・マインにドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が設置されるに至った[269]。
2019/03/06(水) 22:32:00.65ID:jjDH+NLd0
こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。
2019/03/06(水) 22:32:11.11ID:jjDH+NLd0
マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていたフェルディナン・フロコン(フランス語版)から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた[270][271][272]。
2019/03/06(水) 22:32:29.15ID:jjDH+NLd0
マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した[273][271]。
2019/03/06(水) 22:32:42.59ID:jjDH+NLd0
その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた[274]。
2019/03/06(水) 22:32:56.00ID:jjDH+NLd0
いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された[275]。
2019/03/06(水) 22:33:11.70ID:jjDH+NLd0
町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという[273]。
2019/03/06(水) 22:33:21.14ID:jjDH+NLd0
同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された[276]。
2019/03/06(水) 22:33:31.58ID:jjDH+NLd0
マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。
2019/03/06(水) 22:33:39.86ID:jjDH+NLd0
そのため短剣やピストルをかき集めていました。
2019/03/06(水) 22:33:48.29ID:jjDH+NLd0
カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。
2019/03/06(水) 22:33:56.66ID:jjDH+NLd0
(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している[276][277]。
2019/03/06(水) 22:34:05.51ID:jjDH+NLd0
3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。
2019/03/06(水) 22:34:11.95ID:jjDH+NLd0
その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。
2019/03/06(水) 22:34:17.23ID:jjDH+NLd0
列車はフランス北部の町ヴァランシエンヌで停まり、マルクス一家はそこから乗合馬車でパリに向かった[276]。
2019/03/06(水) 22:34:28.19ID:jjDH+NLd0
3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。
2019/03/06(水) 22:34:35.97ID:jjDH+NLd0
議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた[278][279]。
2019/03/06(水) 22:34:47.61ID:jjDH+NLd0
議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した[280]。
2019/03/06(水) 22:34:55.95ID:jjDH+NLd0
3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。
2019/03/06(水) 22:35:05.93ID:jjDH+NLd0
ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている[281][注釈 15]。
2019/03/06(水) 22:35:14.40ID:jjDH+NLd0
マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた[283]。
2019/03/06(水) 22:35:24.94ID:jjDH+NLd0
しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、ゲオルク・ヘルヴェークとアデルベルト・フォン・ボルンシュテット(ドイツ語版)の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。
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