麻薬やドラッグ自体の歴史が、産業革命以後の歴史観を共有しているのが、
インテリ及び、大衆のドラッグ感だろう。

つまり意識変容の飲み物や摂取するものを使う文化は、産業革命以前からある。
人間の社会の歴史から語られる歴史でなければ、薬物の可能性や価値を
知ったことにはならない。

これらの認識や実感は、宗教で言い伝えられている協議や、いつ話でしか、
大衆には伝承されていないだろう。なぜならば世界的にタブーな話だからだ。
薬物を摂取して語れれる認識は、西洋文化の科学ではオカルトであろうし、
主客を分けて考えることしかできない、分析や再現の学問の外側の出来事だからだ。

人類は、少しの間、オカルトを否定して顕在意識のみを最大限活用して、
テクノロジーの社会を作って来た。しかし精神性は追いついていないのは、
オカルトを置き去りにしてきたからだろう。

もし、テクノロジーの社会での成功者が、精神性、つまり人徳も優れているならば、
この社会はもっと、心地よい社会になっていることだろう。

この社会の精神性は、未だ獲得ゴッコであり、少しずつ共有、共存の社会に
なりつつある。これは大麻を扱える社会になってきたということだろう。

大麻や薬物の解禁がなぜダメだと考えるのか?その懸念は、
本当に賢い人がやるのではなく、そうでない人もやることができるからだろう。
つまり、人々の精神性が向上している社会では、オール解禁でもよいのだ。