なぜ「飛び出すミステリ」はないのか [無断転載禁止]©2ch.net
間違ったページを開くとナイフが飛び出してきて刺されるとか、
ページ表面に青酸カリが塗ってあってなめると死ぬとか
面白い企画を出版社は考えるべき 飛び出す絵本のように立体化してみたいミステリは
ありますね。「死者はよみがえる」とか「白い家の殺人」、「館島」、
立体化したらどうなるか興味あるなあ。 蘇部健一は最初、音のでるミステリや、飛び出すミステリを企画していたが、
金がかかるからダメと言われて、一枚絵でオチを付ける趣向になったんだとか。 字だけの紙面を舐める変態がどこにいるんですかねえ
漫画ならまだしも 紙をめくる時に指を舐める人を思い出した。
劇毒を紙に塗ったらどうなるんだろうな。 毒を塗った本はアラビアンナイトで読んだのが最初だった。 電子書籍が主流になればトリックの図解をアニメや3Dモデルで解説するようになるかも? >>13
斜め屋敷の犯罪の犯罪とかはCADデータをつけて欲しいよな。 173 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2017/07/20(木) 00:36:41.84 ID:T5Vv0yXt0
一枚だけ仲間はずれの喪失国籍許可証書があります (日付順)
(中華民国 105年8月5日)
莊沙莉さんの喪失国籍許可証書
https://pbs.twimg.com/media/DFGRkmKUAAAnHfZ.jpg:large
(中華民国 105年9月13日)
ウソつきレンホーの喪失国籍許可証書
https://pbs.twimg.com/media/DFGRlM_UAAAL4uv.jpg:large
(中華民国 106年4月14日)
丁松筠さんの喪失国籍許可証書
http://img.ltn.com.tw/Upload/liveNews/BigPic/600_phpExl9nJ.jpg 名無しさん@1周年 2017/07/20(木) 01:37:06.38 ID:8S9GUx300
ほれ
http://i.imgur.com/AJFQSuy.jpg (中華民国 106年4月14日)
丁松筠さんの喪失国籍許可証書 ★★ ← ← 「× 喪失国籍許可証書 」 「○ 帰化国籍許可証書」
http://img.ltn.com.tw/Upload/liveNews/BigPic/600_phpExl9nJ.jpg
●新たにわかったこと
莊沙莉さんの喪失国籍許可証書と丁松筠さんの帰化国籍許可証書は「喪失」「帰化」以外概ね似てるが
レンホーのは中華民国97年の「8年くらい前の「喪失国籍許可証書」とよく似てること
http://i.imgur.com/zJp4mu7.jpg 遺跡の規模と数
古いデータで恐縮ですが
「朝鮮半島の考古学」(早乙女雅博/同成社/2000年/p32)によると、
> 新石器時代(縄文に相当)の遺構は半島全体で1995年までに405カ所。
> うち、貝塚が122カ所。住居址26カ所。
だそうです。 長野県,一県の遺跡数が
>時代別に示すと、旧石器時代330、縄文時代7970、弥生時代2099、古墳時代884。
一方、
日本の縄文時代の遺跡総数は約10万カ所。(小学館百科全書)
弥生時代、古墳時代の遺跡も全国くまなくあります。
平成13年の文化庁調べで古墳の数だけで16万基だそうです。
発掘状況に違いはあるでしょうが、その差は歴然です。
遺跡の規模も比べ物になりません。 弊ブログ武器の少ない社会に「三内丸山遺跡とか桜町遺跡とか世界的な巨大遺跡」
と書きました。
具体的には↓
> …いまイスラエルでいちばん大きいハツオール遺跡がだいたい45haです。45といえば、中近東では非常に大きい。ところが、壱岐の原の辻は最近の調査では100haです。吉野ヶ里がだいたい40haぐらいですからね。<
(古代史の論点3 都市と工業と流通 /小学館/1998年/P8)
弥生時代の妻木晩田遺跡が156ha、
縄文の桜町遺跡が60ha、三内丸山遺跡が38ha…です。
こういう知って嬉しくなるようなことは日本の教科書に書いてありませんね。 追記
2010年の集計によると、日本列島の旧石器時代遺跡だけで10150 遺跡だそうです。
とても分かり難く書いてありました。
現在の縄文時代の遺跡総数を知りたくてもどこに書いてあるのか見つかりません。
長野県の遺跡数が
>時代別に示すと、旧石器時代330、縄文時代7970、弥生時代2099、古墳時代884、
奈良・平安時代3206、中近世(鎌倉〜江戸時代)約1000<
だそうですから旧石器時代の20倍とすると全国では20万カ所ぐらいに増えたのでしょうか。
学界にはデータを分かりやすく公表してほしいものです。 弥生文化: 稲作 縄文系弥生人
菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。
水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、
日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。
従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300〜1800年前)頃に、朝鮮半島方面からやってきた
渡来民によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。
時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることがわかったのである。
何故、縄文人だと考えられるか。それは発掘された生活道具が、全て縄文文化に由来するものだった。
皿や浅鉢、甕、壺といった土器類は、みな典型的な「縄文土器」であった。
土器文化の異なる渡来人が、わざわざ土着の縄文土器を作るとは考え難い。
こうして日本最初の水田が、縄文人によって開かれたことが判明したのである。
発掘のデータによると、菜畑の集落は海岸沿いに立地し、人々は半農半漁で暮らしていたこともわかった。
半島に交易に出かけていた縄文人とは、九州北部の沿岸地帯に暮らし、航海技術に長けた漁労民であった。
唐津近隣の松浦あたりで産する黒曜石を、交易の品として持ち出していた。
このことは韓国の東三洞貝塚で出土した黒曜石などの産地を同定した結果、確かめられている。
水田に関する技術を身に付けて帰ってきた縄文人は、得意の漁労を営むかたわら、
日本列島に水田稲作の第一歩を印したのである。
(佐賀県唐津市。Encarta Encyclopedia唐津市教育委員会) 日本最古の水田、菜畑遺跡(なばたけいせき)
佐賀県唐津市の丘陵先端部にある縄文前期〜中期の貝塚と、縄文晩期〜弥生中期の集落遺跡。
遺跡面積は約1000m2で、1980〜81年(昭和55〜56)におこなわれた調査により、
縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農耕具などが発見された。
78年に福岡県の板付遺跡で縄文晩期末の水田跡が発見されていたが、菜畑遺跡の発見で
日本に水稲農耕がつたわった時期が従来よりかなりはやくなることがわかった。
最古の水田は畦畔(けいはん)をともない、水路は幅1.35m、深さ45cmで、土留めの矢板(やいた)も
くむなど本格的なものであった。石包丁、木製鍬や朝鮮半島系の磨製石器類(→ 石器)も多数みつかっている。
米以外にも、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウなど栽培植物の種子も出土していることから、
水稲農耕と並行して畑作もおこなわれていたと考えられる。ほかに、動物や魚介類の骨類が多種みつかっており、
なかでも顎(あご)の部分に穴を開けられている豚の骨は、家畜飼育の開始をしめす発見として、注目されている。
1983年に国の史跡に指定された。 >陶ケン(ケンは土へんに員)
>陶ケン(とうけん)土笛の謎、日本では縄文時代から日本海沿いを中心に
100個ほど出土してるが、朝鮮半島からは一つも出土していない。どうして?
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12043460662.html
その一つが「土笛」です。弥生時代の土笛は、陶ケン(とうけん)とも呼ばれる焼物の
笛で、起源は中国。河姆渡文化晩期(かぼとぶんかばんき・約6500年前)の遺跡
などで出現しています。
2014/08/12 - 陶ケンの出土は殷から周時代にかけて. 中国大陸と日本列島間の
交流があった可能性を表している。 陶ケンが朝鮮半島から全く出土していない
ことから、. 中国との直接交流があったということだろう。
「中国古代の陶ケンにその形と指孔の状況が酷似している」(国分 1968:190)と
指. 摘、以来「陶ケン」や「土笛」として紹介 ...
朝鮮半島において陶ケン形土製品の出土が知られていない。 無文土器(縄文時代中期末)
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/shuzo_img/443b.jpg
db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp › 収蔵紹介
山口県熊毛郡平生町平生町岩田 文様のない縄文土器です。
西日本では縄文時代中期末(今から約4千年前)以降、次第に文様のない縄文土器
が増加していきました。これらは弥生時代に向けた、土器に対する意識変化を象徴す
る現象として注目されます。
2017/08/14(月) 22:50:37.93
縄文時代後期になぜ無文土器が登場したのか? - 縄文と古代文明を探求 ...
web.joumon.jp.net/blog/2007/11/376.html
2007/11/14 - 長野県大清水遺跡は長野県の中央部からやや北より丘状の山に囲まれた
長野氏篠ノ井信更町に所在する。信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の中に位置する。
大量の無文土器の発掘は今から30年前に著者自身が立ち会って.......
無文土器の発掘の実例として読んでいただきたい。 日本と同じタイプの弓の分布をみると、日本の弓は、中国南部や
インドネシア方面の民族によって伝えられた可能性が強い。
これは、上古日本語と、インドネシア語やカンボジア語の基礎語彙に、
偶然以上の一致がみられるという言語学上の知見とも整合する。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/265-10.gif
■毒矢
アイヌは毒矢を使った。毒矢については、毒物学の石川元助氏の次のような見解がある。
キンポウゲ科のアコニツム属植物を矢毒につかう伝統は、北海道と沿海州、樺太、
アリューシャン、アラスカ半島に、西南へは、中国大陸を通って、雲南、四川、
さらに、ネパール、ブータンにのびる。
毒矢文化の起源は、ヒマラヤとみられる。毒矢文化をアイヌの祖先集団に
伝えたのは、ユウ婁(ゆうろう)族であろう。 『毒矢の文化』紀伊國屋書店 1965 「秦氏」は、「自分らは秦の始皇帝の子孫である」と自称している『新撰姓氏録』。
「竹斯(筑紫)国の東にある秦王国」 隋の使節団は「そこの人々は華夏
(の人々=中国の古代国家「夏」)と同じである」と報告している。
始皇帝陵、兵馬俑と武人埴輪の甲冑が良く似て居り、墓の回りに土器類を大量配置。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/src/11/08/77/src_11087751.jpg?1451096009
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/880/67/N000/000/008/144647630137934814179.jpg
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
秦の陶芸品「陶胎漆鼎(とうたいしつてい)壺に日本でよく見る「三つ巴(ともえ)紋」
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746154434.html
豊前宇佐神宮、京都の石清水八幡、八坂神社、秦氏に関わる神社(三つ巴紋)
https://ameblo.jp/kodaishi-omoroide/image-12199080085-13746155049.html
新羅の前身、辰韓人は秦からの亡人で自らを「邦」邦人と呼んでいた。
黄金の宝剣 新羅時代の古墳から発掘された美しいこの宝剣は、黒海や中央アジア
で作られたと考えられている。カザフスタンのある遺跡からも同様の剣が発掘されて
おり、新羅が中央アジアの北方遊牧民と交流していたことを物語る (三つ巴紋)
https://dot.asahi.com/photogallery/archives/2015062300182/22/
新羅の装飾宝剣とフン族、カザフスタン、ボロヴォエ湖付近出土(5世紀末〜6世紀初)
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/03/blog-post_10.html そもそも夫余は呉王の弟「夫慨」の子孫。
「史記-呉太伯」闔閭10(505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。
「風俗通義 廣韻〜餘」呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。
(今の百済王夫餘氏)[呉公子夫概奔楚、余子在呉者、因以為氏焉]
・「呉王 闔閭」が楚を攻略中に、留守居の弟王「夫概」は楚と通じてクーデターを起こし、呉を実効支配した。
・闔閭は直ちに取って返して呉を奪い返し、夫概は楚に奔走した。呉に残された夫概の子らは呉におられず、
半島北部、さらに西部に逃げて、高句麗や百済の始祖となった。
・呉は元をたどれば(倭国の大夫も名乗った)周の王子「太伯」の末裔で、江南の東夷系の水生種族。
その東夷が北進して、北方ツングース族の地で王家となって国を建てたのが高句麗。
・高句麗王家も百済王家も、もちろん朝鮮人じゃない。
・ちなみに「正統な呉王家」の末裔は、新撰氏姓録によれば、結局日本にやってきている。
そのため高句麗には
1)四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)信仰がある。(玄武すなわち変温動物の蛇や亀が北にある)
2)織媛(七夕)や北斗七星、北辰といった夷族系の星信仰がある
3)江南発祥とされる「支石墓」がある。
4)高床式建築がある。
5)建国の始祖朱蒙(あるいは東明王)は天帝と河神の子であり、追手に攻められたとき魚(トーテム)族に助けられた。
6)朱蒙は弓の善射という意味だが、弓は北方系の短弓ではなく夷族の長弓。
というように高句麗王家は、実は北方騎馬民族要素は少なく(江南の)水生夷族系の文化を多く持つ。 風俗通義-廣韻〜餘(後漢代)によると、
「呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。今の百済王夫餘氏である。」
とあります。
夫概(フガイ)は呉の公子で呉王「闔閭」の弟で、夫余氏の始祖とされます。
このあたりの流れを史記他を総合すると、
1)B.C.506呉軍と楚軍が漢水を挟んで対陣した。
2)11月、夫概は闔閭の命を聴かず部下5000人を率いて楚を襲撃し、楚軍を大敗させた。
3) この戦いで呉は郢を陥落させることが出来た。
4)B.C.505呉は秦、越に攻められ敗北を喫した。
5)夫概は闔閭が楚の地から帰国できない情勢であることを見て取ると、呉に戻り自立して王となった。
6)しかしすぐに鎮圧されて楚に亡命した。楚の昭王に堂谿に封じられ、堂谿氏と称す。
7)呉に余(のこ)されていた夫概の子らが呉を去り,以後「夫餘」を氏とした。 >このデータ、論文から如何して西日本は「無人」って結論が出るんだ?
もう一度、勉強し直しましょう。
図7 縄文遺跡分布のカーネル密度による面的表現
http://bbs.jinruisi.net/blog/wp-content/uploads/img2011/%E7%B8%84%E6%96%87%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%88%86%E5%B8%83%E3%80%80%E9%9D%A2%E7%9A%84%E8%A1%A8%E7%8F%BE-thumb.JPG
縄文遺跡の立地性向 - 地理情報システム学会
http://www.gisa-japan.org/dl/17-1PDF/17-1-63.pdf
図6 黒ボク土分布と遺跡位置(左上は黒ボク土の分布) (注)
図7 縄文遺跡分布のカーネル密度による面的表現 (注)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/12dai1bunomatome/jyoumonnkakukinojinkou1.jpg
表1 奈良文化財研究所収録地方別縄文遺跡数および
遺跡密度(/ 1000ku)
地方 東北 関東 北陸中部山国 東海 近畿 中国 四国 九州
遺跡数 6542 10852 824 1257 2748 1235 1004 169 2932
遺跡密度102.0 337.6 37.3 46.5 220.7 37.5 31.6 9.0 69.5 (2)新石器時代
九州縄文人の南下:縄文時代になると九州本土から縄文人の南下が始まる。まず縄文前期(約6,000年前)に
曽畑式土器人が、そして後期(約3,000年前)には市来式土器人が沖縄本島まで渡島している(上村1989)。
一方、縄文草創期(約1万2,000年前)頃に、長崎県五島列島から沖縄本島にかけての地域に「栫ノ原原型石斧文化」
が形成された。また約5,000年前頃に琉球弧を経由して南九州地域に、東南アジア、中国大陸沿岸部から
特徴的な磨製石斧(双刃石斧・稜付き石器)を持った海洋民の北上が認められる(小田2001)。
南九州の初期縄文社会は、約7,000〜6,500年前の完新世最大の巨大噴火(鬼界カルデラ〉によって壊滅的な
打撃を被ってしまった。 その後この地を逃れた南九州の縄文人は列島各地に拡散して行った。特に「海人集団」
は丸木舟や筏舟で対馬暖流を北上し 日本海を通り北海道へ、さらに黒潮本流に乗って太平洋沿岸地域から
伊豆諸島の八丈島にまで移住した集団も確認されている。 やがて巨大噴火の影響も薄れた約6,000年前頃(縄文海進最盛期)
になると、九州の前期縄文人(轟B式・曽畑式土器)が、 その後約3,000年前には、後期縄文人(市来式土器)もが
沖縄本島にまで南下した。そして彼らは琉球列島の豊かなサンゴ礁の海に魅せられそこに定着し、
独自の土器(南島式土器)と美しい貝製品を中心にした「サンゴ礁文化」(南島文化)を誕生させたのである(上村1991;新東2006)。 黒曜石の流布:火山ガラスの一種である黒曜石は、石器時代人の石器製作材料として珍重され多用された。
佐賀県腰岳産の黒曜石は九州島で最も質が良く、縄文時代には朝鮮半島や沖縄本島へも運ばれ利用された(小田2000)。
南島人の北上:九州縄文人の大規模な南下行動に対して、南島からの先史時代人の北上行動は少なかった。
最古の例は約4,500年前(縄文前期)で、沖縄本島の「室川下層式土器」が種子島で発見されている。
約3,000年前(縄文後期)には屋久島まで北上した「喜念1式土器」があり、約2,500年前(縄文晩期)には
鹿児島本土に上陸した「宇宿上層式土器」が知られているが、土器の出土量は少ない (高宮1993;上村1999,2004b)。 >今までの九州の曽畑式土器は朝鮮半島の櫛目文土器に影響されてがヒックリ変えるかも。
対馬茂の脇遺跡は、八幡神社の周辺一帯をさし、縄文前期から古墳時代に至る複合遺跡で、
本によっては夫婦石遺跡とも呼ばれている。韓国新石器時代の土器、縄文前期・中期の土器、
石鏃、石斧、古墳時代の須恵器などが出土。考古学的には非常に重要な遺跡らしい。
今までは朝鮮半島の櫛目文土器に影響されて、九州の曽畑式土器が生まれたというのが
学会の常識であったが、この遺跡では10層・11層から櫛目文土器が現れ、
さらに深い(さらに古い)13層から曽畑式土器が見つかった。
つまり、曽畑式が櫛目文に影響を与えたのかも知れないということになってしまう。 ●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)(日本では支石墓)
1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。
これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する支石墓のルーツかとも考えられる。
紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、これは、支石を箱形に並べた上に
高くびえる形で天井石を載せたもので、 テーブル式と呼ばれる。一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは
紀元前500年頃からで、数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、 碁盤式と呼ばれている。
韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と分類しており、 両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。
浙南の石棚墓は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の
九州北部に出現している。 唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、縄文時代晩期末(弥生時代前期)〜弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。