子路は、自分にものをいう機会を与えなかった孔子の心を解しかねた。そして、いささか不平らしく、
「先生!」
 と呼びかけた。で、孔子も仕方なしに、また子路の方をふり向いた。
「先生、私は、私が政治の要職につき、馬車に乗ったり、毛皮の着物を着たりする身分になっても、
友人と共にそれに乗り、友人と共にそれを着て、たとい友人がそれらをいためても憾むことのないようにありたいものだと存じます。」
 孔子は、子路が物欲に超越したようなことをいいながら、その前提に自分の立身出世を置き、
友人を自分以下に見ている気持に、ひどく不満を感じた。そして、うながすように、再び顔淵の顔を見た。
 顔淵は、いつものような謙遜な態度で、子路のいうことに耳を傾けていたが、
もう一度、自分の心を探るかのように眼を閉じてから、しずかに口を開いた。
「私は、善に誇らず、労を衒てらわず、自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやって見たいと思うだけです。」
 孔子は、軽くうなずきながら顔淵の言葉を聴いていた。
そして、それが子路にどう響いたかを見るために、もう一度子路を顧みた。
 子路は、顔淵の言葉に、何か知ら深いところがあるように思った。そして自分の述べた理想は、
それにくらべると、如何にも上すべりのしたものであることに気がついて、いささか恥かしくなった。
が、悲しいことには、彼の自負心が、同時に首をもたげた。そして、彼はそっと顔淵の顔をのぞいて見た。
 顔淵は、しかし、いつもと同じように、虔ましく坐っているだけで、
子路が述べた理想を嘲っているような風など、微塵もなかった。子路はそれで一先ずほっとした。
ーーーーーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「先生、どうか先生の御理想も承らしていただきたいと存じます。」
 孔子は、子路が顔淵に対してすらも、その浅薄な自負心を捨てきらないのを見て、暗然となった。
そして、深い憐憫の眼を子路に投げかけながら、答えた。
「わしかい、わしは、老人たちの心を安らかにしたい、朋友とは信を以て交わりたい、年少者には親しまれたい、
と、ただそれだけを願っているのじゃ。」
 この言葉をきいて、子路は、そのあまりに平凡なのに、きょとんとした。
そして、それにくらべると、自分のいったことも満更ではないぞ、と思った。
彼のいらいらした気分は、それですっかり消えてしまった。
 これに反して、顔淵のしずかであった顔は、うすく紅潮して来た。
彼は、これまでいく度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことが出来たぞ、と思った瞬間に、
いつも、するりと身をかわされるような気がしていたが、この時もまたそうであった。
彼は、自分が依然として自分というものに捉われていることに気がついた。
先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。
それらを基準にして、自分を規制して行こうとされるのが先生の道だ。
自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいう事は、要するに自分を中心にした考え方だ。
しかもそれは頭でひねりまわした理窟ではないか。
自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。
人間は、この現実に対して、ただなすべき事を為して行けばいいのだ。
自分に捉われないところに、誇るも衒うもない。――彼はそう思って、孔子の前に首こうべをたれた。

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