マリノスタウン跡地にアンパンマンミュージアム建設 [無断転載禁止]©2ch.net
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新たにマリノスタウン跡地に横浜アンパンマンミュージアムが建設される
ことになった。延床面積10000平方の4階建てで29年8月に着工、31年4月に
オープン予定になっています。国内にあるアンパンマンミュージアムとし
ては最大級の大きさになる。 横浜アンパンマンミュージアムの詳細
4階建 高さ約20m 延床面積1万平米
1階 エントランス・駐車場
2階 無料商業モール
3階 有料ミュージアム
年間集客数 約300万人 すでに横浜にはアンパンマンミュージアムあるんじゃないの? できればみんな無料エリアにしてほしい
一万平米ってテーマパークとしては
小さくなう? >>6
現在ある横浜のミュージアムは2017年で建物の借地契約が切れます。この時点で
ミュージアムを閉鎖する予定でしたが、あまりにも人気があり、恒久施設として
同じ横浜に移転するために、すぐ近くの広大な土地に建設するのです。 >>5
土地は現在の横浜ミュージアムより若干小さいようです。しかし延床面積では
現在の施設より大きいようです。
経営のこともあるのでしょうが、現在と同等の施設として考えているのでしょ
う。しかし全国にあるアンパンマンミュージアムの中では一番施設が大きいよ
うです。
個人的には、マリノスタウンの空き地に施設を建てるのですが、募集した土地
のたった7パーセント土地しか借りないようです。土地は充分あるので、もっ
と、もっと大きな施設をつくってもよかったのではないでしょうか? これでみなとみらいはミュージアムだらけになったな
アンパンマンミュージアム
カップヌードルミュージアム
大自然超体感ミュージアムオービィ横浜
横浜マリタイムミュージアム
三菱みなとみらい技術館
原鉄道模型博物館
みなとみらいは遊園地もあるし、美術館もあるし、動物園もある ヘアサロンの金髪のばばあ感じ悪かった
口くせーし目やに汚ないカット下手くそ
床屋辞めろ
クレーム出したのにまだいるよ 神戸のアンパンマンミュージアム、とんでもねーぞ!
来週の木曜日、午後から入場客を追い出して、スタッフや身内の関係者だけでドンチャン騒ぎのパーティーをするんだと。
まだ熊本災害も終息してないのに、不謹慎極まりねーよ! >>11
不謹慎厨極まりないな。
地球上のどこかで年中災害起きてるんだから一生不謹慎不謹慎言ってろよ。 横浜の野毛山にセーラームーンミュージアムさえできたら、
京急電鉄と相模鉄道は美少女戦士セーラームーンと神風怪盗ジャンヌの電車を、
京急はこれに加えフレッシュプリキュアからGO!プリンセスプリキュア、魔法つかいプリキュアの電車を、
京急・横浜市営・神奈中・相鉄のシャトルバス専用車両はセーラー戦士(京急はこれに加えフレッシュ以降のプリキュア)を
描いた車両走らせてもらいたいよ
京急バスの公式サイトではアンパンマンミュージアムのことについて触れているものの、
京急バス・川崎鶴見臨港バス・相鉄バスではアンパンマンバスを走らせていないからな 日産自動車栃木工場上三川寮 管理人は合鍵を使い従業員の部屋に無断で侵入。 抜き打ちで従業員の私物を全て調べるブラックの中のブラック企業。 2ちゃんねる愛用の方々にお知らせ
栃木県上三川町3-5-2
日産自動車上三川寮
管理人は合鍵を使い従業員の部屋に無断で侵入。 さ
抜き打ちで従業員の私物を全て調べるブラックの中のブラック企業。
期間工が看護師を殺害する事件もあった危険企業。
期間工に不審な攻撃を加えたとされる悪の一味。
主な悪人は日産栃木工場塗装課の長谷川、宮崎、瀬尾、照井、柏倉。
このコピペによる日産の悪事の拡散は
「柏倉真一」
を筆頭に日産正社員の断固たる要望である。自分は不自然に感じている。
0647 FROM名無しさan 2017/06/01 21:21:43
いいからこんなとこで油売ってないで早く100万コピペ達成してこいよwww
ほら早よ行けやホラホラwww
返信 ID:bEv8YiM0(7/7)
↑↑このように必死で日産の悪事を拡散しろと煽っている。俺は脳無しで馬鹿なので日産正社員が日産悪事を公表するように煽ってきた理由が分からない。不本意ながらコピペを続けている。
返信 ID:KcSIPAOM0 知り合いから教えてもらったPCさえあれば幸せ小金持ちになれるノウハウ
暇な人は見てみるといいかもしれません
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MOH28 慎太郎は咄嗟に身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。 そうして逞しい両腕に、しっかりお律を抱き上げていた。 誰もまだそこへ来ない何秒かの間、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。 わたしはこの温泉宿にもう一月ばかり滞在しています。 まず湯にはいったり、講談本を読んだり、狭い町を散歩したり、―― この間に桜の散っていること、鶺鴒の屋根へ来ること、射的に七円五十銭使ったこと、田舎芸者のこと、安来節芝居に驚いたこと、蕨狩りに行ったこと、消防の演習を見たこと、蟇口を落したことなどを記せる十数行あり。) それから次手に小説じみた事実談を一つ報告しましょう。 もっともわたしは素人ですから、小説になるかどうかはわかりません。 ただこの話を聞いた時にちょうど小説か何か読んだような心もちになったと言うだけのことです。 何でも明治三十年代に萩野半之丞と言う大工が一人、この町の山寄りに住んでいました。 萩野半之丞と言う名前だけ聞けば、いかなる優男かと思うかも知れません。 しかし身の丈六尺五寸、体重三十七貫と言うのですから、太刀山にも負けない大男だったのです。 いや、恐らくは太刀山も一籌を輸するくらいだったのでしょう。 の字さんと言う(これは国木田独歩の使った国粋的省略法に従ったのです。) 薬種問屋の若主人は子供心にも大砲よりは大きいと思ったと言うことです。 同時にまた顔は稲川にそっくりだと思ったと言うことです。 半之丞は誰に聞いて見ても、極人の好い男だった上に腕も相当にあったと言うことです。 けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑しいところを見ると、あるいはあらゆる大男並に総身に智慧が廻り兼ねと言う趣があったのかも知れません。 ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。 わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩の烈しい午後にこの温泉町を五十戸ばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。 が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折る間も惜しいように「お」 それを見た半之丞は後で断れば好いとでも思ったのでしょう。 いきなりその馬に跨って遮二無二街道を走り出しました。 しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。 それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵の手に大根畑を走り抜ける、蜜柑山をまっ直に駈け下りる、―― とうとうしまいには芋の穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。 こう言う災難に遇ったのですから、勿論火事などには間に合いません。 のみならず半之丞は傷だらけになり、這うようにこの町へ帰って来ました。 何でも後で聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬だったと言うことです。 ちょうどこの大火のあった時から二三年後になるでしょう、「お」 しかし体を売ったと云っても、何も昔風に一生奉公の約束をした訣ではありません。 ただ何年かたって死んだ後、死体の解剖を許す代りに五百円の金を貰ったのです。 いや、五百円の金を貰ったのではない、二百円は死後に受けとることにし、差し当りは契約書と引き換えに三百円だけ貰ったのです。 ではその死後に受けとる二百円は一体誰の手へ渡るのかと言うと、何でも契約書の文面によれば、「遺族または本人の指定したるもの」 実際またそうでもしなければ、残金二百円云々は空文に了るほかはなかったのでしょう、何しろ半之丞は妻子は勿論、親戚さえ一人もなかったのですから。 少くとも田舎大工の半之丞には大金だったのに違いありません。 半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計を買ったり、背広を拵えたり、「青ペン」 と言うのは亜鉛屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋です。 当時は今ほど東京風にならず、軒には糸瓜なども下っていたそうですから、女も皆田舎じみていたことでしょう。 もっともどのくらいの美人だったか、それはわたしにはわかりません。 の字亭のお上の話によれば、色の浅黒い、髪の毛の縮れた、小がらな女だったと言うことです。 わたしはこの婆さんにいろいろの話を聞かせて貰いました。 就中妙に気の毒だったのはいつも蜜柑を食っていなければ手紙一本書けぬと言う蜜柑中毒の客の話です。 しかしこれはまたいつか報告する機会を待つことにしましょう。 ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。 のお上と言うのは元来猫が嫌いだったものですから、苦情を言うの言わないのではありません。 しまいには飼い主のお松にさえ、さんざん悪態をついたそうです。 の字橋へ行き、青あおと澱んだ淵の中へ烏猫を抛りこんでしまいました。 が、とにかく婆さんの話によれば、発頭人のお上は勿論「青ペン」 半之丞の豪奢を極めたのは精々一月か半月だったでしょう。 何しろ背広は着て歩いていても、靴の出来上って来た時にはもうその代も払えなかったそうです。 下の話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。 の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁、元値に買っておくんなさい。 これが誰にでも穿ける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。 が、棟梁、お前さんの靴は仁王様の草鞋も同じなんだから」 けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。 この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。 けれども半之丞は靴屋の払いに不自由したばかりではありません。 それから一月とたたないうちに今度はせっかくの腕時計や背広までも売るようになって来ました。 ではその金はどうしたかと言えば、前後の分別も何もなしにお松につぎこんでしまったのです。 が、お松も半之丞に使わせていたばかりではありません。 の字のお上の話によれば、元来この町の達磨茶屋の女は年々夷講の晩になると、客をとらずに内輪ばかりで三味線を弾いたり踊ったりする、その割り前の算段さえ一時はお松には苦しかったそうです。 しかし半之丞もお松にはよほど夢中になっていたのでしょう。 何しろお松は癇癪を起すと、半之丞の胸ぐらをとって引きずり倒し、麦酒罎で擲りなどもしたものです。 けれども半之丞はどう言う目に遇っても、たいていは却って機嫌をとっていました。 もっとも前後にたった一度、お松がある別荘番の倅と「お」 の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒ったそうです。 けれども婆さんの話したままを書けば、半之丞は(作者註。 田園的嫉妬の表白としてさもあらんとは思わるれども、この間に割愛せざるべからざる数行あり) の字さんの知っているのはちょうどこの頃の半之丞でしょう。 勿論半之丞がお松に通いつめていたり、金に困っていたりしたことは全然「な」 の字さんは東京へ帰った後、差出し人萩野半之丞の小包みを一つ受けとりました。 嵩は半紙の一しめくらいある、が、目かたは莫迦に軽い、何かと思ってあけて見ると、「朝日」 の二十入りの空き箱に水を打ったらしい青草がつまり、それへ首筋の赤い蛍が何匹もすがっていたと言うことです。 の空き箱には空気を通わせるつもりだったと見え、べた一面に錐の穴をあけてあったと云うのですから、やはり半之丞らしいのには違いないのですが。 の字さんは翌年の夏にも半之丞と遊ぶことを考えていたそうです。 が、それは不幸にもすっかり当が外れてしまいました。 と言うのはその秋の彼岸の中日、萩野半之丞は「青ペン」 のお松に一通の遺書を残したまま、突然風変りの自殺をしたのです。 この説明はわたしの報告よりもお松宛の遺書に譲ることにしましょう。 もっともわたしの写したのは実物の遺書ではありません。 しかしわたしの宿の主人が切抜帖に貼っておいた当時の新聞に載っていたものですから、大体間違いはあるまいと思います。 「わたくし儀、金がなければお前様とも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末も出来ず、うき世がいやになり候間、死んでしまいます。 の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座候。) このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度、その金で「あ」 この町の人々もそんなことは夢にも考えなかったと言うことです。 若し少しでもその前に前兆らしいことがあったとすれば、それはこう言う話だけでしょう。 の字軒の主人は半之丞と店の前の縁台に話していました。 の字軒の屋根の上を火の玉が飛んで行ったと言いました。 すると半之丞は大真面目に「あれは今おらが口から出て行っただ」 自殺と言うことはこの時にもう半之丞の肚にあったのかも知れません。 それから幾日もたたないうちに半之丞は急に自殺したのです。 そのまた自殺も首を縊ったとか、喉を突いたとか言うのではありません。 と言う共同風呂がある、その温泉の石槽の中にまる一晩沈んでいた揚句、心臓痲痺を起して死んだのです。 の字軒の主人の話によれば、隣の煙草屋の上さんが一人、当夜かれこれ十二時頃に共同風呂へはいりに行きました。 この煙草屋の上さんは血の道か何かだったものですから、宵のうちにもそこへ来ていたのです。 半之丞はその時も温泉の中に大きな体を沈めていました。 が、今もまだはいっている、これにはふだんまっ昼間でも湯巻一つになったまま、川の中の石伝いに風呂へ這って来る女丈夫もさすがに驚いたと言うことです。 のみならず半之丞は上さんの言葉にうんだともつぶれたとも返事をしない、ただ薄暗い湯気の中にまっ赤になった顔だけ露わしている、それも瞬き一つせずにじっと屋根裏の電燈を眺めていたと言うのですから、無気味だったのに違いありません。 上さんはそのために長湯も出来ず、々風呂を出てしまったそうです。 半之丞はこの独鈷の前にちゃんと着物を袖だたみにし、遺書は側の下駄の鼻緒に括りつけてあったと言うことです。 何しろ死体は裸のまま、温泉の中に浮いていたのですから、若しその遺書でもなかったとすれば、恐らくは自殺かどうかさえわからずにしまったことでしょう。 わたしの宿の主人の話によれば、半之丞がこう言う死にかたをしたのは苟くも「た」 の字病院へ売り渡した以上、解剖用の体に傷をつけてはすまないと思ったからに違いないそうです。 もっともこれがあの町の定説と言う訣ではありません。 の字軒の主人などは、「何、すむやすまねえじゃねえ。 あれは体に傷をつけては二百両にならねえと思ったんです。」 しかしわたしは昨日の午後、わたしの宿の主人や「な」 の字さんと狭苦しい町を散歩する次手に半之丞の話をしましたから、そのことをちょっとつけ加えましょう。 もっともこの話に興味を持っていたのはわたしよりもむしろ「な」 の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡をかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋ねていました。 「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の子だったんですか?」 「いいや、子供は助かった代りに看病したお松が患いついたです。 医者は何とか言っていたですが、まあ看病疲れですな。」 小さい日本建の郵便局の前には若楓が枝を伸ばしています。 その枝に半ば遮られた、埃だらけの硝子窓の中にはずんぐりした小倉服の青年が一人、事務を執っているのが見えました。 の字さんもわたしも足を止めながら、思わず窓の中を覗きこみました。 その青年が片頬に手をやったなり、ペンが何かを動かしている姿は妙に我々には嬉しかったのです。 しかしどうも世の中はうっかり感心も出来ません、二三歩先に立った宿の主人は眼鏡越しに我々を振り返ると、いつか薄笑いを浮かべているのです。 雌蜘蛛は真夏の日の光を浴びたまま、紅い庚申薔薇の花の底に、じっと何か考えていた。 すると空に翅音がして、たちまち一匹の蜜蜂が、なぐれるように薔薇の花へ下りた。 ひっそりした真昼の空気の中には、まだ蜂の翅音の名残りが、かすかな波動を残していた。 雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。 蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊の下にひそんでいる蜜へ嘴を落していた。 紅い庚申薔薇の花びらは、やがて蜜に酔った蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿を吐いた。 蜂は必死に翅を鳴らしながら、無二無三に敵を刺そうとした。 花粉はその翅に煽られて、紛々と日の光に舞い上った。 が、蜘蛛はどうしても、噛みついた口を離さなかった。 人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。―― 一瞬の後、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横わっていた。 翅も脚もことごとく、香の高い花粉にまぶされながら、………… 雌蜘蛛はじっと身じろぎもせず、静に蜂の血を啜り始めた。 恥を知らない太陽の光は、再び薔薇に返って来た真昼の寂寞を切り開いて、この殺戮と掠奪とに勝ち誇っている蜘蛛の姿を照らした。 灰色の繻子に酷似した腹、黒い南京玉を想わせる眼、それから癩を病んだような、醜い節々の硬まった脚、―― それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。 こう云う残虐を極めた悲劇は、何度となくその後繰返された。 が、紅い庚申薔薇の花は息苦しい光と熱との中に、毎日美しく咲き狂っていた。―― その内に雌蜘蛛はある真昼、ふと何か思いついたように、薔薇の葉と花との隙間をくぐって、一つの枝の先へ這い上った。 先には土いきれに凋んだ莟が、花びらを暑熱にられながら、かすかに甘いを放っていた。 雌蜘蛛はそこまで上りつめると、今度はその莟と枝との間に休みない往来を続けだした。 と同時にまっ白な、光沢のある無数の糸が、半ばその素枯れた莟をからんで、だんだん枝の先へまつわり出した。 しばらくの後、そこには絹を張ったような円錐形の嚢が一つ、眩いほどもう白々と、真夏の日の光を照り返していた。 蜘蛛は巣が出来上ると、その華奢な嚢の底に、無数の卵を産み落した。 それからまた嚢の口へ、厚い糸の敷物を編んで、自分はその上に座を占めながら、さらにもう一天井、紗のような幕を張り渡した。 幕はまるで円頂閣のような、ただ一つの窓を残して、この獰猛な灰色の蜘蛛を真昼の青空から遮断してしまった。 産後の蜘蛛は、まっ白な広間のまん中に、痩せ衰えた体を横たえたまま、薔薇の花も太陽も蜂の翅音も忘れたように、たった一匹兀々と、物思いに沈んでいるばかりであった。 その間に蜘蛛の嚢の中では、無数の卵に眠っていた、新らしい生命が眼を覚ました。 それを誰より先に気づいたのは、あの白い広間のまん中に、食さえ断って横わっている、今は老い果てた母蜘蛛であった。 蜘蛛は糸の敷物の下に、いつの間にか蠢き出した、新らしい生命を感ずると、おもむろに弱った脚を運んで、母と子とを隔てている嚢の天井を噛み切った。 と云うよりはむしろその敷物自身が、百十の微粒分子になって、動き出したとも云うべきくらいであった。 仔蜘蛛はすぐに円頂閣の窓をくぐって、日の光と風との通っている、庚申薔薇の枝へなだれ出した。 彼等のある一団は炎暑を重く支えている薔薇の葉の上にひしめき合った。 またその一団は珍しそうに、幾重にも蜜のを抱いた薔薇の花の中へまぐれこんだ。 そうしてさらにまたある一団は、縦横に青空を裂いている薔薇の枝と枝との間へ、早くも眼には見えないほど、細い糸を張り始めた。 もし彼等に声があったら、この白日の庚申薔薇は、梢にかけたヴィオロンが自ら風に歌うように、鳴りどよんだのに違いなかった。 しかしその円頂閣の窓の前には、影のごとく痩せた母蜘蛛が、寂しそうに独り蹲っていた。 のみならずそれはいつまで経っても、脚一つ動かす気色さえなかった。 無数の仔蜘蛛を生んだ雌蜘蛛はそう云う産所と墓とを兼ねた、紗のような幕の天井の下に、天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。―― いつぞや上野の博物館で、明治初期の文明に関する展覧会が開かれていた時の事である。 ある曇った日の午後、私はその展覧会の各室を一々叮嚀に見て歩いて、ようやく当時の版画が陳列されている、最後の一室へはいった時、そこの硝子戸棚の前へ立って、古ぼけた何枚かの銅版画を眺めている一人の紳士が眼にはいった。 紳士は背のすらっとした、どこか花車な所のある老人で、折目の正しい黒ずくめの洋服に、上品な山高帽をかぶっていた。 私はこの姿を一目見ると、すぐにそれが四五日前に、ある会合の席上で紹介された本多子爵だと云う事に気がついた。 が、近づきになって間もない私も、子爵の交際嫌いな性質は、以前からよく承知していたから、咄嗟の間、側へ行って挨拶したものかどうかを決しかねた。 すると本多子爵は、私の足音が耳にはいったものと見えて、徐にこちらを振返ったが、やがてその半白な髭に掩われた唇に、ちらりと微笑の影が動くと、心もち山高帽を持ち上げながら、「やあ」 私はかすかな心の寛ぎを感じて、無言のまま、叮嚀にその会釈を返しながら、そっと子爵の側へ歩を移した。 本多子爵は壮年時代の美貌が、まだ暮方の光の如く肉の落ちた顔のどこかに、漂っている種類の人であった。 が、同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映が、もの思わしげな陰影を落していた。 私は先達ても今日の通り、唯一色の黒の中に懶い光を放っている、大きな真珠のネクタイピンを、子爵その人の心のように眺めたと云う記憶があった。…… 子爵は小声でこう云いながら、細い杖の銀の握りで、硝子戸棚の中の絵をさし示した。 雲母のような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗を翻した蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重めいた松の立木―― そこには取材と手法とに共通した、一種の和洋折衷が、明治初期の芸術に特有な、美しい調和を示していた。 この調和はそれ以来、永久に我々の芸術から失われた。 私が再び頷きながら、この築地居留地の図は、独り銅版画として興味があるばかりでなく、牡丹に唐獅子の絵を描いた相乗の人力車や、硝子取りの芸者の写真が開化を誇り合った時代を思い出させるので、一層懐しみがあると云った。 子爵はやはり微笑を浮べながら、私の言を聞いていたが、静にその硝子戸棚の前を去って、隣のそれに並べてある大蘇芳年の浮世絵の方へ、ゆっくりした歩調で歩みよると、 洋服を着た菊五郎と銀杏返しの半四郎とが、火入りの月の下で愁嘆場を出している所です。 あの江戸とも東京ともつかない、夜と昼とを一つにしたような時代が、ありありと眼の前に浮んで来るようじゃありませんか。」 私は本多子爵が、今でこそ交際嫌いで通っているが、その頃は洋行帰りの才子として、官界のみならず民間にも、しばしば声名を謳われたと云う噂の端も聞いていた。 だから今、この人気の少い陳列室で、硝子戸棚の中にある当時の版画に囲まれながら、こう云う子爵の言を耳にするのは、元より当然すぎるほど、ふさわしく思われる事であった。 が、一方ではまたその当然すぎる事が、多少の反撥を心に与えたので、私は子爵の言が終ると共に、話題を当時から引離して、一般的な浮世絵の発達へ運ぼうと思っていた。 しかし本多子爵は更に杖の銀の握りで、芳年の浮世絵を一つ一つさし示しながら、相不変低い声で、 「殊に私などはこう云う版画を眺めていると、三四十年前のあの時代が、まだ昨日のような心もちがして、今でも新聞をひろげて見たら、鹿鳴館の舞踏会の記事が出ていそうな気がするのです。 実を云うとさっきこの陳列室へはいった時から、もう私はあの時代の人間がみんなまた生き返って、我々の眼にこそ見えないが、そこにもここにも歩いている。―― そうしてその幽霊が時々我々の耳へ口をつけて、そっと昔の話を囁いてくれる。―― そんな怪しげな考えがどうしても念頭を離れないのです。 殊に今の洋服を着た菊五郎などは、余りよく私の友だちに似ているので、あの似顔絵の前に立った時は、ほとんど久闊を叙したいくらい、半ば気味の悪い懐しささえ感じました。 御嫌でなかったら、その友だちの話でも聞いて頂くとしましょうか。」 本多子爵はわざと眼を外らせながら、私の気をかねるように、落着かない調子でこう云った。 私は先達子爵と会った時に、紹介の労を執った私の友人が、「この男は小説家ですから、何か面白い話があった時には、聞かせてやって下さい。」 また、それがないにしても、その時にはもう私も、いつか子爵の懐古的な詠歎に釣りこまれて、出来るなら今にも子爵と二人で、過去の霧の中に隠れている「一等煉瓦」 子爵の言につれて我々は、陳列室のまん中に据えてあるベンチへ行って、一しょに腰を下ろした。 ただ、周囲には多くの硝子戸棚が、曇天の冷い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然と懸け並べていた。 本多子爵は杖の銀の握りに頤をのせて、しばらくはじっとこの子爵自身の「記憶」 のような陳列室を見渡していたが、やがて眼を私の方に転じると、沈んだ声でこう語り出した。 「その友だちと云うのは、三浦直樹と云う男で、私が仏蘭西から帰って来る船の中で、偶然近づきになったのです。 年は私と同じ二十五でしたが、あの芳年の菊五郎のように、色の白い、細面の、長い髪をまん中から割った、いかにも明治初期の文明が人間になったような紳士でした。 それが長い航海の間に、いつとなく私と懇意になって、帰朝後も互に一週間とは訪問を絶やした事がないくらい、親しい仲になったのです。 「三浦の親は何でも下谷あたりの大地主で、彼が仏蘭西へ渡ると同時に、二人とも前後して歿くなったとか云う事でしたから、その一人息子だった彼は、当時もう相当な資産家になっていたのでしょう。 私が知ってからの彼の生活は、ほんの御役目だけ第x銀行へ出るほかは、いつも懐手をして遊んでいられると云う、至極結構な身分だったのです。 ですから彼は帰朝すると間もなく、親の代から住んでいる両国百本杭の近くの邸宅に、気の利いた西洋風の書斎を新築して、かなり贅沢な暮しをしていました。 「私はこう云っている中にも、向うの銅板画の一枚を見るように、その部屋の有様が歴々と眼の前へ浮んで来ます。 大川に臨んだ仏蘭西窓、縁に金を入れた白い天井、赤いモロッコ皮の椅子や長椅子、壁に懸かっているナポレオン一世の肖像画、彫刻のある黒檀の大きな書棚、鏡のついた大理石の煖炉、それからその上に載っている父親の遺愛の松の盆栽―― すべてがある古い新しさを感じさせる、陰気なくらいけばけばしい、もう一つ形容すれば、どこか調子の狂った楽器の音を思い出させる、やはりあの時代らしい書斎でした。 しかもそう云う周囲の中に、三浦はいつもナポレオン一世の下に陣取りながら、結城揃いか何かの襟を重ねて、ユウゴオのオリアンタアルでも読んで居ようと云うのですから、いよいよあすこに並べてある銅板画にでもありそうな光景です。 そう云えばあの仏蘭西窓の外を塞いで、時々大きな白帆が通りすぎるのも、何となくもの珍しい心もちで眺めた覚えがありましたっけ。 「三浦は贅沢な暮しをしているといっても、同年輩の青年のように、新橋とか柳橋とか云う遊里に足を踏み入れる気色もなく、ただ、毎日この新築の書斎に閉じこもって、銀行家と云うよりは若隠居にでもふさわしそうな読書三昧に耽っていたのです。 これは勿論一つには、彼の蒲柳の体質が一切の不摂生を許さなかったからもありましょうが、また一つには彼の性情が、どちらかと云うと唯物的な当時の風潮とは正反対に、人一倍純粋な理想的傾向を帯びていたので、 自然と孤独に甘んじるような境涯に置かれてしまったのでしょう。 実際模範的な開化の紳士だった三浦が、多少彼の時代と色彩を異にしていたのは、この理想的な性情だけで、ここへ来ると彼はむしろ、もう一時代前の政治的夢想家に似通っている所があったようです。 「その証拠は彼が私と二人で、ある日どこかの芝居でやっている神風連の狂言を見に行った時の話です。 たしか大野鉄平の自害の場の幕がしまった後だったと思いますが、彼は突然私の方をふり向くと、『君は彼等に同情が出来るか。』 私は元よりの洋行帰りの一人として、すべて旧弊じみたものが大嫌いだった頃ですから、『いや一向同情は出来ない。 廃刀令が出たからと云って、一揆を起すような連中は、自滅する方が当然だと思っている。』 と、至極冷淡な返事をしますと、彼は不服そうに首を振って、『それは彼等の主張は間違っていたかもしれない。 しかし彼等がその主張に殉じた態度は、同情以上に価すると思う。』 そこで私がもう一度、『じゃ君は彼等のように、明治の世の中を神代の昔に返そうと云う子供じみた夢のために、二つとない命を捨てても惜しくないと思うのか。』 と、笑いながら反問しましたが、彼はやはり真面目な調子で、『たとい子供じみた夢にしても、 その時はこう云う彼の言も、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうその言の中に傷しい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。 が、それは追々話が進むに従って、自然と御会得が参るでしょう。 「何しろ三浦は何によらず、こう云う態度で押し通していましたから、結婚問題に関しても、『僕は愛のない結婚はしたくはない。』 と云う調子で、どんな好い縁談が湧いて来ても、惜しげもなく断ってしまうのです。 しかもそのまた彼の愛なるものが、一通りの恋愛とは事変って、随分彼の気に入っているような令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるようだから。』 などと云って、いよいよ結婚と云う所までは中々話が運びません。 それが側で見ていても、余り歯痒い気がするので、時には私も横合いから、『それは何でも君のように、隅から隅まで自分の心もちを点検してかかると云う事になると、行住坐臥さえ容易には出来はしない。 だからどうせ世の中は理想通りに行かないものだとあきらめて、好い加減な候補者で満足するさ。』 と、世話を焼いた事があるのですが、三浦は反ってその度に、憐むような眼で私を眺めながら、『そのくらいなら何もこの年まで、僕は独身で通しはしない。』 が、友だちはそれで黙っていても、親戚の身になって見ると、元来病弱な彼ではあるし、万一血統を絶やしてはと云う心配もなくはないので、せめて権妻でも置いたらどうだと勧めた向きもあったそうですが、元よりそんな忠告などに耳を借すような三浦ではありません。 いや、耳を借さない所か、彼はその権妻と云う言が大嫌いで、日頃から私をつかまえては、『何しろいくら開化したと云った所で、まだ日本では妾と云うものが公然と幅を利かせているのだから。』 ですから帰朝後二三年の間、彼は毎日あのナポレオン一世を相手に、根気よく読書しているばかりで、いつになったら彼の所謂『愛のある結婚』 をするのだか、とんと私たち友人にも見当のつけようがありませんでした。 「ところがその中に私はある官辺の用向きで、しばらく韓国京城へ赴任する事になりました。 すると向うへ落ち着いてから、まだ一月と経たない中に、思いもよらず三浦から結婚の通知が届いたじゃありませんか。 が、驚いたと同時に私は、いよいよ彼にもその愛の相手が出来たのだなと思うと、さすがに微笑せずにはいられませんでした。 通知の文面は極簡単なもので、ただ、藤井勝美と云う御用商人の娘と縁談が整ったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島の萩寺へ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋が藤井の父子と一しょに詣り合せたので、 つれ立って境内を歩いている中に、いつか互に見染めもし見染められもしたと云う次第なのです。 何しろ萩寺と云えば、その頃はまだ仁王門も藁葺屋根で、『ぬれて行く人もをかしや雨の萩』 と云う芭蕉翁の名高い句碑が萩の中に残っている、いかにも風雅な所でしたから、実際才子佳人の奇遇には誂え向きの舞台だったのに違いありません。 しかしあの外出する時は、必ず巴里仕立ての洋服を着用した、どこまでも開化の紳士を以て任じていた三浦にしては、余り見染め方が紋切型なので、すでに結婚の通知を読んでさえ微笑した私などは、いよいよ擽られるような心もちを禁ずる事が出来ませんでした。 こう云えば勿論縁談の橋渡しには、その骨董屋のなったと云う事も、すぐに御推察が参るでしょう。 それがまた幸いと、即座に話がまとまって、表向きの仲人を拵えるが早いか、その秋の中に婚礼も滞りなくすんでしまったのです。 ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑しいと同時に妬ましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の三浦が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。 「その頃の彼の手紙は、今でも私の手もとに保存してありますが、それを一々読み返すと、当時の彼の笑い顔が眼に見えるような心もちがします。 三浦は子供のような喜ばしさで、彼の日常生活の細目を根気よく書いてよこしました。 今年は朝顔の培養に失敗した事、上野の養育院の寄附を依頼された事、入梅で書物が大半黴びてしまった事、抱えの車夫が破傷風になった事、都座の西洋手品を見に行った事、蔵前に火事があった事―― 一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも一番嬉しそうだったのは、彼が五姓田芳梅画伯に依頼して、細君の肖像画を描いて貰ったと云う一条です。 その肖像画は彼が例のナポレオン一世の代りに、書斎の壁へ懸けて置きましたから、私も後に見ましたが、何でも束髪に結った勝美婦人が毛金の繍のある黒の模様で、薔薇の花束を手にしながら、姿見の前に立っている所を、横顔に描いたものでした。 が、それは見る事が出来ても、当時の快活な三浦自身は、とうとう永久に見る事が出来なかったのです。……」 本多子爵はこう云って、かすかな吐息を洩しながら、しばらくの間口を噤んだ。 じっとその話に聞き入っていた私は、子爵が韓国京城から帰った時、万一三浦はもう物故していたのではないかと思って、我知らず不安の眼を相手の顔に注がずにはいられなかった。 すると子爵は早くもその不安を覚ったと見えて、徐に頭を振りながら、 「しかし何もこう云ったからと云って、彼が私の留守中に故人になったと云う次第じゃありません。 ただ、かれこれ一年ばかり経って、私が再び内地へ帰って見ると、三浦はやはり落ち着き払った、むしろ以前よりは幽鬱らしい人間になっていたと云うだけです。 これは私があの新橋停車場でわざわざ迎えに出た彼と久闊の手を握り合った時、すでに私には気がついていた事でした。 いや恐らくは気がついたと云うよりも、その冷静すぎるのが気になったとでもいうべきなのでしょう。 実際その時私は彼の顔を見るが早いか、何よりも先に『どうした。 が、彼は反って私の怪しむのを不審がりながら、彼ばかりでなく彼の細君も至極健康だと答えるのです。 そう云われて見れば、成程一年ばかりの間に、いくら『愛のある結婚』 をしたからと云って、急に彼の性情が変化する筈もないと思いましたから、それぎり私も別段気にとめないで、『じゃ光線のせいで顔色がよくないように見えたのだろう』 この幽鬱な仮面に隠れている彼の煩悶に感づくまでには、まだおよそ二三箇月の時間が必要だったのです。 が、話の順序として、その前に一通り、彼の細君の人物を御話しして置く必要がありましょう。 「私が始めて三浦の細君に会ったのは、京城から帰って間もなく、彼の大川端の屋敷へ招かれて、一夕の饗応に預った時の事です。 聞けば細君はかれこれ三浦と同年配だったそうですが、小柄ででもあったせいか、誰の眼にも二つ三つ若く見えたのに相違ありません。 それが眉の濃い、血色鮮な丸顔で、その晩は古代蝶鳥の模様か何かに繻珍の帯をしめたのが、当時の言を使って形容すれば、いかにも高等な感じを与えていました。 が、三浦の愛の相手として、私が想像に描いていた新夫人に比べると、どこかその感じにそぐわない所があるのです。 もっともこれはどこかと云うくらいな事で、私自身にもその理由がはっきりとわかっていた訳じゃありません。 殊に私の予想が狂うのは、今度三浦に始めて会った時を始めとして、度々経験した事ですから、勿論その時もただふとそう思っただけで、別段それだから彼の結婚を祝する心が冷却したと云う訳でもなかったのです。 それ所か、明い空気洋燈の光を囲んで、しばらく膳に向っている間に、彼の細君の溌剌たる才気は、すっかり私を敬服させてしまいました。 俗に打てば響くと云うのは、恐らくあんな応対の仕振りの事を指すのでしょう。 『奥さん、あなたのような方は実際日本より、仏蘭西にでも御生れになればよかったのです。』―― とうとう私は真面目な顔をして、こんな事を云う気にさえなりました。 と、からかうように横槍を入れましたが、そのからかうような彼の言が、刹那の間私の耳に面白くない響を伝えたのは、果して私の気のせいばかりだったでしょうか。 いや、この時半ば怨ずる如く、斜に彼を見た勝美夫人の眼が、余りに露骨な艶かしさを裏切っているように思われたのは、果して私の邪推ばかりだったでしょうか。 とにかく私はこの短い応答の間に、彼等二人の平生が稲妻のように閃くのを、感じない訳には行かなかったのです。 今思えばあれは私にとって、三浦の生涯の悲劇に立ち合った最初の幕開きだったのですが、当時は勿論私にしても、ほんの不安の影ばかりが際どく頭を掠めただけで、後はまた元の如く、三浦を相手に賑な盃のやりとりを始めました。 ですからその夜は文字通り一夕の歓を尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端の川風に俥上の微醺を吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂『愛のある結婚』 「ところがそれから一月ばかり経って(元より私はその間も、度々彼等夫婦とは往来し合っていたのです。) ある日私が友人のあるドクトルに誘われて、丁度於伝仮名書をやっていた新富座を見物に行きますと、丁度向うの桟敷の中ほどに、三浦の細君が来ているのを見つけました。 その頃私は芝居へ行く時は、必ず眼鏡を持って行ったので、勝美夫人もその円い硝子の中に、燃え立つような掛毛氈を前にして、始めて姿を見せたのです。 それが薔薇かと思われる花を束髪にさして、地味な色の半襟の上に、白い二重顋を休めていましたが、私がその顔に気がつくと同時に、向うも例の艶しい眼をあげて、軽く目礼を送りました。 そこで私も眼鏡を下しながら、その目礼に答えますと、三浦の細君はどうしたのか、また慌てて私の方へ会釈を返すじゃありませんか。 しかもその会釈が、前のそれに比べると、遥に恭しいものなのです。 私はやっと最初の目礼が私に送られたのではなかったと云う事に気がつきましたから、思わず周囲の高土間を見まわして、その挨拶の相手を物色しました。 するとすぐ隣の桝に派手な縞の背広を着た若い男がいて、これも勝美夫人の会釈の相手をさがす心算だったのでしょう。 の高い巻煙草を啣えながら、じろじろ私たちの方を窺っていたのと、ぴったり視線が出会いました。 私はその浅黒い顔に何か不快な特色を見てとったので、咄嗟に眼を反らせながらまた眼鏡をとり上げて、見るともなく向うの桟敷を見ますと、三浦の細君のいる桝には、もう一人女が坐っているのです。 と云ったら、あるいは御聞き及びになった事がないものでもありますまい。 当時相当な名声のあった楢山と云う代言人の細君で、盛に男女同権を主張した、とかく如何わしい風評が絶えた事のない女です。 私はその楢山夫人が、黒の紋付の肩を張って、金縁の眼鏡をかけながら、まるで後見と云う形で、三浦の細君と並んでいるのを眺めると、何と云う事もなく不吉な予感に脅かされずにはいられませんでした。 しかもあの女権論者は、骨立った顔に薄化粧をして、絶えず襟を気にしながら、私たちのいる方へ―― と云うよりは恐らく隣の縞の背広の方へ、意味ありげな眼を使っているのです。 私はこの芝居見物の一日が、舞台の上の菊五郎や左団次より、三浦の細君と縞の背広と楢山の細君とを注意するのに、より多く費されたと云ったにしても、決して過言じゃありません。 それほど私は賑な下座の囃しと桜の釣枝との世界にいながら、心は全然そう云うものと没交渉な、忌わしい色彩を帯びた想像に苦しめられていたのです。 ですから中幕がすむと間もなく、あの二人の女連れが向うの桟敷にいなくなった時、私は実際肩が抜けたようなほっとした心もちを味わいました。 勿論女の方はいなくなっても、縞の背広はやはり隣の桝で、しっきりなく巻煙草をふかしながら、時々私の方へ眼をやっていましたが、三の巴の二つがなくなった今になっては、前ほど私もその浅黒い顔が、気にならないようになっていたのです。 「と云うと私がひどく邪推深いように聞えますが、これはその若い男の浅黒い顔だちが、妙に私の反感を買ったからで、どうも私とその男との間には、―― あるいは私たちとその男との間には、始めからある敵意が纏綿しているような気がしたのです。 ですからその後一月とたたない中に、あの大川へ臨んだ三浦の書斎で、彼自身その男を私に紹介してくれた時には、まるで謎でもかけられたような、当惑に近い感情を味わずにはいられませんでした。 何でも三浦の話によると、これは彼の細君の従弟だそうで、当時xx紡績会社でも歳の割には重用されている、敏腕の社員だと云う事です。 成程そう云えば一つ卓子の紅茶を囲んで、多曖もない雑談を交換しながら、巻煙草をふかせている間でさえ、彼が相当な才物だと云う事はすぐに私にもわかりました。 が、何も才物だからと云って、その人間に対する好悪は、勿論変る訳もありません。 いや、私は何度となく、すでに細君の従弟だと云う以上、芝居で挨拶を交すくらいな事は、さらに不思議でも何でもないじゃないかと、こう理性に訴えて、出来るだけその男に接近しようとさえ努力して見ました。 しかし私がその努力にやっと成功しそうになると、彼は必ず音を立てて紅茶を啜ったり、巻煙草の灰を無造作に卓子の上へ落したり、あるいはまた自分の洒落を声高に笑ったり、何かしら不快な事をしでかして、再び私の反感を呼び起してしまうのです。 ですから彼が三十分ばかり経って、会社の宴会とかへ出るために、暇を告げて帰った時には、私は思わず立ち上って、部屋の中の俗悪な空気を新たにしたい一心から、川に向った仏蘭西窓を一ぱいに大きく開きました。 すると三浦は例の通り、薔薇の花束を持った勝美夫人の額の下に坐りながら、『ひどく君はあの男が嫌いじゃないか。』 三浦はしばらくの間黙って、もう夕暮の光が漂っている大川の水面をじっと眺めていましたが、やがて『どうだろう。 が、私は何よりもあの細君の従弟から、話題の離れるのが嬉しかったので、『よかろう。 と、急に元気よく答えますと、三浦も始めて微笑しながら、『外交よりか、じゃ僕は―― 私『すると君の細君以上の獲物がありそうだと云う事になるが。』 三浦『そうしたらまた君に羨んで貰うから好いじゃないか。』 私はこう云う三浦の言の底に、何か針の如く私の耳を刺すものがあるのに気がつきました。 が、夕暗の中に透して見ると、彼は相不変冷な表情を浮べたまま、仏蘭西窓の外の水の光を根気よく眺めているのです。 そこで私は徐に赤いモロッコ皮の椅子を離れながら、無言のまま、彼と握手を交して、 それからこの秘密臭い薄暮の書斎を更にうす暗い外の廊下へ、そっと独りで退きました。 すると思いがけなくその戸口には、誰やら黒い人影が、まるで中の容子でも偸み聴いていたらしく、静に佇んでいたのです。 しかもその人影は、私の姿が見えるや否や、咄嗟に間近く進み寄って、『あら、もう御帰りになるのでございますか。』 私は息苦しい一瞬の後、今日も薔薇を髪にさした勝美夫人を冷に眺めながら、やはり無言のまま会釈をして、々俥の待たせてある玄関の方へ急ぎました。 この時の私の心もちは、私自身さえ意識出来なかったほど、混乱を極めていたのでしょう。 私はただ、私の俥が両国橋の上を通る時も、絶えず口の中で呟いていたのは、「ダリラ」 「それ以来私は明に三浦の幽鬱な容子が蔵している秘密のを感じ出しました。 勿論その秘密のが、すぐ忌むべき姦通の二字を私の心に烙きつけたのは、御断りするまでもありますまい。 が、もしそうだとすれば、なぜまたあの理想家の三浦ともあるものが、離婚を断行しないのでしょう。 姦通の疑惑は抱いていても、その証拠がないからでしょうか。 それともあるいは証拠があっても、なお離婚を躊躇するほど、勝美夫人を愛しているからでしょうか。 私はこんな臆測を代り代り逞くしながら、彼と釣りに行く約束があった事さえ忘れ果てて、かれこれ半月ばかりの間というものは、手紙こそ時には書きましたが、あれほどしばしば訪問した彼の大川端の邸宅にも、足踏さえしなくなってしまいました。 ところがその半月ばかりが過ぎてから、私はまた偶然にもある予想外な事件に出合ったので、とうとう前約を果し旁、彼と差向いになる機会を利用して、直接彼に私の心労を打ち明けようと思い立ったのです。 「と云うのはある日の事、私はやはり友人のドクトルと中村座を見物した帰り途に、たしか珍竹林主人とか号していた曙新聞でも古顔の記者と一しょになって、日の暮から降り出した雨の中を、当時柳橋にあった生稲へ一盞を傾けに行ったのです。 所がそこの二階座敷で、江戸の昔を偲ばせるような遠三味線の音を聞きながら、しばらく浅酌の趣を楽んでいると、その中に開化の戯作者のような珍竹林主人が、ふと興に乗って、折々軽妙な洒落を交えながら、あの楢山夫人の醜聞を面白く話して聞かせ始めました。 何でも夫人の前身は神戸あたりの洋妾だと云う事、一時は三遊亭円暁を男妾にしていたと云う事、その頃は夫人の全盛時代で金の指環ばかり六つも嵌めていたと云う事、それが二三年前から不義理な借金で、ほとんど首もまわらないと云う事―― 珍竹林主人はまだこのほかにも、いろいろ内幕の不品行を素っぱぬいて聞かせましたが、中でも私の心の上に一番不愉快な影を落したのは、近来はどこかの若い御新造が楢山夫人の腰巾着になって、歩いていると云う風評でした。 しかもこの若い御新造は、時々女権論者と一しょに、水神あたりへ男連れで泊りこむらしいと云うじゃありませんか。 私はこれを聞いた時には、陽気なるべき献酬の間でさえ、もの思わしげな三浦の姿が執念く眼の前へちらついて、義理にも賑やかな笑い声は立てられなくなってしまいました。 が、幸いとドクトルは、早くも私のふさいでいるのに気がついたものと見えて、巧に相手を操りながら、いつか話題を楢山夫人とは全く縁のない方面へ持って行ってくれましたから、私はやっと息をついて、ともかく一座の興を殺がない程度に、応対を続ける事が出来たのです。 しかしその晩は私にとって、どこまでも運悪く出来上っていたのでしょう。 女権論者の噂に気を腐らした私が、やがて二人と一しょに席を立って、生稲の玄関から帰りの俥へ乗ろうとしていると、急に一台の相乗俥が幌を雨に光らせながら、勢いよくそこへ曳きこみました。 しかも私が俥の上へ靴の片足を踏みかけたのと、向うの俥が桐油を下して、中の一人が沓脱ぎへ勢いよく飛んで下りたのとが、ほとんど同時だったのです。 私はその姿を見るが早いか、素早く幌の下へ身を投じて、車夫が梶棒を上げる刹那の間も、異様な興奮に動かされながら、『あいつだ。』 あいつと云うのは別人でもない、三浦の細君の従弟と称する、あの色の浅黒い縞の背広だったのです。 ですから私は雨の脚を俥の幌に弾きながら、燈火の多い広小路の往来を飛ぶように走って行く間も、あの相乗俥の中に乗っていた、もう一人の人物を想像して、何度となく恐しい不安の念に脅かされました。 あるいはまた束髪に薔薇の花をさした勝美夫人だったでしょうか。 私は独りこのどちらともつかない疑惑に悩まされながら、むしろその疑惑の晴れる事を恐れて、倉皇と俥に身を隠した私自身の臆病な心もちが、腹立たしく思われてなりませんでした。 このもう一人の人物が果して三浦の細君だったか、それとも女権論者だったかは、今になってもなお私には解く事の出来ない謎なのです。」 本多子爵はどこからか、大きな絹の手巾を出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻して、静にまた話を続け始めた。 「もっともこの問題はいずれにせよ、とにかく珍竹林主人から聞いた話だけは、三浦の身にとって三考にも四考にも価する事ですから、私はその翌日すぐに手紙をやって、保養がてら約束の釣に出たいと思う日を知らせました。 するとすぐに折り返して、三浦から返事が届きましたが、見るとその日は丁度十六夜だから、釣よりも月見旁、日の暮から大川へ舟を出そうと云うのです。 勿論私にしても格別釣に執着があった訳でもありませんから、早速彼の発議に同意して、当日は兼ねての約束通り柳橋の舟宿で落合ってから、まだ月の出ない中に、猪牙舟で大川へ漕ぎ出しました。 「あの頃の大川の夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったかも知れませんが、それでもなお、どこか浮世絵じみた美しさが残っていたものです。 現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う提灯ばかりが、 私『そうさな、こればかりはいくら見たいと云ったって、西洋じゃとても見られない景色かも知れない。』 三浦『すると君は景色なら、少しくらい旧弊でも差支えないと云う訳か。』 三浦『所が僕はまた近頃になって、すっかり開化なるものがいやになってしまった。』 私『何んでも旧幕の修好使がヴルヴァルを歩いているのを見て、あの口の悪いメリメと云うやつは、側にいたデュマか誰かに「おい、 誰が一体日本人をあんな途方もなく長い刀に縛りつけたのだろう。」 君なんぞは気をつけないと、すぐにメリメの毒舌でこき下される仲間らしいな。』 いつか使に来た何如璋と云う支那人は、横浜の宿屋へ泊って日本人の夜着を見た時に、「是古の寝衣なるもの、此邦に夏周の遺制あるなり。」 だから何も旧弊だからって、一概には莫迦に出来ない。』 その中に上げ汐の川面が、急に闇を加えたのに驚いて、ふとあたりを見まわすと、いつの間にか我々を乗せた猪牙舟は、一段と櫓の音を早めながら、今ではもう両国橋を後にして、夜目にも黒い首尾の松の前へ、 そこで私は一刻も早く、勝美夫人の問題へ話題を進めようと思いましたから、早速三浦の言尻をつかまえて、『そんなに君が旧弊好きなら、あの開化な細君はどうするのだ。』 すると三浦はしばらくの間、私の問が聞えないように、まだ月代もしない御竹倉の空をじっと眺めていましたが、やがてその眼を私の顔に据えると、低いながらも力のある声で、『どうもしない。 私はこの意外な答に狼狽して、思わず舷をつかみながら、『じゃ君も知っていたのか。』 三浦は依然として静な調子で、『君こそ万事を知っていたのか。』 私『万事かどうかは知らないが、君の細君と楢山夫人との関係だけは聞いていた。』 丁度あの妻の肖像画を、五姓田芳梅画伯に依頼して描いて貰う前の事だった。』 この答が私にとって、さらにまた意外だったのは、大抵御想像がつくでしょう。 私『どうして君はまた、今日までそんな事を黙認していたのだ?』 私は三度意外な答に驚かされて、しばらくはただ茫然と彼の顔を見つめていると、三浦は少しも迫らない容子で、『それは勿論妻と妻の従弟との現在の関係を肯定した訳じゃない。 当時の僕が想像に描いていた彼等の関係を肯定してやったのだ。 あれは僕が僕の利己心を満足させたいための主張じゃない。 だから僕は結婚後、僕等の間の愛情が純粋なものでない事を覚った時、一方僕の軽挙を後悔すると同時に、そう云う僕と同棲しなければならない妻も気の毒に感じたのだ。 その上僕は妻を愛そうと思っていても、妻の方ではどうしても僕を愛す事が出来ないのだ、いやこれも事によると、抑僕の愛なるものが、相手にそれだけの熱を起させ得ないほど、貧弱なものだったかも知れない。 だからもし妻と妻の従弟との間に、僕と妻との間よりもっと純粋な愛情があったら、僕は潔く幼馴染の彼等のために犠牲になってやる考だった。 そうしなければ愛をすべての上に置く僕の主張が、事実において廃ってしまう。 実際あの妻の肖像画も万一そうなった暁に、妻の身代りとして僕の書斎に残して置く心算だったのだ。』 三浦はこう云いながら、また眼を向う河岸の空へ送りました。 が、空はまるで黒幕でも垂らしたように、椎の樹松浦の屋敷の上へ陰々と蔽いかかったまま、月の出らしい雲のけはいは未に少しも見えませんでした。 三浦『所が僕はそれから間もなく、妻の従弟の愛情が不純な事を発見したのだ。 露骨に云えばあの男と楢山夫人との間にも、情交のある事を発見したのだ。 どうして発見したかと云うような事は、君も格別聞きたくはなかろうし、僕も今更話したいとは思わない。 が、とにかくある極めて偶然な機会から、僕自身彼等の密会する所を見たと云う事だけ云って置こう。』 私は巻煙草の灰を舷の外に落しながら、あの生稲の雨の夜の記憶を、まざまざと心に描き出しました。 が、三浦は澱みなく言を継いで、『これが僕にとっては、正に第一の打撃だった。 僕は彼等の関係を肯定してやる根拠の一半を失ったのだから、勢い、前のような好意のある眼で、彼等の情事を見る事が出来なくなってしまったのだ。 これは確か、君が朝鮮から帰って来た頃の事だったろう。 あの頃の僕は、いかにして妻の従弟から妻を引き離そうかと云う問題に、毎日頭を悩ましていた。 あの男の愛に虚偽はあっても、妻のそれは純粋なのに違いない。―― こう信じていた僕は、同時にまた妻自身の幸福のためにも、彼等の関係に交渉する必要があると信じていたのだ。 少くとも妻は、僕のこう云う素振りに感づくと、僕が今まで彼等の関係を知らずにいて、その頃やっと気がついたものだから、嫉妬に駆られ出したとでも解釈してしまったらしい。 従って僕の妻は、それ以来僕に対して、敵意のある監視を加え始めた。 いや、事によると時々は、君にさえ僕と同様の警戒を施していたかも知れない。』 私『そう云えば、いつか君の細君は、書斎で我々が話しているのを立ち聴きをしていた事があった。』 私たちはしばらく口を噤んで、暗い川面を眺めました。 この時もう我々の猪牙舟は、元の御厩橋の下をくぐりぬけて、かすかな舟脚を夜の水に残しながら、彼是駒形の並木近くへさしかかっていたのです。 その中にまた三浦が、沈んだ声で云いますには、『が、僕はまだ妻の誠実を疑わなかった。 通じない所か、むしろ憎悪を買っている点で、それだけ余計に僕は煩悶した。 君を新橋に出迎えて以来、とうとう今日に至るまで、僕は始終この煩悶と闘わなければならなかったのだ。 が、一週間ばかり前に、下女か何かの過失から、妻の手にはいる可き郵便が、僕の書斎へ来ているじゃないか。 すると、その手紙は思いもよらないほかの男から妻へ宛てた艶書だったのだ。 言い換えれば、あの男に対する妻の愛情も、やはり純粋なものじゃなかったのだ。 勿論この第二の打撃は、第一のそれよりも遥に恐しい力を以て、あらゆる僕の理想を粉砕した。 が、それと同時にまた、僕の責任が急に軽くなったような、悲しむべき安慰の感情を味った事もまた事実だった。』 三浦がこう語り終った時、丁度向う河岸の並倉の上には、もの凄いように赤い十六夜の月が、始めて大きく上り始めました。 私はさっきあの芳年の浮世絵を見て、洋服を着た菊五郎から三浦の事を思い出したのは、殊にその赤い月が、あの芝居の火入りの月に似ていたからの事だったのです。 あの色の白い、細面の、長い髪をまん中から割った三浦は、こう云う月の出を眺めながら、急に長い息を吐くと、さびしい微笑を帯びた声で、『君は昔、神風連が命を賭して争ったのも子供の夢だとけなした事がある。 が、今日我々の目標にしている開化も、百年の後になって見たら、やはり同じ子供の夢だろうじゃないか。……』」 丁度本多子爵がここまで語り続けた時、我々はいつか側へ来た守衛の口から、閉館の時刻がすでに迫っていると云う事を伝えられた。 子爵と私とは徐に立上って、もう一度周囲の浮世絵と銅版画とを見渡してから、そっとこのうす暗い陳列室の外へ出た。 まるで我々自身も、あの硝子戸棚から浮び出た過去の幽霊か何かのように。 から借覧する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎(仮名) 北畠ドクトルは、よし実名を明にした所で、もう今は知つてゐる人もあるまい。 予自身も、本多子爵に親炙して、明治初期の逸事瑣談を聞かせて貰ふやうになつてから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。 彼の人物性行は、下の遺書によつても幾分の説明を得るに相違ないが、猶二三、予が仄聞した事実をつけ加へて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だつたと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持つてゐた、一種の劇通だつたと云ふ。 現に後者に関しては、ドクトル自身の手になつた戯曲さへあつて、それはヴオルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だつたさうである。 北庭筑波が撮影した写真を見ると、北畠ドクトルは英吉利風の頬髯を蓄へた、容貌魁偉な紳士である。 本多子爵によれば、体格も西洋人を凌ぐばかりで、少年時代から何をするのでも、精力抜群を以て知られてゐたと云ふ。 さう云へば遺書の文字さへ、鄭板橋風の奔放な字で、その淋漓たる墨痕の中にも、彼の風貌が看取されない事もない。 勿論予はこの遺書を公にするに当つて、幾多の改竄を施した。 譬へば当時まだ授爵の制がなかつたにも関らず、後年の称に従つて本多子爵及夫人等の名を用ひた如きものである。 唯、その文章の調子に至つては、殆原文の調子をそつくりその儘、ひき写したと云つても差支へない。 予は予が最期に際し、既往三年来、常に予が胸底に蟠れる、呪ふ可き秘密を告白し、以て卿等の前に予が醜悪なる心事を暴露せんとす。 卿等にして若しこの遺書を読むの後、猶卿等の故人たる予の記憶に対し、一片憐憫の情を動す事ありとせんか、そは素より予にとりて、望外の大幸なり。 されど又予を目して、万死の狂徒と做し、当に屍に鞭打つて後已む可しとするも、予に於ては毫も遺憾とする所なし。 唯、予が告白せんとする事実の、余りに意想外なるの故を以て、妄に予を誣ふるに、神経病患者の名を藉る事勿れ。 予は最近数ヶ月に亘りて、不眠症の為に苦しみつつありと雖も、予が意識は明白にして、且極めて鋭敏なり。 若し卿等にして、予が二十年来の相識たるを想起せんか。 然らずんば、予が一生の汚辱を披瀝せんとする此遺書の如きも、結局無用の故紙たると何の選ぶ所か是あらん。 閣下、並に夫人、予は過去に於て殺人罪を犯したると共に、将来に於ても亦同一罪悪を犯さんとしたる卑む可き危険人物なり。 しかもその犯罪が卿等に最も親近なる人物に対して、企画せられたるのみならず、又企画せられんとしたりと云ふに至りては、卿等にとりて正に意外中の意外たる可し。 予は是に於て、予が警告を再するの、必要なる所以を感ぜざる能はず。 而して予が生涯の唯一の記念たる、この数枚の遺書をして、空しく狂人の囈語たらしむる事勿れ。 予が生存すべき僅少なる時間は、直下に予を駆りて、予が殺人の動機と実行とを叙し、更に進んで予が殺人後の奇怪なる心境に言及せしめずんば、已まざらんとす。 されど、嗚呼されど、予は硯に呵し紙に臨んで、猶惶々として自ら安からざるものあるを覚ゆ。 惟ふに予が過去を点検し記載するは、予にとりて再過去の生活を営むと、畢竟何の差違かあらん。 予は殺人の計画を再し、その実行を再し、更に最近一年間の恐る可き苦悶を再せざる可らず。 予は今にして、予が数年来失却したる我耶蘇基督に祈る。 予は少時より予が従妹たる今の本多子爵夫人(三人称を以て、呼ぶ事を許せ) 予の記憶に溯りて、予が明子と偕にしたる幸福なる時間を列記せんか。 されど予はその例証として、今日も猶予が胸底に歴々たる一場の光景を語らざるを得ず。 予は当時十六歳の少年にして、明子は未十歳の少女なりき。 五月某日予等は明子が家の芝生なる藤棚の下に嬉戯せしが、明子は予に対して、隻脚にて善く久しく立つを得るやと問ひぬ。 而して予が否と答ふるや、彼女は左手を垂れて左の趾を握り、右手を挙げて均衡を保ちつつ、隻脚にて立つ事、是を久うしたりき。 頭上の紫藤は春日の光りを揺りて垂れ、藤下の明子は凝然として彫塑の如く佇めり。 予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。 私に自ら省みて、予が心既に深く彼女を愛せるに驚きしも、実にその藤棚の下に於て然りしなり。 爾来予の明子に対する愛は益烈しきを加へ、念々に彼女を想ひて、殆学を廃するに至りしも、予の小心なる、遂に一語の予が衷心を吐露す可きものを出さず。 陰晴定りなき感情の悲天の下に、或は泣き、或は笑ひて、茫々数年の年月を閲せしが、予の二十一歳に達するや、予が父は突然予に命じて、遠く家業たる医学を英京竜動に学ばしめぬ。 予は訣別に際して、明子に語るに予が愛を以てせんとせしも、厳粛なる予等が家庭は、斯る機会を与ふるに吝なりしと共に、儒教主義の教育を受けたる予も、亦桑間濮上の譏を惧れたるを以て、無限の離愁を抱きつつ、孤笈飄然として英京に去れり。 英吉利留学の三年間、予がハイド・パアクの芝生に立ちて、如何に故園の紫藤花下なる明子を懐ひしか、或は又予がパルマルの街頭を歩して、如何に天涯の遊子たる予自身を憫みしか、そは茲に叙説するの要なかる可し。 予は唯、竜動に在るの日、予が所謂薔薇色の未来の中に、来る可き予等の結婚生活を夢想し、以て僅に悶々の情を排せしを語れば足る。 然り而して予の英吉利より帰朝するや、予は明子の既に嫁して第x銀行頭取満村恭平の妻となりしを知りぬ。 予は即座に自殺を決心したれども、予が性来の怯懦と、留学中帰依したる基督教の信仰とは、不幸にして予が手を麻痺せしめしを如何。 卿等にして若し当時の予が、如何に傷心したるかを知らんとせば、予が帰朝後旬日にして、再英京に去らんとし、為に予が父の激怒を招きたるの一事を想起せよ。 当時の予が心境を以てすれば、実に明子なきの日本は、故国に似て故国にあらず、この故国ならざる故国に止つて、徒に精神的敗残者たるの生涯を送らんよりは、寧チヤイルド・ハロルドの一巻を抱いて、遠く万里の孤客となり、 骨を異域の土に埋むるの遙に慰む可きものあるを信ぜしなり。 されど予が身辺の事情は遂に予をして渡英の計画を抛棄せしめ、加之予が父の病院内に、一個新帰朝のドクトルとして、多数患者の診療に忙殺さる可き、退屈なる椅子に倚らしめ了りぬ。 当時築地に在住したる英吉利宣教師ヘンリイ・タウンゼンド氏は、この間に於ける予の忘れ難き友人にして、予の明子に対する愛が、幾多の悪戦苦闘の後、漸次熱烈にしてしかも静平なる肉親的感情に変化したるは、一に同氏が予の為に釈義したる聖書の数章の結果なりき。 予は屡、同氏と神を論じ、神の愛を論じ、更に人間の愛を論じたるの後、半夜行人稀なる築地居留地を歩して、独り予が家に帰りしを記憶す。 若し卿等にして予が児女の情あるを哂はずんば、予は居留地の空なる半輪の月を仰ぎて、私に従妹明子の幸福を神に祈り、感極つて歔欷せしを語るも善し。 の心理を以て、説明す可きものなりや否や、予は之を詳にする勇気と余裕とに乏しけれど、予がこの肉親的愛情によりて、始めて予が心の創痍を医し得たるの一事は疑ふ可らず。 是を以て帰朝以来、明子夫妻の消息を耳にするを蛇蝎の如く恐れたる予は、今や予がこの肉親的愛情に依頼し、進んで彼等に接近せん事を希望したり。 こは予にして若し彼等に幸福なる夫妻を見出さんか、予の慰安の益大にして、念頭些の苦悶なきに至る可しと、早計にも信じたるが故のみ。 予はこの信念に動かされし結果、遂に明治十一年八月三日両国橋畔の大煙火に際し、知人の紹介を機会として、折から校書十数輩と共に柳橋万八の水楼に在りし、明子の夫満村恭平と、始めて一夕の歓を倶にしたり。 歓か、歓か、予はその苦と云ふの、遙に勝れる所以を思はざる能はず。 予は日記に書して曰、「予は明子にして、かの満村某の如き、濫淫の賤貨に妻たるを思へば、殆一肚皮の憤怨何の処に向つてか吐かんとするを知らず。 神は予に明子を見る事、妹の如くなる可きを教へ給へり。 然り而して予が妹を、斯る禽獣の手に委せしめ給ひしは、何ぞや。 予は最早、この残酷にして奸譎なる神の悪戯に堪ふる能はず。 誰か善くその妻と妹とを強人の為に凌辱せられ、しかも猶天を仰いで神の御名を称ふ可きものあらむ。 予は今後断じて神に依らず、予自身の手を以て、予が妹明子をこの色鬼の手より救助す可し。」 予はこの遺書を認むるに臨み、再当時の呪ふ可き光景の、眼前に彷彿するを禁ずる能はず。 かの蒼然たる水靄と、かの万点の紅燈と、而してかの隊々相銜んで、尽くる所を知らざる画舫の列と―― 嗚呼、予は終生その夜、その半空に仰ぎたる煙火の明滅を記憶すると共に、右に大妓を擁し、左に雛妓を従へ、猥褻聞くに堪へざるの俚歌を高吟しつつ、傲然として涼棚の上に酣酔したる、かの肥大豕の如き満村恭平をも記憶す可し。 否、否、彼の黒絽の羽織に抱明姜の三つ紋ありしさへ、今に至つて予は忘却する能はざるなり。 予が彼を殺害せんとするの意志を抱きしは、実にこの水楼煙火を見しの夕に始る事を。 予が殺人の動機なるものは、その発生の当初より、断じて単なる嫉妬の情にあらずして、寧不義を懲し不正を除かんとする道徳的憤激に存せし事を。 爾来予は心を潜めて、満村恭平の行状に注目し、その果して予が一夕の観察に悖らざる痴漢なりや否やを検査したり。 幸にして予が知人中、新聞記者を業とするもの、啻に二三子に止らざりしを以て、彼が淫虐無道の行跡の如きも、その予が視聴に入らざるものは絶無なりしと云ふも妨げざる可し。 予が先輩にして且知人たる成島柳北先生より、彼が西京祇園の妓楼に、雛妓の未春を懐かざるものを梳して、以て死に到らしめしを仄聞せしも、実に此間の事に属す。 しかもこの無頼の夫にして、夙に温良貞淑の称ある夫人明子を遇するや、奴婢と一般なりと云ふに至つては、誰か善く彼を目して、人間の疫癘と做さざるを得んや。 既に彼を存するの風を頽し俗を濫る所以なるを知り、彼を除くの老を扶け幼を憐む所以なるを知る。 是に於て予が殺害の意志たりしものは、徐に殺害の計画と変化し来れり。 然れども若し是に止らんか、予は恐らく予が殺人の計画を実行するに、猶幾多の逡巡なきを得ざりしならん。 幸か、抑亦不幸か、運命はこの危険なる時期に際して、予を予が年少の友たる本多子爵と、一夜墨上の旗亭柏屋に会せしめ、以て酒間その口より一場の哀話を語らしめたり。 予はこの時に至つて、始めて本多子爵と明子とが、既に許嫁の約ありしにも関らず、彼、満村恭平が黄金の威に圧せられて、遂に破約の已む無きに至りしを知りぬ。 かの酒燈一穂、画楼簾裡に黯淡たるの処、本多子爵と予とが杯を含んで、満村を痛罵せし当時を思へば、予は今に至つて自ら肉動くの感なきを得ず。 されど同時に又、当夜人力車に乗じて、柏屋より帰るの途、本多子爵と明子との旧契を思ひて、一種名状す可らざる悲哀を感ぜしも、予は猶明に記憶する所なり。 「予は今夕本多子爵と会してより、愈旬日の間に満村恭平を殺害す可しと決心したり。 子爵の口吻より察するに、彼と明子とは、独り許嫁の約ありしのみならず、又実に相愛の情を抱きたるものの如し。 (予は今日にして、子爵の独身生活の理由を発見し得たるを覚ゆ) 若し予にして満村を殺害せんか、子爵と明子とが伉儷を完うせんは、必しも難事にあらず。 偶明子の満村に嫁して、未一児を挙げざるは、恰も天意亦予が計画を扶くるに似たるの観あり。 予はかの獣心の巨紳を殺害するの結果、予の親愛なる子爵と明子とが、早晩幸福なる生活に入らんとするを思ひ、自ら口辺の微笑を禁ずる事能はず。」 今や予が殺人の計画は、一転して殺人の実行に移らんとす。 予は幾度か周密なる思慮に思慮を重ねたるの後、漸くにして満村を殺害す可き適当なる場所と手段とを選定したり。 その何処にして何なりしかは、敢て詳細なる叙述を試みるの要なかる可し。 卿等にして猶明治十二年六月十二日、独逸皇孫殿下が新富座に於て日本劇を見給ひしの夜、彼、満村恭平が同戯場よりその自邸に帰らんとするの途次、馬車中に於て突如病死したる事実を記憶せんか、予は新富座に於て満村の血色宜しからざる由を説き、 これに所持の丸薬の服用を勧誘したる、一個壮年のドクトルありしを語れば足る。 彼は々たる紅球燈の光を浴びて、新富座の木戸口に佇みつつ、霖雨の中に奔馳し去る満村の馬車を目送するや、昨日の憤怨、今日の歓喜、均しく胸中に蝟集し来り、笑声嗚咽共に唇頭に溢れんとして、殆処の何処たる、時の何時たるを忘却したりき。 しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭雨を犯し泥濘を踏んで、狂せる如く帰途に就きしの時、彼の呟いて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。―― 唯、或云ひ難き強烈なる感情は、予の全身を支配して、一霎時たりと雖も、予をして安坐せざらしむるを如何。 予は殆、天使と悪魔とを左右にして、奇怪なる饗宴を開きしが如くなりき……。」 予は爾来数ヶ月の如く、幸福なる日子を閲せし事あらず。 満村の死因は警察医によりて、予の予想と寸分の相違もなく、脳出血の病名を与へられ、即刻地下六尺の暗黒に、腐肉を虫蛆の食としたるが如し。 既に然り、誰か又予を目して、殺人犯の嫌疑ありと做すものあらん。 しかも仄聞する所によれば、明子はその良人の死に依りて、始めて蘇色ありと云ふにあらずや。 予は満面の喜色を以て予の患者を診察し、閑あれば即本多子爵と共に、好んで劇を新富座に見たり。 是全く予にとりては、予が最後の勝利を博せし、光栄ある戦場として、屡その花瓦斯とその掛毛氈とを眺めんとする、不思議なる欲望を感ぜしが為のみ。 この幸福なる数ヶ月の経過すると共に、予は漸次予が生涯中最も憎む可き誘惑と闘ふ可き運命に接近しぬ。 その闘の如何に酷烈を極めたるか、如何に歩々予を死地に駆逐したるか。 否、この遺書を認めつつある現在さへも、予は猶この水蛇の如き誘惑と、死を以て闘はざる可らず。 卿等にして若し、予が煩悶の跡を見んと欲せば、請ふ、以下に抄録せんとする予が日記を一瞥せよ。 「十月x日、明子、子なきの故を以て満村家を去る由、予は近日本多子爵と共に、六年ぶりにて彼女と会見す可し。 帰朝以来、始予は彼女を見るの己の為に忍びず、後は彼女を見るの彼女の為に忍びずして、遂に荏苒今日に及べり。 「十月x日、予は今日本多子爵を訪れ、始めて共に明子の家に赴かんとしぬ。 然るに豈計らんや、子爵は予に先立ちて、既に彼女を見る事両三度なりと云はんには。 予は甚しく不快を感じたるを以て、辞を患者の診察に託し、惶として子爵の家を辞したり。 子爵は恐らく予の去りし後、単身明子を訪れしならんか。 明子は容色の幾分を減却したれども、猶紫藤花下に立ちし当年の少女を髣髴するは、未必しも難事にあらず。 而して予が胸中、反つて止む可らざる悲哀を感ずるは何ぞ。 「十二月x日、子爵は明子と結婚する意志あるものの如し。 斯くして予が明子の夫を殺害したる目的は、始めて完成の域に達するを得ん。 されど、予は予が再明子を失ひつつあるが如き、異様なる苦痛を免るる事能はず。 「三月x日、子爵と明子との結婚式は、今年年末を期して、挙行せらるべしと云ふ。 現状に於ては、予は永久にこの止み難き苦痛を脱離する能はざる可し。 去年今月今日、予が手に仆れたる犠牲を思へば、予は観劇中も自ら会心の微笑を禁ぜざりき。 されど同座より帰途、予がふと予の殺人の動機に想到するや、予は殆帰趣を失ひたるかの感に打たれたり。 「七月x日、予は子爵と明子と共に、今夕馬車を駆つて、隅田川の流燈会を見物せり。 馬車の窓より洩るる燈光に、明子の明眸の更に美しかりしは、殆予をして傍に子爵あるを忘れしめぬ。 予は馬車中子爵の胃痛を訴ふるや、手にポケツトを捜りて、丸薬の函を得たり。 「八月x日、予は子爵と明子と共に、予が家に晩餐を共にしたり。 しかも予は終始、予がポケツトの底なるかの丸薬を忘るる事能はず。 予の心は、殆予自身にとりても、不可解なる怪物を蔵するに似たり。 予は予自身に対して、名状し難き憤怒を感ぜざるを得ず。 その憤怒たるや、恰も一度遁走せし兵士が、自己の怯懦に対して感ずる羞恥の情に似たるが如し。 「十二月x日、予は子爵の請に応じて、之をその病床に見たり、明子亦傍にありて、夜来発熱甚しと云ふ。 予は診察の後、その感冒に過ぎざるを云ひて、直に家に帰り、子爵の為に自ら調剤しぬ。 「十二月x日、予は昨夜子爵を殺害せる悪夢に脅されたり。 「二月x日、嗚呼予は今にして始めて知る、予が子爵を殺害せざらんが為には、予自身を殺害せざる可らざるを。 大略なりと雖も、予が連日連夜の苦悶は、卿等必ずや善く了解せん。 予は本多子爵を殺さざらんが為には、予自身を殺さざる可らず。 されど予にして若し予自身を救はんが為に、本多子爵を殺さんか、予は予が満村恭平を屠りし理由を如何の地にか求む可けん。 若し又彼を毒殺したる理由にして、予の自覚せざる利己主義に伏在したるものと做さんか、予の人格、予の良心、予の道徳、予の主張は、すべて地を払つて消滅す可し。 予は寧、予自身を殺すの、遙に予が精神的破産に勝れるを信ずるものなり。 故に予は予が人格を樹立せんが為に、今宵「かの丸薬」 の函によりて、嘗て予が手に僵れたる犠牲と、同一運命を担はんとす。 本多子爵閣下、並に夫人、予は如上の理由の下に、卿等がこの遺書を手にするの時、既に死体となりて、予が寝台に横はらん。 唯、死に際して、縷々予が呪ふ可き半生の秘密を告白したるは、亦以て卿等の為に聊自ら潔せんと欲するが為のみ。 卿等にして若し憎む可くんば、即ち憎み、憐む可くんば、即ち憐め。 自ら憎み、自ら憐める予は、悦んで卿等の憎悪と憐憫とを蒙る可し。 さらば予は筆を擱いて、予が馬車を命じ、直に新富座に赴かん。 節物は素より異れども、紛々たる細雨は、予をして幸に黄梅雨の天を彷彿せしむ。 斯くして予はかの肥大豕に似たる満村恭平の如く、車窓の外に往来する燈火の光を見、車蓋の上に蕭々たる夜雨の音を聞きつつ、新富座を去る事甚遠からずして、必予が最期の息を呼吸す可し。 卿等亦明日の新聞を飜すの時、恐らくは予が遺書を得るに先立つて、ドクトル北畠義一郎が脳出血病を以て、観劇の帰途、馬車内に頓死せしの一項を読まんか。 彼等は田舎に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。 彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免れたことを喜んでゐた。 半年ばかりたつた後、彼等は東京へ移ることになつた。 しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに気づき出した。 猫は塩の味を覚えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」―― 彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。 しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。 そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。 猫は目に見えて痩せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。 そのうちに彼等はもう一度田舎住ひをすることになつた。 彼等はとうとう愛想をつかし、気の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。 すると或晩秋の朝、彼は雑木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を発見した。 彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。 が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする気色も見せなかつた。 桜の実、笹餅、土瓶へ入れた河鹿が十六匹、それから土瓶の蔓に結びつけた走り書きの手紙が一本。 わたしは丁度十二の時に修学旅行に直江津へ行きました。 (わたしの小学校は信州のxと云ふ町にあるのです。) 汽船へ乗るには棧橋からはしけに乗らなければなりません。 私達のゐた棧橋にはやはり修学旅行に来たらしい、どこか外の小学校の生徒も大勢わいわい言つてゐました。 その外の小学校の生徒がはしけへ乗らうとした時です。 黒い詰襟の洋服を着た二十四五の先生が一人、(いえ、わたしの学校の先生ではありません。) いきなりわたしを抱き上げてはしけへ乗せてしまひました。 その先生は暫くたつてから、わたしの学校の先生がわたしを受けとりにやつて来た時、何度もかう言つてあやまつてゐました。―― その先生がわたしを抱き上げてはしけへ乗せた時の心もちですか? わたしはずゐぶん驚きましたし、怖いやうにも思ひましたけれども、その外にまだ何となく嬉しい気もしたやうに覚えてゐます。 或電車の運転手が一人、赤旗を青旗に見ちがへたと見え、いきなり電車を動かしてしまつた。 が、間違ひに気づくが早いか、途方もないおほ声に「アヤマリ」 あの男は最後には壮士役者になり白瀬中尉を当てこんだ「南極探険」 あの男は唯のペングイン鳥になり、氷山の間を歩いてゐた。 そのうちに烈しい暑さの為にとうとう悶絶して死んでしまつた。 或待合のお上さんが一人、懇意な或芸者の為に或出入りの呉服屋へ帯を一本頼んでやつた。 扨その帯が出来上つて見ると、それは註文主のお上さんには勿論、若い呉服屋の主人にも派手過ぎると思はずにはゐられぬものだつた。 そこでこの呉服屋の主人は何も言はずに二百円の帯を百五十円にをさめることにした。 しかしこちらの心もちは相手のお上さんには通じてゐた。 お上さんは金を払つた後、格別その帯を芸者にも見せずに箪笥の中にしまつて置いた。 が、芸者は暫くたつてから、「お上さん、あの帯はまだ?」 お上さんはやむを得ずその帯を見せ、実際は百五十円払つたのに芸者には値段を百二十円に話した。 それは芸者の顔色でも、やはり派手過ぎると思つてゐることは、はつきりお上さんにわかつた為だつた。 が、芸者も亦何も言はずにその帯を貰つて帰つた後、百二十円の金を届けることにした。 芸者は百二十円と聞いたものの、その帯がもつと高いことは勿論ちやんと承知してゐた。 それから彼女自身はしめずに妹にその帯をしめさせることにした。 東京人と云ふものは由来かう云ふ莫迦莫迦しい遠慮ばかりしてゐる人種なのだよ。 が、どちらも彼等の気もちを相手に打ち明けるのに臆病だつた。 彼女も彼と馴染むことは本望だつたのに違ひなかつた。 或はこれも不幸だつたことには彼もいざとなつて見ると、冷かに3と別れることは出来ない心もちに陥つてゐた。 彼は3と逢ひながら、時々彼女のことを思ひ出してゐる。 彼女も亦4と遠出をする度に耳慣れない谷川の音などを聞き、時々彼のことを思ひ出してゐる。…… 唯わたしが殺した通りの死骸になつて出て来るならば、恐ろしいことも何もありません。 けれどもあいつが生きてゐる時と少しも変らない姿をして立つてゐたり何かするのが恐しいのです。 ほんたうにどうせ幽霊に出るならば、死骸になつて出て来やがれば好いのに。」 僕は十一か十二の時、空き箱を積んだ荷車が一台、坂を登らうとしてゐるを見、後ろから押してやらうとした。 するとその車を引いてゐた男は車越しに僕を見返るが早いか、「こら」 僕は勿論この男の誤解を不快に思はずにはゐられなかつた。 それから五六日たつた後、この男は又荷車を引き、前と同じ坂を登らうとしてゐた。 この男はやつと楫棒を下ろし、元のやうに炭俵を積み直した。 が、この男は前こごみになり、炭俵を肩へ上げながら、誰か人間にでも話しかけるやうに「こん畜生、いやに気を利かしやがつて。 この黒ぐろと日に焼けた車力に或親しみを感ずるやうになつた。 或山村の農夫が一人、隣家の牝牛を盗んだ為に三箇月の懲役に服することになつた。 獄中の彼は別人のやうに神妙に一々獄則を守り、模範的囚人と呼ばれさへした。 が、免役になつて帰つて来ると、もう一度同じ牝牛を盗み出した。 隣家の主人は立腹し、今度も亦警察権を借りることにした。 彼等の村の駐在所の巡査は早速彼を拘引した上、威丈高に彼を叱りつけた。 すると彼は仏頂面をしたまま、かう巡査に返事をした。 「わしはあの牛を盗んだから、三箇月も苦役をして来たのでせう。 それが家へ帰つて見ると、やつぱり隣の小屋にゐましたから、(尤も前よりは肥つてゐました。) たとへば宿屋に泊まつた時、そこの番頭や女中たちがわたしに愛想よくお時宜をするでせう。 それから又外の客が来ると、やはり前と同じやうに愛想よくお時宜をしてゐるでせう。 わたしはあれを見てゐると何だか後から来た客に反感を持たずにはゐられないのです。」―― その癖僕にかう言つた人は僕の知つてゐる人々のうちでも一番温厚な好紳士だつた。 彼は彼女と夫婦になつた後、彼女に今までの彼に起つた、あらゆる情事を打ち明けることにした。 その結果は彼の予想したやうに彼等の幸福を保証することになつた。 しかし彼は彼女にもたつた一つの情事だけは打ち明けなかつた。 それは彼が十八の時、或年上の宿屋の女中と接吻したと云ふことだつた。 彼は何もこの情事だけは話すまいと思つた訣ではなかつた。 唯ちよつとしたことだつた為に話さずとも善いと思つただけだつた。 それから二三年たつた後、彼は何かの話の次手にふと彼女にこの情事を話した。 すると彼女は顔色を変へ、「あなたはあたしを欺ましてゐた」 それは小さい刺のやうにいつまでも彼等夫婦の間に波瀾を起す種になつてしまつた。 彼は彼女と喧嘩をした後、何度もひとりこんなことを考へなければならなかつた。―― それとも又どこか内心には正直になり切らずにゐたのかしら。」 彼はエデインバラに留学中、電車に飛び乗らうとして転げ落ち、人事不省になつてしまつた。 が、病院へかつぎこまれる途中も譫語に英語をしやべつてゐた。 彼の健康が恢復した後、彼の友だちは何げなしに彼にこのことを話して聞かせた。 彼はそれ以来別人のやうに彼の語学力に確信を持ち、とうとう名高い英語学者になつた。―― しかし僕に面白かつたのは彼の留守宅に住んでゐた彼の母親の言葉だつた。 「うちの息子は学問をして日本語はすつかり知り悉してしまひましたから、今度はわざわざ西洋へ行つて『いろは字引』 彼は近頃彼の母が芸者だつたことを知るやうになつた。 しかも今は彼の母が北京の羊肉胡同に料理屋を出してゐることも知るやうになつた。 彼は商売上の用向きの為に二三日北京に滞在するのを幸ひ、久しぶりに彼女に会つて見ることにした。 彼はその料理屋へ尋ねて行き、未だに白粉の厚い彼女と一時間ばかり話をした。 が、彼女の空々しいお世辞に幻滅を感ぜずにはゐられなかつた。 それは彼女が几帳面な彼に何かケウトイ心もちを感じた為にも違ひなかつた。 しかし又一つには今の檀那に彼女の息子が尋ねて来たことを隠したかつた為にも違ひなかつた。 彼女は彼の帰つた後、肩の凝りの癒つたやうに感じた。 が、翌日になつて見ると、親子の情などと云ふことを考へ、何か彼に素つ気なかつたのをすまないやうにも感じ出した。 彼がどこに泊まつてゐるかは勿論彼女にはわかつてゐた。 彼女は日暮れにならないうちにと思ひ、薄汚い支那の人力車に乗つて彼のゐる旅館へ尋ねて行つた。 けれどもそれは不幸にも彼が漢口へ向ふ為に旅館を出てしまつたところだつた。 彼女は妙に寂しさを覚え、やむを得ず又人力車に乗つて砂埃りの中を帰つて行つた。 いつか彼女も白髪を抜くのに追はれ出したことなどを考へながら。 彼はその日も暮れかかつた頃、京漢鉄道の客車の窓に白粉臭い母のことを考へてゐた。 すると何か今更のやうに多少の懐しさも感じないではなかつた。 が、彼女の金歯の多いのはどうも彼には愉快ではなかつた。 大工らしい印絆纒の男が一人、江尻あたりの海を見ながら、つれの男にかう言つてゐた―― 僕は暫く君と共に天下の文芸を論じなかつた為めか、君の文を読んだ時に一撃を加へたい欲望を感じた。 乃ち一月ばかり遅れたものの、聊か君の論陣へ返し矢を飛ばせる所以である。 どうかふだんの君のやうに、怒髪を天に朝せしめると同時に、内心は君の放つた矢は確かに手答へのあつたことを満足に思つてくれ給へ。 君は「凡そ芸術と云ふ芸術で、清閑の所産でないものはない筈だ」 又「芸術などといふものはその本来の性質からして、清閑の所産であるべきものだとは思ふ」 僕も亦君の駁した文の中に、「随筆は清閑の所産である。 少くとも僅かに清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である」 これは勿論随筆以外に清閑は入らんと云つた訣ではない。 まことに清閑は芸術の鑑賞並びにその創作の上には必要条件の一つに数へられなければならぬ。 少くとも好都合の条件の一つに数へられなければならぬ筈である。 この点は僕も君の説に少しも異議を述べる必要はない。 同時に又君も僕の説に異議を述べる必要はない筈である。 金のあるなしにかかはらず、現在のやうな社会的環境の中では清閑なんか得られないのである。 清閑を得られる得られないは、金の有無よりも、寧ろ各自の心境の問題だと思ふ。」 すると清閑なんか得られないと云つたのは必しも君の説の全部ではない。 僕は君の駁した文の中にも、「清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。 しかし中村君は不幸にも清閑を可能ならしめる心境以外に、清閑を不可能ならしめる他の原因を認めてゐる。 「しかしもつと根本的なことは、社会的環境だと思ふ。 電車や自動車や、飛行機の響きを聞き、新聞雑誌の中に埋もれながら、たとへ金があつたところで、昔の人人が浸つた「清閑」 これは中村君のみならず、屡識者の口から出た、山嶽よりも古い誤謬である。 古往今来社会的環境などは一度も清閑を容易にしたことはない。 しかし十九世紀のシヨウペンハウエルは馭者の鞭の音を気にしてゐる。 更に又大昔のホメエロスなどは轣轆たる戦車の音か何かを気にしてゐたのに違ひない。 つまり古人も彼等のゐた時代を一番騒がしいと信じてゐたのである。 或は現代の社会的環境は寧ろ清閑を得る為の必要条件の一つである。 かう云ふ社会的環境の中に人となつた君や僕はかう云ふ社会的環境の外に安住の天地のある訣はない。 寂寞も清閑を破壊することは全然喧騒と同じことである。 もしだと思ふならば、アフリカの森林に抛り出された君や僕を想像して見給へ。 勇敢なる君はホツテントツトの尊長の王座に登るかも知れない。 が、ひと月とたたないうちに不幸なる尊長中村武羅夫の発狂することも亦明らかである。 中村君は更に「それでは清閑の無いやうな現代の生活からは、芸術を望むことは出来ないかと云ふと、私は必しもさうではないと思ふのである。 芸術なんか、その内容でも形式でも、どんな時代のどんな境地からでも生れるやうに、流通自在のものである。 時代時代に依つてどしどし変つて行つて、一向差支へないのである」 芸術は御裁可に及ばずとも、変遷してしまふのに違ひない。 が、同感であると云ふ意味は必しも各時代の芸術を、いづれもその時代の芸術であるから、平等に認めると云ふ意味ではない。 レオナルド・ダ・ヴインチの作品は十五世紀の伊太利の芸術である、未来派の画家の作品は二十世紀の伊太利の芸術である。 しかしどちらも同様に尊敬するなどと云ふことは、―― 「それと同じやうに、随筆だつて、やつぱり「枕の草紙」 とか、清少納言や兼好法師の生きた時代には、ああした随筆が生れ、また現在の時代には、現在の時代に適応した随筆の出現するのは已むを得ない。 なども、芸術的小品として、随筆の上乗なるものだと思ふ。 観潮楼や、断腸亭や、漱石や、あれはあれで打ち留めにして置いて、岡栄一郎氏、佐佐木味津三氏などの随筆でも、それはそれで新らしい時代の随筆で結構ではないか。」 と岡、佐佐木両氏の随筆との差を時代の差ばかりにしてしまはなければならぬ。 それはまあ日ごろ敬愛する両氏のことでもあるしするから、時代の差ばかりにしても差支へはない。 が、大義の存する所、親を滅するを顧みなければ、必しもさうばかりは云はれぬやうである。 況や両氏の作品にもはるかに及ばない随筆には如何に君に促されたにもせよ、到底讃辞を奉ることは出来ない。 (次手にちよつとつけ加へれば、中村君は古人の随筆の佳所と君の所謂「古来の風趣」 このスレッドは1000を超えました。
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