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知り合いから教えてもらったPCさえあれば幸せ小金持ちになれるノウハウ
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グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
WBHZ6 彼が彼たる所以、唯此一点の霊火を以て全心を把持する故たらずとせむや。 彼は赤誠の人也、彼は熱情の人也、願くは頼朝の彼と戦を交へむとしたるに際し、彼が頼朝に答へたる言を聞け。 我は僅に一門の末流に連り、驥尾に附して平民を図らむと欲するのみ。 公今干戈を動かさむとす、一門相攻伐するが如き、是源氏の不幸にして、しかも平氏をして愈虚に乗ぜしむるもの也。 何ぞ其言の肝胆を披瀝して、しかも察々として潔きや。 啻に辞を低うするに止らず、一片稜々の意気止むべからずして愛子を頼朝の手に委したるが如き、赤誠の人を撼す、真に銀河の九天より落つるが如き概あり。 実盛の北陸に死するや、彼其首級を抱いて然として泣けり。 水島の戦に瀬尾主従の健闘して仆るゝや、彼「あつぱれ強者や。 敢て又、人を服せしむる麒麟の群獣に臨むが如き徳望あるにあらず。 彼の群下に対する、唯意気相傾け、痛涙相流るゝところ、烈々たる熱情の直に人をして知遇の感あらしむるによるのみ。 彼が旗下の桃李寥々たりしにも関らず、四郎兼平の如き、次郎兼光の如き、はた大弥太行親の如き、一死を以て彼に報じたる、是を源頼朝が源九郎を赤族し、蒲冠者を誅戮し、蔵人行家を追殺し、彼等をして高鳥尽きて良弓納めらるゝの思をなさしめたるに比すれば、 彼が将として成功し、相として失敗したる、亦職として之に因らずンばあらず。 百難を排して一世を平にし、千紛を除いて大計を定む、唯大なる手の人たるを要す。 片雲を仰いで風雪を知り、巷語を耳にして大勢を算す、唯大なる眼の人たるを要す。 李林甫の半夜高堂に黙思するや、明日必殺ありしと云ふが如き、豈此間の消息を洩すものにあらずや。 然りと雖も、三軍を率ゐて逐鹿を事とす、眼の人たらざるも或は可、手の人たらざるも亦或は可、唯若し涙の人たらざるに至つては、断じて将帥の器を以てゆるす可からず、以て大樹の任に堪ふ可からず。 而して彼に帰服せる七州の健児は、彼の涙によりて激励せられ鼓吹せられ、よく赤幟幾万の大軍を撃破したり。 しかも彼の京師に入るや、彼は其甲冑を脱して、長裾を曳かざる可からざるの位置に立ちたりき。 彼は唱難鼓義の位置より一転して撥乱反正の位置に立ちたりき。 約言すれば彼は其得意の位置よりして、其不得意の位置に立ちたりき。 然れども彼は天下を料理するには、余りに温なる涙を有したりき。 彼は一世を籠罩するには、寧ろ余りに血性に過ぎたりき。 彼は到底、袍衣大冠して廟廊の上に周旋するの材にあらず、其政治家として失敗したる亦宜ならずとせむや。 寿永革命史中、経世的手腕ある建設的革命家としての標式は、吾人之を独り源兵衛佐頼朝に見る。 彼が朝家に処し、平氏に処し、諸国の豪族に処し、南都北嶺に処し、守護地頭の設置に処し、鎌倉幕府の建設に処するを見る、飽く迄も打算的に飽く迄も組織的に、天下の事を断ずる、誠に快刀を以て乱麻をたつの概ありしものの如し。 然れども義仲は成敗利鈍を顧みざりき、利害得失を計らざりき。 而して彼が一方に於て相たるの器にあらざると共に、他方に於て将たるの材を具へたるは、則ち義仲の義仲たる所以、彼が革命の健児中の革命の健児たる所以にあらずや。 彼が弓箭を帯して禁闕を守るや、時人は「色白うみめはよい男にてありけれど、起居振舞の無骨さ、物云ひたる言葉つきの片口なる事限りなし」 葡萄美酒夜光杯、珊瑚の鞭を揮つて青草をふみしキヤバリオルの眼よりして、此木曾山間のラウンドヘツドを見る、彼等が義仲を「袖のかゝり、指貫のりんに至るまでかたくななることかぎりなし」 彼は自ら甘ぜむが為には如何なる事をも忌避するものにはあらざりき。 然れども、彼が自我の流露に任せて得むと欲するを得、為さむと欲するを為せる、公々然として其間何等の粉黛の存するを許さざりき。 怒れば叫び、悲めば泣く、彼は実に善を知らざると共に悪をも亦知らざりし也。 猫間黄門の彼を訪ふや、彼左右を顧て「猫は人に対面するか」 彼は鼓判官知康の院宣を持して来れるに問ひて「わどのを鼓判官と云ふは、万の人に打たれたうたか、張られたうたか」 彼の牛車に乗ずるや、「いかで車ならむからに、何条素通りをばすべき」 彼は「田舎合子の、きはめて大に、くぼかりけるに飯うづたかくよそひて、御菜三種して平茸の汁にて」 而して黄門の之を食せざるを見るや、「猫殿は小食にておはすよ、聞ゆる猫おろしし給ひたり、掻き給へ/\や」 然りと雖も、彼は唯、直情径行、行雲の如く流水の如く欲するがまゝに動けるのみ。 換言すれば彼は唯、当代のキヤバリオルが、其玉杯緑酒と共に重じたる無意味なる礼儀三千を縦横に、蹂躙し去りたるに過ぎざる也。 彼は荒くれ男なれ共あどけなき優しき荒くれ男なりき。 彼は、群雄を駕御し長策をふるつて天下を治むるの隆準公にあらず。 敵軍を叱し、隻剣をかざして堅陣を突破するの重瞳将軍也。 彼は国家経綸の大綱を提げ、蒼生をして衆星の北斗に拱ふが如くならしむるカブールが大略あるにあらず。 辣快、雄敏、鬻拳の兵諫を敢てして顧みざる、石火の如きマヂニーの侠骨あるのみ。 而して其天下に馳鶩したるは木曾の挙兵より粟津の亡滅に至る、誠に四年の短日月のみ。 しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。 彼の燃したる革命の聖壇の霊火は煌々として消ゆることなけむ。 彼の鳴らしたる革命の角笛の響は嚠々として止むことなけむ。 彼が革命の健児たるの真骨頭は、千載の後猶残れる也。 春風秋雨七百歳、今や、聖朝の徳沢一代に光被し、新興の気運隆々として虹霓の如く、昇平の気象将に天地に満ちむとす。 蒼生鼓腹して治を楽む、また一の義仲をして革命の暁鐘をならさしむるの機なきは、昭代の幸也。 互に他人の着物を眺めては、勝手な品評を試みてゐる。 君の御召しの羽織は、全然心の動きが見えないぢやないか。」 「おや、君が落語家のやうな帯をしめるのには驚いた。」 「やつぱり君が大島を着てゐると、山の手の坊ちやんと云ふ格だね。」 その男は古風な漆紋のついた、如何はしい黄びらを着用してゐる。 この着物がどうもさつきから、散々槍玉に挙げられてゐるらしい。 その先生はどう云ふ気か、ドミニク派の僧侶じみた白い法服を着用してゐる。 何でもこんな着物はバルザックが、仕事をする時に着てゐたやうだ。 尤も着手はバルザック程、背も幅もないものだから、裾が大分余つてゐる。 が、痩せ男は苦笑したぎり、やはり黙然と坐つてゐる。 これは銘仙だか大島だか判然しない着物を着た、やはり年少の豪傑が抛りつけた評語である。 が、豪傑自身の着物も、余程長い間着てゐると見えて、襟垢がべつとり食附いてゐる。 それでも黄びらを着た男は、何とも言葉を返さずにゐる。 どうもその容子を見ると、よくよく意久地のない代物らしい。 所が三度目には肩幅の広い、縞の粗い背広を着た男が、にやりにやり笑ひながら、半ば同情のある評語を下した。 諸君この男も一度は着換へをして出て来た事を思ひ出してやり給へ。 さうして今後も着換へをするやうに、鞭撻の労を執つてくれ給へ。」 と声援を与へた向きもある、「もつと手厳しくやれ、仲間褒めをしてはいかん」 さうして風通しの悪るさうな、場末の二階家へ帰つて来た。 家の中は虫干のやうに階上にも階下にも、いろいろな着物が吊り下げてある。 何か蛇の鱗のやうに光る物があると思つたら、それは戦争の時に使ふ鎖帷子や鎧だつた。 痩せ男はこの着物の中に、傲慢不遜なあぐらを掻くと、恬然と煙草をふかし始めた。 その時何か云つたやうに思ふが、生憎眼のさめた今は覚えてゐない。 祈角夢の話を書きながら、その一句を忘れてしまつた事は、返す返すも遺憾である。 、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。 あの通りは甚だ街燈の少い、いつも真暗な往来である。 そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。 僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。 僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。 大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の小みちを歩いてゐた。 山砂もしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。 頭の上には澄み渡つた空に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。 のみならずその又枝の間に人の脚が二本ぶら下つてゐた。 僕はちよつと羞しかつたから、何とか言つて護摩化してしまつた。 大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一、中山太陽堂社長などと築地の待合に食事をしてゐた。 僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、―― そのうちに僕は何かの拍子に餉台の上の麦酒罎を眺めた。 その証拠には実在の僕は目を開いてゐたのにも関らず、幻の僕は目をつぶつた上、稍仰向いてゐたのである。 けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」 菊池や久米も替る替る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」 それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗や何かの反射だつた。 しかし僕は何となしに凶を感ぜずにはゐられなかつた。 大正十五年の正月十日、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。 するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後ろを現し出した。 僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。 殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、―― 先生が俊爽の才、美人を写して化を奪ふや、太真閣前、牡丹に芬芬の香を発し、先生が清超の思、神鬼を描いて妙に入るや、鄒湛宅外、楊柳に啾啾の声を生ずるは已に天下の伝称する所、我等亦多言するを須ひずと雖も、其の明治大正の文芸に羅曼主義の大道を打開し、 艶は巫山の雨意よりも濃に、壮は易水の風色よりも烈なる鏡花世界を現出したるは啻に一代の壮挙たるのみならず、又実に百世に炳焉たる東西芸苑の盛観と言ふ可し。 先生作る所の小説戯曲随筆等、長短錯落として五百余編。 経には江戸三百年の風流を呑却して、万変自ら寸心に溢れ、緯には海東六十州の人情を曲尽して、一息忽ち千載に通ず。 古は先生の胸中に輳つて藍玉愈温潤に、新は先生の筆下より発して蚌珠益粲然たり。 加之先生の識見、直ちに本来の性情より出で、夙に泰西輓近の思想を道破せるもの勘からず。 其の邪を罵り、俗を嗤ふや、一片氷雪の気天外より来り、我等の眉宇を撲たんとするの概あり。 試みに先生等身の著作を以て仏蘭西羅曼主義の諸大家に比せんか、質は天七宝の柱、メリメエの巧を凌駕す可く、量は抜地無憂の樹、バルザツクの大に肩随す可し。 然りと雖も、其一半は兀兀三十余年の間、文学三昧に精進したる先生の勇猛に帰せざる可からず。 往昔自然主義新に興り、流俗の之に雷同するや、塵霧屡高鳥を悲しましめ、泥沙頻に老龍を困しましむ。 先生此逆境に立ちて、隻手羅曼主義の頽瀾を支へ、孤節紅葉山人の衣鉢を守る。 轗軻不遇の情、独往大歩の意、倶に相見するに堪へたりと言ふ可し。 我等皆心織筆耕の徒、市に良驥の長鳴を聞いて知己を誇るものに非ずと雖も、野に白鶴の廻飛を望んで壮志を鼓せること幾回なるを知らず。 欣懐破願を禁ず可からずと雖も、眼底又涙無き能はざるものあり。 十五巻を編し、巨霊神斧の痕を残さんとするに当り我等知を先生に辱うするもの敢て劣の才を以て参丁校対の事に従ふ。 微力其任に堪へずと雖も、当代の人目を聳動したる雄篇鉅作は問ふを待たず、治く江湖に散佚せる万顆の零玉細珠を集め、一も遺漏無からんことを期せり。 を得て後、先生が日光晶徹の文、哀歓双双人生を照らして、春水欄前に虚碧を漾はせ、春水雲外に乱青を畳める未曾有の壮観を恣にす可し。 婆さんを殺した古狸はその婆さんに化けた上狸の肉を食はせる代りに婆さんの肉を食はせたのです。 我々もうつかりしてゐると、人間の肉を食ひかねません。 火になつた焚き木を負つてゐる狸、泥舟と共に溺れる狸、―― わたしはあの話を思ひ出す度に、何か荘厳な気がするのです。 ツアラトストラでもこの話を聞けば、きつと微笑を浮べたでせう。 光悦寺へ行つたら、本堂の横手の松の中に小さな家が二軒立つてゐる。 それがいづれも妙に納つてゐる所を見ると、物置きなんぞの類ではないらしい。 らしい所か、その一軒には大倉喜八郎氏の書いた額さへも懸つてゐる。 そこで案内をしてくれた小林雨郊君をつかまへて、「これは何です」 「あの連中は光悦に御出入を申しつけた気でゐるやうぢやありませんか。」 「これが出来たので鷹ヶ峯と鷲ヶ峯とが続いてゐる所が見えなくなりました。 茶席など造るより、あの辺の雑木でも払へばよろしいにな。」 小林君が洋傘で指さした方を見ると、成程もぢやもぢや生え繁つた初夏の雑木の梢が鷹ヶ峯の左の裾を、鬱陶しく隠してゐる。 あれがなくなつたら、山ばかりでなく、向うに光つてゐる大竹藪もよく見えるやうになるだらう。 第一その方が茶席を造るよりは、手数がかからないのに違ひない。 それから二人で庫裡へ行つて、住職の坊さんに宝物を見せて貰つた。 その中に一つ、銀の桔梗と金の薄とが入り乱れた上に美しい手蹟で歌を書いた、八寸四方位の小さな軸がある。 小林君は専門家だけに、それを床柱にぶら下げて貰つて、「よろしいな。 自分は敷島を啣へて、まだ仏頂面をしてゐたが、やはりこの絵を見てゐると、落着きのある、朗な好い心もちになつて来た。 が、暫くすると住職の坊さんが、小林君の方を向いて、こんな事を云った。 自分は忌々しいのを通り越して、へんな心もちになつた。 一体光悦をどう思つてゐるのだか、光悦寺をどう思つてゐるのだか、もう一つ序に鷹ヶ峯をどう思つてゐるのだか、かうなると、到底自分には分らない。 そんなに茶席が建てたければ、茶屋四郎次郎の邸跡や何かの麦畑でも、もつと買占めて、むやみに囲ひを並べたらよからう。 さうしてその茶席の軒へ額でも提灯でもべた一面に懸けるが好い。 さうすれば自分も始めから、わざわざ光悦寺などへやつて来はしない。 が、一つの茶席もない、更に好い時に来なかつたのは、返す返すも遺憾に違ひない。―― 自分は依然として仏頂面をしながら、小林君と一しよに竹藪の後に立つてゐる寂しい光悦寺の門を出た。 或雨あがりの晩に車に乗つて、京都の町を通つたら、暫くして車夫が、どこへつけますとか、どこへつけやはりますとか、何とか云つた。 どこへつけるつて、宿へつけるのにきまつてゐるから、宿だよ、宿だよと桐油の後から、二度ばかり声をかけた。 車夫はその御宿がわかりませんと云つて、往来のまん中に立ち止まつた儘、動かない。 しかもその名前なるものが、甚平凡を極めてゐるのだから、それだけでは、いくら賢明な車夫にしても到底満足に帰られなからう。 困つたなと思つてゐると、車夫が桐油を外してこの辺ぢやおへんかと云ふ。 それが暗の中に万竿の青をつらねて、重なり合つた葉が寒さうに濡て光つてゐる。 自分は大へんな所へ来たと思つたから、こんな田舎ぢやないよ、横町を二つばかり曲ると、四条の大橋へ出る所なんだと説明した。 すると車夫が呆れた顔をして、ここも四条の近所どすがなと云つた。 そこでへええ、さうかね、ぢやもう少し賑かな方へ行つて見てくれ、さうしたら分るだらうと、まあ一時を糊塗して置いた。 所がその儘、車が動き出して、とつつきの横丁を左へ曲つたと思ふと、突然歌舞練場の前へ出てしまったから奇体である。 それも丁度都踊りの時分だつたから、両側には祗園団子の赤い提灯が、行儀よく火を入れて並んでゐる。 自分は始めてさつきの竹藪が、建仁寺だつたのに気がついた。 が、あの暗を払つてゐる竹藪と、この陽気な色町とが、向ひ合つてゐると云ふ事は、どう考へても、嘘のやうな気がした。 その後、宿へは無事に辿りついたが、当時の狐につままれたやうな心もちは、今日でもはつきり覚えてゐる。…… それ以来自分が気をつけて見ると、京都界隈にはどこへ行つても竹藪がある。 どんな賑な町中でも、こればかりは決して油断が出来ない。 殊に今云つた建仁寺の竹藪の如きは、その後も祗園を通りぬける度に、必ず棒喝の如く自分の眼前へとび出して来たものである。…… が、慣れて見ると、不思議に京都の竹は、少しも剛健な気がしない。 根が吸ひ上げる水も、白粉のひがしてゐさうだと云ふ気がする。 もう一つ形容すると、始めから琳派の画工の筆に上る為に、生えて来た竹だと云ふ気がする。 これなら町中へ生えてゐても、勿論少しも差支へはない。 何なら祗園のまん中にでも、光悦の蒔絵にあるやうな太いやつが二三本、玉立してゐてくれたら、猶更以て結構だと思ふ。 大阪へ行つて、龍村さんに何か書けと云はれた時、自分は京都の竹を思ひ出して、こんな句を書いた。 それ程竹の多い京都の竹は、京都らしく出来上つてゐるのである。 上木屋町のお茶屋で、酒を飲んでゐたら、そこにゐた芸者が一人、むやみにはしやぎ廻つた。 少し気味が悪くなつたから、その方の相手を小林君に一任して、隣にゐた舞妓の方を向くと、これはおとなしく、椿餅を食べてゐる。 生際の白粉が薄くなつて、健康らしい皮膚が、黒く顔を出してゐる丈でも、こつちの方が遙に頼もしい気がする。 子供らしくつて可愛かつたから、体操を知つてゐるかいと訊いて見た。 すると、体操は忘れたが、縄飛びなら覚えてゐると云ふ答へがあつた。 ぢややつてお見せと云ひたかつたが、三味線の音がし出したから見合せた。 この三味線に合せて、小林君が大津絵のかへ唄を歌つた。 何でも文句は半切に書いたのが内にしまつてあつて、それを見ながらでないと、理想的には歌へないのださうである。 時々あぶなくなると、そこにゐた二三人の芸者が加勢をした。 更にその芸者があぶなくなると、おまつさんなる老妓が加勢をした。 その色々の声が、大津絵を補綴して行く工合は、丁度張り交ぜの屏風でも見る時と、同じやうな心もちだつた。 自分は可笑しくなつたから、途中であははと笑ひ出した。 すると小林君もそれに釣りこまれて、とうとう自分で大津絵を笑殺してしまつた。 おまつさんは、座敷が狭いから、唐紙を明けて、次の間で踊ると好いと云ふ。 そこで椿餅を食べてゐた舞妓が、素直に次の間へ行つて、京の四季を踊つた。 遺憾ながらかう云ふ踊になると、自分にはうまいのだかまづいのだかわからない。 が、花簪が傾いたり、だらりの帯が動いたり、舞扇が光つたりして、甚綺麗だつたから、鴨ロオスを突つきながら、面白がて眺めてゐた。 しかし実を云ふと、面白がつて見てゐたのは、単に綺麗だつたからばかりではない。 舞妓は風を引いてゐたと見えて、下を向くやうな所へ来ると、必ず恰好の好い鼻の奥で、春泥を踏むやうな音がかすかにした。 それがひねつこびた教坊の子供らしくなくつて、如何にも自然な好い心もちがした。 自分は酔つてゐて、妙に嬉しかつたから、踊がすむと、その舞妓に羊羹だの椿餅だのをとつてやつた。 もし舞妓にきまりの悪い思ひをさせる惧がなかつたなら、お前は丁度五度鼻洟を啜つたぜと、云つてやりたかつた位である。 間もなく躁狂の芸者が帰つたので、座敷は急に静になつた。 窓硝子の外を覗いて見ると、広告の電燈の光が、川の水に映つてゐる。 空は曇つてゐるので、東山もどこにあるのだか、判然しない。 自分は反動的に気がふさぎ出したから、小林君に又大津絵でも唄ひませんかと、云つた。 小林君は脇息によりかかりながら、子供のやうに笑つて、いやいやをした。 舞妓は椿餅にも飽きたと見えて、独りで折鶴を拵へてゐる。 おまつさんと外の芸者とは、小さな声で、誰かの噂か何かしてゐる。―― 自分は東京を出て以来、この派手なお茶屋の中で、始めて旅愁らしい、寂しい感情を味つた。 これは予が嘗て三田文学誌上に掲載した「奉教人の死」 と同じく、予が所蔵の切支丹版「れげんだ・おうれあ」 は本邦西教徒の逸事であつたが、「きりしとほろ上人伝」 は古来洽く欧洲天主教国に流布した聖人行状記の一種であるから、予の「れげんだ・おうれあ」 の紹介も、彼是相俟つて始めて全豹を彷彿する事が出来るかも知れない。 伝中殆ど滑稽に近い時代錯誤や場所錯誤が続出するが、予は原文の時代色を損ふまいとした結果、わざと何等の筆削をも施さない事にした。 大方の諸君子にして、予が常識の有無を疑はれなければ幸甚である。 ほどな大男は、御主の日輪の照らさせ給ふ天が下はひろしと云へ、絶えて一人もおりなかつたと申す。 葡萄蔓かとも見ゆる髪の中には、いたいけな四十雀が何羽とも知れず巣食うて居つた。 まいて手足はさながら深山の松檜にまがうて、足音は七つの谷々にも谺するばかりでおぢやる。 さればその日の糧を猟らうにも、鹿熊なんどのたぐひをとりひしぐは、指の先の一ひねりぢや。 又は折ふし海べに下り立つて、すなどらうと思ふ時も、海松房ほどな髯の垂れた顋をひたと砂につけて、ある程の水を一吸ひ吸へば、鯛も鰹も尾鰭をふるうて、ざはざはと口へ流れこんだ。 ぢやによつて沖を通る廻船さへ、時ならぬ潮のさしひきに漂はされて、水夫楫取の慌てふためく事もおぢやつたと申し伝へた。 は、性得心根のやさしいものでおぢやれば、山ずまひの杣猟夫は元より、往来の旅人にも害を加へたと申す事はおりない。 反つて杣の伐りあぐんだ樹は推し倒し、猟夫の追ひ失うた毛物はとつておさへ、旅人の負ひなやんだ荷は肩にかけて、なにかと親切をつくいたれば、遠近の山里でもこの山男を憎まうずものは、誰一人おりなかつた。 中にもとある一村では、羊飼のわらんべが行き方知れずになつた折から、夜さりそのわらんべの親が家の引き窓を推し開くものがあつたれば、驚きまどうて上を見たに、箕ほどな「れぷろぼす」 の掌が、よく眠入つたわらんべをかいのせて、星空の下から悠々と下りて来たこともおぢやると申す。 何と山男にも似合ふまじい、殊勝な心映えではおぢやるまいか。 に出合へば、餅や酒などをふるまうて、へだてなく語らふことも度々おぢやつた。 さるほどにある日のこと、杣の一むれが樹を伐らうずとて、檜山ふかくわけ入つたに、この山男がのさのさと熊笹の奥から現れたれば、もてなし心に落葉を焚いて、徳利の酒を暖めてとらせた。 は大きに悦んだけしきで、頭の中に巣食うた四十雀にも、杣たちの食み残いた飯をばらまいてとらせながら、大あぐらをかいて申したは、 「それがしも人間と生れたれば、あつぱれ功名手がらをも致いて、末は大名ともならうずる。」 おぬしほどの力量があれば、城の二つ三つも攻め落さうは、片手業にも足るまじい。」 それがしは日頃山ずまひのみ致いて居れば、どの殿の旗下に立つて、合戦を仕らうやら、とんと分別を致さうやうもござない。 就いては当今天下無双の強者と申すは、いづくの国の大将でござらうぞ。 誰にもあれそれがしは、その殿の馬前に馳せ参じて、忠節をつくさうずる。」 まづわれらが量見にては、今天が下に『あんちおきや』 とて、小山のやうな身を起いたが、ここに不思議がおぢやつたと申すは、頭の中に巣食うた四十雀が、一時にけたたましい羽音を残いて、空に網を張つた森の梢へ、雛も余さず飛び立つてしまうた事ぢや。 それが斜に枝を延いた檜のうらに上つたれば、とんとその樹は四十雀が実のつたやうぢやとも申さうず。 はこの四十雀のふるまひを、訝しげな眼で眺めて居つたが、やがて又初一念を思ひ起いた顔色で、足もとにつどうた杣たちにねんごろな別をつげてから、再び森の熊笹を踏み開いて、元来たやうにのしのしと、山奥へ独り往んでしまうた。 が大名にならうず願望がことは、間もなく遠近の山里にも知れ渡つたが、ほど経て又かやうな噂が、風のたよりに伝はつて参つた。 と申すは国ざかひの湖で、大ぜいの漁夫たちが泥に吸はれた大船をひきなづんで居つた所に、怪しげな山男がどこからか現れて、その船の帆柱をむずとつかんだと見てあれば、苦もなく岸へひきよせて、一同の驚き呆れるひまに、早くも姿をかくしたと云ふ噂ぢや。 を見知つたほどの山賤たちは、皆この情ぶかい山男が、愈「しりや」 の国中から退散したことを悟つたれば、西空に屏風を立てまはした山々の峰を仰ぐ毎に、限りない名残りが惜しまれて、自らため息がもれたと申す。 まいてあの羊飼のわらんべなどは、夕日が山かげに沈まうず時は、必村はづれの一本杉にたかだかとよぢのぼつて、下につどうた羊のむれも忘れたやうに、「れぷろぼす」 恋しや、山を越えてどち行つたと、かなしげな声で呼びつづけた。 が、如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らうず方々はまづ次のくだりを読ませられい。 の城裡に参つたが、田舎の山里とはこと変り、この「あんちおきや」 の都と申すは、この頃天が下に並びない繁華の土地がらゆゑ、山男が巷へはいるや否や、見物の男女夥しうむらがつて、はては通行することも出来まじいと思はれた。 もとんと行かうず方角を失うて、人波に腰を揉まれながら、とある大名小路の辻に立ちすくんでしまうたに、折よくそこへ来かかつたは、帝の御輦をとりまいた、侍たちの行列ぢや。 見物の群集はこれに先を追はれて、山男を一人残いた儘、見る見る四方へ遠のいてしまうた。 は、大象の足にまがはうずしたたかな手を大地について、御輦の前に頭を下げながら、 の帝は、天下無双の大将と承り、御奉公申さうずとて、はるばるこれまでまかり上つた。」 の姿に胆をけして、先手は既に槍薙刀の鞘をも払はうずけしきであつたが、この殊勝な言を聞いて、異心もあるまじいものと思ひつらう、とりあへず行列をそこに止めて、供頭の口からその趣をしかじかと帝へ奏聞した。 「かほどの大男のことなれば、一定武勇も人に超えつらう。 と、仰せられたれば、格別の詮議とあつて、すぐさま同勢の内へ加へられた。 ぢやによつて帝の行列の後から、三十人の力士もえ舁くまじい長櫃十棹の宰領を承つて、ほど近い御所の門まで、鼻たかだかと御供仕つた。 が、山ほどな長櫃を肩にかけて、行列の人馬を目の下に見下しながら、大手をふつてまかり通つた異形奇体の姿こそ、目ざましいものでおぢやつたらう。 は、漆紋の麻裃に朱鞘の長刀を横たへて、朝夕「あんちおきや」 の帝の御所を守護する役者の身となつたが、幸ここに功名手がらを顕さうず時節が到来したと申すは、ほどなく隣国の大軍がこの都を攻めとらうと、一度に押し寄せて参つたことぢや。 元来この隣国の大将は、獅子王をも手打ちにすると聞えた、万夫不当の剛の者でおぢやれば、「あんちおきや」 ぢやによつて今度の先手は、今まゐりながら「れぷろぼす」 に仰せつけられ、帝は御自ら本陣に御輦をすすめて、号令を司られることとなつた。 が、悦び身にあまりて、足の踏みども覚えなんだは、毛頭無理もおぢやるまい。 をまつさきに、貝金陣太鼓の音も勇しう、国ざかひの野原に繰り出された。 かくと見た敵の軍勢は、元より望むところの合戦ぢやによつて、なじかは寸刻もためらはう。 野原を蔽うた旗差物が、俄に波立つたと見てあれば、一度にどつと鬨をつくつて、今にも懸け合はさうずけしきに見えた。 の人数の中より、一人悠々と進み出いたは、別人でもない「れぷろぼす」 山男がこの日の出で立ちは、水牛の兜に南蛮鉄の鎧を着下いて、刃渡り七尺の大薙刀を柄みじかにおつとつたれば、さながら城の天主に魂が宿つて、大地も狭しと揺ぎ出いた如くでおぢやる。 は両軍の唯中に立ちはだかると、その大薙刀をさしかざいて、遙に敵勢を招きながら、雷のやうな声で呼はつたは、 「遠からんものは音にも聞け、近くばよつて目にも見よ。 の帝が陣中に、さるものありと知られたる『れぷろぼす』 辱くも今日は先手の大将を承り、ここに軍を出いたれば、われと思はうずるものどもは、近う寄つて勝負せよやつ。」 と聞えたが、鱗綴の大鎧に銅の矛を提げて、百万の大軍を叱陀したにも、劣るまじいと見えたれば、さすが隣国の精兵たちも、しばしがほどは鳴を静めて、出で合うずものもおりなかつた。 ぢやによつて敵の大将も、この山男を討たいでは、かなふまじいと思ひつらう。 美々しい物の具に三尺の太刀をぬきかざいて、竜馬に泡を食ませながら、これも大音に名乗りをあげて、まつしぐらに「れぷろぼす」 なれどもこなたはものともせいで、大薙刀をとりのべながら、二太刀三太刀あしらうたが、やがて得物をからりと捨てて、猿臂をのばいたと見るほどに、早くも敵の大将を鞍壺からひきぬいて、目もはるかな大空へ、礫の如く投げ飛ばいた。 その敵の大将がきりきりと宙に舞ひながら、味方の陣中へどうと落ちて、乱離骨灰になつたのと、「あんちおきや」 の同勢が鯨波の声を轟かいて、帝の御輦を中にとりこめ、雪崩の如く攻めかかつたのとが、間に髪をも入れまじい、殆ど同時の働きぢや。 されば隣国の軍勢は、一たまりもなく浮き足立つて、武具馬具のたぐひをなげ捨てながら、四分五裂に落ち失せてしまうた。 の帝がこの日の大勝利は、味方の手にとつた兜首の数ばかりも、一年の日数よりは多かつたと申すことでおぢやる。 ぢやによつて帝は御悦び斜ならず、目でたく凱歌の裡に軍をめぐらされたが、やがて「れぷろぼす」 には大名の位を加へられ、その上諸臣にも一々勝利の宴を賜つて、ねんごろに勲功をねぎらはれた。 当時国々の形儀とあつて、その夜も高名な琵琶法師が、大燭台の火の下に節面白う絃を調じて、今昔の合戦のありさまを、手にとる如く物語つた。 は、かねての大願を成就したことでおぢやれば、涎も垂れようずばかり笑み傾いて、余念もなく珍陀の酒を酌みかはいてあつた所に、ふと酔うた眼にもとまつたは、錦の幔幕を張り渡いた正面の御座にわせられる帝の異な御ふるまひぢや。 何故と申せば、検校のうたふ物語の中に、悪魔と云ふ言葉がおぢやると思へば、帝はあわただしう御手をあげて、必ず十字の印を切らせられた。 その御ふるまひが怪しからずものものしげに見えたれば、「れぷろぼす」 「何として帝は、あのやうに十字の印を切らせられるぞ。」 「総じて悪魔と申すものは、天が下の人間をも掌にのせて弄ぶ、大力量のものでおぢやる。 ぢやによつて帝も、悪魔の障碍を払はうずと思召され、再三十字の印を切つて、御身を守らせ給ふのぢや。」 されば悪魔も帝の御身には、一指をだに加へまじい。」 「いや、いや、帝も、悪魔ほどの御威勢はおぢやるまい。」 「それがしが帝に随身し奉つたは、天下無双の強者は帝ぢやと承つた故でおぢやる。 しかるにその帝さへ、悪魔には腰を曲げられるとあるなれば、それがしはこれよりまかり出でて、悪魔の臣下と相成らうず。」 と喚きながら、ただちに珍陀の盃を抛つて、立ち上らうと致いたれば、一座の侍はさらいでも、「れぷろぼす」 と異口同音に罵り騒いで、やにはに四方八方から搦めとらうと競ひ立つた。 も日頃ならば、さうなくこの侍だちに組みとめられう筈もあるまじい。 なれどもその夜は珍陀の酔に前後も不覚の体ぢやによつて、しばしがほどこそ多勢を相手に、組んづほぐれつ、揉み合うても居つたが、やがて足をふみすべらいて、思はずどうとまろんだれば、えたりやおうと侍だちは、いやが上にも折り重つて、怒り狂ふ「れぷろぼす」 と、大いに逆鱗あつたによつて、あはれや「れぷろぼす」 はその夜の内に、見るもいぶせい地の底の牢舎へ、禁獄せられる身の上となつた。 が、その後如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らうず方々は、まづ次のくだりを読ませられい。 は、未だ繩目もゆるされいで、土の牢の暗の底へ、投げ入れられたことでおぢやれば、しばしがほどは赤子のやうに、唯おうおうと声を上げて、泣き喚くより外はおりなかつた。 その時いづくよりとも知らず、緋の袍をまとうた学匠が、忽然と姿を現いて、やさしげに問ひかけたは、 とあつたれば、山男は今更ながら、滝のやうに涙を流いて、 「それがしは、帝に背き奉つて、悪魔に仕へようずと申したれば、かやうに牢舎致されたのでおぢやる。 「さらばおぬしは、今もなほ悪魔に仕へようず望がおりやるか。」 学匠は大いにこの返事を悦んで、土の牢も鳴りどよむばかり、からからと笑ひ興じたが、やがて三度やさしげに申したは、 「おぬしの所望は、近頃殊勝千万ぢやによつて、これよりただちに牢舎を赦いてとらさうずる。」 が上に蔽うたれば、不思議や総身の縛めは、悉くはらりと切れてしまうた。 されば恐る恐る身を起いて、学匠の顔を見上げながら、慇懃に礼を為いて申したは、 「それがしが繩目を赦いてたまはつた御恩は、生々世々忘却つかまつるまじい。 なれどもこの土の牢をば、何として忍び出で申さうずる。」 と申しも果ず、やにはに緋の袍の袖をひらいて、「れぷろぼす」 を小脇に抱いたれば、見る見る足下が暗うなつて、もの狂ほしい一陣の風が吹き起つたと思ふほどに、二人は何時か宙を踏んで、牢舎を後に飄々と「あんちおきや」 まことやその時は学匠の姿も、折から沈まうず月を背負うて、さながら怪しげな大蝙蝠が、黒雲の翼を一文字に飛行する如く見えたと申す。 は愈胆を消いて、学匠もろとも中空を射る矢のやうに翔りながら、戦く声で尋ねたは、 ごへんほどな大神通の博士は、世にも又とあるまじいと覚ゆる。」 と申したに、学匠は忽ち底気味悪いほくそ笑みを洩しながら、わざとさりげない声で答へたは、 「何を隠さう、われらは、天が下の人間を掌にのせて弄ぶ、大力量の剛の者ぢや。」 は始めて学匠の本性が、悪魔ぢやと申すことに合点が参つた。 さるほどに悪魔はこの問答の間さへ、妖霊星の流れる如く、ひた走りに宙を走つたれば、「あんちおきや」 の都の燈火も、今ははるかな闇の底に沈みはてて、やがて足もとに浮んで参つたは、音に聞く「えじつと」 幾百里とも知れまじい砂の原が、有明の月の光の中に、夜目にも白々と見え渡つた。 この時学匠は爪長な指をのべて、下界をゆびさしながら申したは、 「かしこの藁屋には、さる有験の隠者が住居致いて居ると聞いた。 を小脇に抱いた儘、とある沙山陰のあばら家の棟へ、ひらひらと空から舞ひ下つた。 こなたはそのあばら家に行ひすまいて居つた隠者の翁ぢや。 折から夜のふけたのも知らず、油火のかすかな光の下で、御経を読誦し奉つて居つたが、忽ちえならぬ香風が吹き渡つて、雪にも紛はうず桜の花が紛々と飜り出いたと思へば、いづくよりともなく一人の傾城が、鼈甲の櫛笄を円光の如くさしないて、 地獄絵を繍うた襠の裳を長々とひきはえながら、天女のやうな媚を凝して、夢かとばかり眼の前へ現れた。 の沙漠が、片時の内に室神崎の廓に変つたとも思ひつらう。 あまりの不思議さに我を忘れて、しばしがほどは惚々と傾城の姿を見守つて居つたに、相手はやがて花吹雪を身に浴びながら、につこと微笑んで申したは、 近ごろ御僧のつれづれを慰めまゐらせうと存じたれば、はるばるこれまでまかり下つた。」 その声ざまの美しさは、極楽に棲むとやら承つた伽陵頻伽にも劣るまじい。 さればさすがに有験の隠者もうかとその手に乗らうとしたが、思へばこの真夜中に幾百里とも知らぬ「あんちおきや」 さては又しても悪魔めの悪巧みであらうずと心づいたによつて、ひたと御経に眼を曝しながら、専念に陀羅尼を誦し奉つて居つたに、傾城はかまへてこの隠者の翁を落さうと心にきはめつらう。 蘭麝の薫を漂はせた綺羅の袂を弄びながら、嫋々としたさまで、さも恨めしげに歎いたは、 「如何に遊びの身とは申せ、千里の山河も厭はいで、この沙漠までまかり下つたを、さりとは曲もない御方かな。」 その姿の妙にも美しい事は、散りしく桜の花の色さへ消えようずると思はれたが、隠者の翁は遍身に汗を流いて、降魔の呪文を読みかけ読みかけ、かつふつその悪魔の申す事に耳を借さうず気色すらおりない。 されば傾城もかくてはなるまじいと気を苛つたか、つと地獄絵の裳を飜して、斜に隠者の膝へとすがつたと思へば、 と見るや否や隠者の翁は、蝎に刺されたやうに躍り上つたが、早くも肌身につけた十字架をかざいて、霹靂の如く罵つたは、 打たれた傾城は落花の中に、なよなよと伏しまろんだが、忽ちその姿は見えずなつて、唯一むらの黒雲が湧き起つたと思ふほどに、怪しげな火花の雨が礫の如く乱れ飛んで、 もとより隠者はかうあらうと心に期して居つたによつて、この間も秘密の真言を絶えず声高に誦し奉つたに、見る見る黒雲も薄れれば、桜の花も降らずなつて、あばら家の中には又もとの如く、油火ばかりが残つたと申す。 なれど隠者は悪魔の障碍が猶もあるべいと思うたれば、夜もすがら御経の力にすがり奉つて、目蓋も合はさいで明いたに、やがてしらしら明けと覚しい頃、誰やら柴の扉をおとづれるものがあつたによつて、十字架を片手に立ち出でて見たれば、これは又何ぞや、藁屋の前に蹲つて、 恭しげに時儀を致いて居つたは、天から降つたか、地から湧いたか、小山のやうな大男ぢや。 それが早くも朱を流いた空を黒々と肩にかぎつて、隠者の前に頭を下げると、恐る恐る申したは、 ちかごろふつと悪魔の下部と相成つて、はるばるこの『えじつと』 の沙漠まで参つたれど、悪魔も御主『えす・きりしと』 とやらんの御威光には叶ひ難く、それがし一人を残し置いて、いづくともなく逐天致いた。 自体それがしは今天が下に並びない大剛の者を尋ね出いて、その身内に仕へようずる志がおぢやるによつて、何とぞこれより後は不束ながら、御主『えす・きりしと』 隠者の翁はこれを聞くと、あばら家の門に佇みながら、俄に眉をひそめて答へたは、 総じて悪魔の下部となつたものは、枯木に薔薇の花が咲かうずるまで、御主『えす・きりしと』 「たとへ幾千歳を経ようずるとも、それがしは初一念を貫かうずと決定致いた。 所で隠者の翁と山男との間には、かやうな問答がしかつめらしうとり交されたと申す事でおぢやる。 「如何なこと、それがしは聞えた大飯食ひでおぢやる。 それにはさすがの隠者の翁も、ほとほと言のつぎ穂さへおぢやらなんだが、やがて掌をはたと打つて、したり顔に申したは、 「ここを南に去ること一里がほどに、流沙河と申す大河がおぢやる。 この河は水嵩も多く、流れも矢を射る如くぢやによつて、日頃から人馬の渡りに難儀致すとか承つた。 なれどごへんほどの大男には、容易く徒渉りさへならうずる。 さればごへんはこれよりこの河の渡し守となつて、往来の諸人を渡させられい。 おのれ人に篤ければ、天主も亦おのれに篤からう道理ぢや。」 「如何にも、その流沙河とやらの渡し守になり申さうずる。」 とあつて、おのれは水瓶をかい抱きながら、もそもそと藁家の棟へ這ひ上つて、漸く山男の頭の上へその水瓶の水を注ぎ下いた。 ここに不思議がおぢやつたと申すは、得度の御儀式が終りも果てず、折からさし上つた日輪の爛々と輝いた真唯中から、何やら雲気がたなびいたかと思へば、忽ちそれが数限りもない四十雀の群となつて、空に聳えた「れぷろぼす」 が叢ほどな頭の上へ、ばらばらと舞ひ下つたことぢや。 この不思議を見た隠者の翁は、思はず御水を授けようず方角さへも忘れはてて、うつとりと朝日を仰いで居つたが、やがて恭しく天上を伏し拝むと、家の棟から「れぷろぼす」 「勿体なくも御水を頂かれた上からは、向後『れぷろぼす』 思ふに天主もごへんの信心を深う嘉させ給ふと見えたれば、万一勤行に懈怠あるまじいに於ては、必定遠からず御主『えす・きりしと』 が、その後如何なる仕合せにめぐり合うたか、右の一条を知らうず方々はまづ次のくだりを読ませられい。 は隠者の翁に別れを告げて、流沙河のほとりに参つたれば、まことに濁流滾々として、岸べの青蘆を戦がせながら、百里の波を翻すありさまは、容易く舟さへ通ふまじい。 なれど山男は身の丈凡そ三丈あまりもおぢやるほどに、河の真唯中を越す時さへ、水は僅に臍のあたりを渦巻きながら流れるばかりぢや。 はこの河べに、ささやかながら庵を結んで、時折渡りに難むと見えた旅人の影が眼に触れれば、すぐさまそのほとりへ歩み寄つて、「これはこの流沙河の渡し守でおぢやる。」 もとより並々の旅人は、山男の恐しげな姿を見ると、如何なる天魔波旬かと始は胆も消いて逃げのいたが、やがてその心根のやさしさもとくと合点行つて、「然らば御世話に相成らうず。」 は旅人を肩へゆり上げると、毎時も汀の柳を根こぎにしたしたたかな杖をつき立てながら、逆巻く流れをことともせず、ざんざざんざと水を分けて、難なく向うの岸へ渡いた。 しかもあの四十雀は、その間さへ何羽となく、さながら楊花の飛びちるやうに、絶えず「きりしとほろ」 が信心の辱さには、無心の小鳥も随喜の思にえ堪へなんだのでおぢやらうず。 は、風雨も厭はず三年が間、渡し守の役目を勤めて居つたが、渡りを尋ねる旅人の数は多うても、御主「えす・きりしと」 が、その三年目の或夜のこと、折から凄じい嵐があつて、神鳴りさへおどろと鳴り渡つたに、山男は四十雀と庵を守つて、すぎこし方のことどもを夢のやうに思ひめぐらいて居つたれば、忽ち車軸を流す雨を圧して、いたいけな声が響いたは、 は身を起いて、外の闇夜へ揺ぎ出いたに、如何なこと、河のほとりには、年の頃もまだ十には足るまじい、みめ清らかな白衣のわらんべが、空をつんざいて飛ぶ稲妻の中に、頭を低れて唯ひとり、佇んで居つたではおぢやるまいか。 山男は稀有の思をないて、千引の巌にも劣るまじい大の体をかがめながら、慰めるやうに問ひ尋ねたは、 「おぬしは何としてかやうな夜更けにひとり歩くぞ。」 はこの答を聞いても、一向不審は晴れなんだが、何やらその渡りを急ぐ容子があはれにやさしく覚えたによつて、 と、双手にわらんべをかい抱いて、日頃の如く肩へのせると、例の太杖をてうとついて、岸べの青蘆を押し分けながら、嵐に狂ふ夜河の中へ、胆太くもざんぶと身を浸いた。 が、風は黒雲を巻き落いて、息もつかすまじいと吹きどよもす。 雨も川面を射白まいて、底にも徹らうずばかり降り注いだ。 時折闇をかい破る稲妻の光に見てあれば、浪は一面に湧き立ち返つて、宙に舞上る水煙も、さながら無数の天使たちが雪の翼をはためかいて、飛びしきるかとも思ふばかりぢや。 も、今宵はほとほと渡りなやんで、太杖にしかとすがりながら、礎の朽ちた塔のやうに、幾度もゆらゆらと立ちすくんだが、雨風よりも更に難儀だつたは、怪からず肩のわらんべが次第に重うなつたことでおぢやる。 始はそれもさばかりに、え堪へまじいとは覚えなんだが、やがて河の真唯中へさしかかつたと思ふほどに、白衣のわらんべが重みは愈増いて、今は恰も大磐石を負ひないてゐるかと疑はれた。 も、あまりの重さに圧し伏されて、所詮はこの流沙河に命を殞すべいと覚悟したが、ふと耳にはいつて来たは、例の聞き慣れた四十雀の声ぢや。 はてこの闇夜に何として、小鳥が飛ばうぞと訝りながら、頭を擡げて空を見たれば、不思議やわらんべの面をめぐつて、三日月ほどな金光が燦爛と円く輝いたに、四十雀はみな嵐をものともせず、その金光のほとりに近く、紛々と躍り狂うて居つた。 これを見た山男は、小鳥さへかくは雄々しいに、おのれは人間と生まれながら、なじかは三年の勤行を一夜に捨つべいと思ひつらう。 あの葡萄蔓にも紛はうず髪をさつさつと空に吹き乱いて、寄せては返す荒波に乳のあたりまで洗はせながら、太杖も折れよとつき固めて、必死に目ざす岸へと急いだ。 それが凡そ一時あまり、四苦八苦の内に続いたでおぢやらう。 は漸く向うの岸へ、戦ひ疲れた獅子王のけしきで、喘ぎ喘ぎよろめき上ると、柳の太杖を砂にさいて、肩のわらんべを抱き下しながら、吐息をついて申したは、 「はてさて、おぬしと云ふわらんべの重さは、海山量り知れまじいぞ。」 とあつたに、わらんべはにつこと微笑んで、頭上の金光を嵐の中に一きは燦然ときらめかいながら、山男の顔を仰ぎ見て、さも懐しげに答へたは、 おぬしは今宵と云ふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』 その夜この方流沙河のほとりには、あの渡し守の山男がむくつけい姿を見せずなつた。 唯後に残つたは、向うの岸の砂にさいた、したたかな柳の太杖で、これには枯れ枯れな幹のまはりに、不思議や麗しい紅の薔薇の花が、薫しく咲き誇つて居つたと申す。 されば馬太の御経にも記いた如く「心の貧しいものは仕合せぢや。 今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春私は実践倫理学の講義を依頼されて、その間かれこれ一週間ばかり、岐阜県下の大垣町へ滞在する事になった。 元来地方有志なるものの難有迷惑な厚遇に辟易していた私は、私を請待してくれたある教育家の団体へ予め断りの手紙を出して、送迎とか宴会とかあるいはまた名所の案内とか、そのほかいろいろ講演に附随する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。 すると幸私の変人だと云う風評は夙にこの地方にも伝えられていたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その団体の会長たる大垣町長の斡旋によって、万事がこの我儘な希望通り取計らわれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、 町内の素封家N氏の別荘とかになっている閑静な住居を周旋された。 私がこれから話そうと思うのは、その滞在中その別荘で偶然私が耳にしたある悲惨な出来事の顛末である。 その住居のある所は、巨鹿城に近い廓町の最も俗塵に遠い一区劃だった。 殊に私の起臥していた書院造りの八畳は、日当りこそ悪い憾はあったが、障子襖もほどよく寂びのついた、いかにも落着きのある座敷だった。 私の世話を焼いてくれる別荘番の夫婦者は、格別用のない限り、いつも勝手に下っていたから、このうす暗い八畳の間は大抵森閑として人気がなかった。 それは御影の手水鉢の上に枝を延ばしている木蓮が、時々白い花を落すのでさえ、明に聞き取れるような静かさだった。 毎日午前だけ講演に行った私は、午後と夜とをこの座敷で、はなはだ泰平に暮す事が出来た。 が、同時にまた、参考書と着換えとを入れた鞄のほかに何一つない私自身を、春寒く思う事も度々あった。 もっとも午後は時折来る訪問客に気が紛れて、さほど寂しいとは思わなかった。 が、やがて竹の筒を台にした古風なランプに火が燈ると、人間らしい気息の通う世界は、たちまちそのかすかな光に照される私の周囲だけに縮まってしまった。 しかも私にはその周囲さえ、決して頼もしい気は起させなかった。 私の後にある床の間には、花も活けてない青銅の瓶が一つ、威かつくどっしりと据えてあった。 そうしてその上には怪しげな楊柳観音の軸が、煤けた錦襴の表装の中に朦朧と墨色を弁じていた。 私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた仏画をふり返ると、必ずきもしない線香がどこかでっているような心もちがした。 それほど座敷の中には寺らしい閑寂の気が罩っていた。 雨戸の外では夜鳥の声が、遠近を定めず私を驚かした。 昼見るといつも天主閣は、蓊鬱とした松の間に三層の白壁を畳みながら、その反り返った家根の空へ無数の鴉をばら撒いている。―― 私はいつかうとうとと浅い眠に沈みながら、それでもまだ腹の底には水のような春寒が漂っているのを意識した。 それは予定の講演日数が将に終ろうとしている頃であった。 私はいつもの通りランプの前にあぐらをかいて、漫然と書見に耽っていると、突然次の間との境の襖が無気味なほど静に明いた。 その明いたのに気がついた時、無意識にあの別荘番を予期していた私は、折よく先刻書いて置いた端書の投函を頼もうと思って、何気なくその方を一瞥した。 するとその襖側のうす暗がりには、私の全く見知らない四十恰好の男が一人、端然として坐っていた。 と云うよりもむしろ迷信的な恐怖に近い一種の感情に脅かされた。 また実際その男は、それだけのショックに価すべく、ぼんやりしたランプの光を浴びて、妙に幽霊じみた姿を具えていた。 が、彼は私と顔を合わすと、昔風に両肱を高く張って恭しく頭を下げながら、思ったよりも若い声で、ほとんど機械的にこんな挨拶の言を述べた。 「夜中、殊に御忙しい所を御邪魔に上りまして、何とも申し訳の致しようはございませんが、ちと折入って先生に御願い申したい儀がございまして、失礼をも顧ず、参上致したような次第でございます。」 ようやく最初のショックから恢復した私は、その男がこう弁じ立てている間に、始めて落着いて相手を観察した。 彼は額の広い、頬のこけた、年にも似合わず眼に働きのある、品の好い半白の人物だった。 それが紋附でこそなかったが、見苦しからぬ羽織袴で、しかも膝のあたりにはちゃんと扇面を控えていた。 ただ、咄嗟の際にも私の神経を刺戟したのは、彼の左の手の指が一本欠けている事だった。 私はふとそれに気がつくと、我知らず眼をその手から外らさないではいられなかった。 私は読みかけた書物を閉じながら、無愛想にこう問いかけた。 云うまでもなく私には、彼の唐突な訪問が意外であると共に腹立しかった。 と同時にまた別荘番が一言もこの客来を取次がないのも不審だった。 しかしその男は私の冷淡な言葉にもめげないで、もう一度額を畳につけると、相不変朗読でもしそうな調子で、 「申し遅れましたが、私は中村玄道と申しますもので、やはり毎日先生の御講演を伺いに出て居りますが、勿論多数の中でございますから、御見覚えもございますまい。 どうかこれを御縁にして、今後はまた何分ともよろしく御指導のほどを御願い致します。」 私はここに至って、ようやくこの男の来意が呑みこめたような心もちがした。 が、夜中書見の清興を破られた事は、依然として不快に違いなかった。 こう尋ねた私は内心ひそかに、「質疑なら明日講演場で伺いましょう。」 しかし相手はやはり顔の筋肉一つ動かさないで、じっと袴の膝の上に視線を落しながら、 ございませんが、実は私一身のふり方につきまして、善悪とも先生の御意見を承りたいのでございます。 と申しますのは、唯今からざっと二十年ばかり以前、私はある思いもよらない出来事に出合いまして、その結果とんと私にも私自身がわからなくなってしまいました。 つきましては、先生のような倫理学界の大家の御説を伺いましたら、自然分別もつこうと存じまして、今晩はわざわざ推参致したのでございます。 御退屈でも私の身の上話を一通り御聴き取り下さる訳には参りますまいか。」 成程専門の上から云えば倫理学者には相違ないが、そうかと云ってまた私は、その専門の知識を運転させてすぐに当面の実際問題への霊活な解決を与え得るほど、融通の利く頭脳の持ち主だとは遺憾ながら己惚れる事が出来なかった。 すると彼は私の逡巡に早くも気がついたと見えて、今まで袴の膝の上に伏せていた視線をあげると、半ば歎願するように、怯ず怯ず私の顔色を窺いながら、前よりやや自然な声で、慇懃にこう言葉を継いだ。 「いえ、それも勿論強いて先生から、是非の御判断を伺わなくてはならないと申す訳ではございません。 ただ、私がこの年になりますまで、始終頭を悩まさずにはいられなかった問題でございますから、せめてその間の苦しみだけでも先生のような方の御耳に入れて、多少にもせよ私自身の心やりに致したいと思うのでございます。」 こう云われて見ると私は、義理にもこの見知らない男の話を聞かないと云う訳には行かなかった。 が、同時にまた不吉な予感と茫漠とした一種の責任感とが、重苦しく私の心の上にのしかかって来るような心もちもした。 私はそれらの不安な感じを払い除けたい一心から、わざと気軽らしい態度を装って、うすぼんやりしたランプの向うに近々と相手を招じながら、 もっともそれを伺ったからと云って、格別御参考になるような意見などは申し上げられるかどうかわかりませんが。」 「いえ、ただ、御聞きになってさえ下されば、それでもう私には本望すぎるくらいでございます。」 中村玄道と名のった人物は、指の一本足りない手に畳の上の扇子をとり上げると、時々そっと眼をあげて私よりもむしろ床の間の楊柳観音を偸み見ながら、やはり抑揚に乏しい陰気な調子で、とぎれ勝ちにこう話し始めた。 御承知の通り二十四年と申しますと、あの濃尾の大地震がございました年で、あれ以来この大垣もがらりと容子が違ってしまいましたが、その頃町には小学校がちょうど二つございまして、一つは藩侯の御建てになったもの、一つは町方の建てたものと、 私はその藩侯の御建てになったK小学校へ奉職して居りましたが、二三年前に県の師範学校を首席で卒業致しましたのと、その後また引き続いて校長などの信用も相当にございましたのとで、年輩にしては高級な十五円と云う月俸を頂戴致して居りました。 唯今でこそ十五円の月給取は露命も繋げないぐらいでございましょうが、何分二十年も以前の事で、十分とは参りませんまでも、暮しに不自由はございませんでしたから、同僚の中でも私などは、どちらかと申すと羨望の的になったほどでございました。 家族は天にも地にも妻一人で、それもまだ結婚してから、ようやく二年ばかりしか経たない頃でございました。 妻は校長の遠縁のもので、幼い時に両親に別れてから私の所へ片づくまで、ずっと校長夫婦が娘のように面倒を見てくれた女でございます。 名は小夜と申しまして、私の口から申し上げますのも、異なものでございますが、至って素直な、はにかみ易い―― その代りまた無口過ぎて、どこか影の薄いような、寂しい生れつきでございました。 が、私には似たもの夫婦で、たといこれと申すほどの花々しい楽しさはございませんでも、まず安らかなその日その日を、送る事が出来たのでございます。 忘れも致しません十月の二十八日、かれこれ午前七時頃でございましょうか。 私が井戸端で楊枝を使っていると、妻は台所で釜の飯を移している。―― それがほんの一二分の間の事で、まるで大風のような凄まじい地鳴りが襲いかかったと思いますと、たちまちめきめきと家が傾いで、後はただ瓦の飛ぶのが見えたばかりでございます。 私はあっと云う暇もなく、やにわに落ちて来た庇に敷かれて、しばらくは無我無中のまま、どこからともなく寄せて来る大震動の波に揺られて居りましたが、やっとその庇の下から土煙の中へ這い出して見ますと、目の前にあるのは私の家の屋根で、しかも瓦の間に草の生えたのが、 まるで放心したのも同前で、べったりそこへ腰を抜いたなり、ちょうど嵐の海のように右にも左にも屋根を落した家々の上へ眼をやって、地鳴りの音、梁の落ちる音、樹木の折れる音、壁の崩れる音、それから幾千人もの人々が逃げ惑うのでございましょう、 声とも音ともつかない響が騒然と煮えくり返るのをぼんやり聞いて居りました。 が、それはほんの刹那の間で、やがて向うの庇の下に動いているものを見つけますと、私は急に飛び上って、凶い夢からでも覚めたように意味のない大声を挙げながら、いきなりそこへ駈けつけました。 庇の下には妻の小夜が、下半身を梁に圧されながら、悶え苦しんで居ったのでございます。 が、圧しにかかった梁は、虫の這い出すほども動きません。 私はうろたえながら、庇の板を一枚一枚むしり取りました。 いやあるいは私自身を励ましていたのかも存じません。 が、私に励まされるまでもなく、別人のように血相を変えて、必死に梁を擡げようと致して居りましたから、私はその時妻の両手が、爪も見えないほど血にまみれて、震えながら梁をさぐって居ったのが、今でもまざまざと苦しい記憶に残っているのでございます。 その内にふと気がつきますと、どこからか濛々とした黒煙が一なだれに屋根を渡って、むっと私の顔へ吹きつけました。 と思うと、その煙の向うにけたたましく何か爆ぜる音がして、金粉のような火粉がばらばらと疎らに空へ舞い上りました。 そうしてもう一度無二無三に、妻の体を梁の下から引きずり出そうと致しました。 が、やはり妻の下半身は一寸も動かす事は出来ません。 私はまた吹きつけて来る煙を浴びて、庇に片膝つきながら、噛みつくように妻へ申しました。 と御尋ねになるかも存じません、いや、必ず御尋ねになりましょう。 しかし私も何を申したか、とんと覚えていないのでございます。 ただ私はその時妻が、血にまみれた手で私の腕をつかみながら、「あなた。」 あらゆる表情を失った、眼ばかり徒に大きく見開いている、気味の悪い顔でございます。 すると今度は煙ばかりか、火の粉を煽った一陣の火気が、眼も眩むほど私を襲って来ました。 妻は生きながら火に焼かれて、死ぬのだと思いました。 私は血だらけな妻の手を握ったまま、また何か喚きました。 と云う言葉の中に、無数の意味、無数の感情を感じたのでございます。 が、何と云ったかわからない内に、私は手当り次第、落ちている瓦を取り上げて、続けさまに妻の頭へ打ち下しました。 それから後の事は、先生の御察しにまかせるほかはございません。 ほとんど町中を焼きつくした火と煙とに追われながら、小山のように路を塞いだ家々の屋根の間をくぐって、ようやく危い一命を拾ったのでございます。 幸か、それともまた不幸か、私には何にもわかりませんでした。 ただその夜、まだ燃えている火事の光を暗い空に望みながら、同僚の一人二人と一しょに、やはり一ひしぎにつぶされた学校の外の仮小屋で、炊き出しの握り飯を手にとった時とめどなく涙が流れた事は、未だにどうしても忘れられません。 中村玄道はしばらく言葉を切って、臆病らしい眼を畳へ落した。 突然こんな話を聞かされた私も、いよいよ広い座敷の春寒が襟元まで押寄せたような心もちがして、「成程」 部屋の中には、ただ、ランプの油を吸い上げる音がした。 それから机の上に載せた私の懐中時計が、細かく時を刻む音がした。 と思うとまたその中で、床の間の楊柳観音が身動きをしたかと思うほど、かすかな吐息をつく音がした。 私は悸えた眼を挙げて、悄然と坐っている相手の姿を見守った。 が、その疑問が解けない内に、中村玄道はやはり低い声で、徐に話を続け出した。 そればかりか、時としては、校長始め同僚から、親切な同情の言葉を受けて、人前も恥じず涙さえ流した事がございました。 が、私があの地震の中で、妻を殺したと云う事だけは、妙に口へ出して云う事が出来なかったのでございます。 「生きながら火に焼かれるよりはと思って、私が手にかけて殺して来ました。」―― これだけの事を口外したからと云って、何も私が監獄へ送られる次第でもございますまい。 いや、むしろそのために世間は一層私に同情してくれたのに相違ございません。 それがどう云うものか、云おうとするとたちまち喉元にこびりついて、一言も舌が動かなくなってしまうのでございます。 当時の私はその原因が、全く私の臆病に根ざしているのだと思いました。 が、実は単に臆病と云うよりも、もっと深い所に潜んでいる原因があったのでございます。 しかしその原因は、私に再婚の話が起って、いよいよもう一度新生涯へはいろうと云う間際までは、私自身にもわかりませんでした。 そうしてそれがわかった時、私はもう二度と人並の生活を送る資格のない、憐むべき精神上の敗残者になるよりほかはなかったのでございます。 再婚の話を私に持ち出したのは、小夜の親許になっていた校長で、これが純粋に私のためを計った結果だと申す事は私にもよく呑み込めました。 また実際その頃はもうあの大地震があってから、かれこれ一年あまり経った時分で、校長がこの問題を切り出した以前にも、内々同じような相談を持ちかけて私の口裏を引いて見るものが一度ならずあったのでございます。 所が校長の話を聞いて見ますと、意外な事にはその縁談の相手と云うのが、唯今先生のいらっしゃる、このN家の二番娘で、当時私が学校以外にも、時々出稽古の面倒を見てやった尋常四年生の長男の姉だったろうではございませんか。 第一教員の私と資産家のN家とでは格段に身分も違いますし、家庭教師と云う関係上、結婚までには何か曰くがあったろうなどと、痛くない腹を探られるのも面白くないと思ったからでございます。 同時にまた私の進まなかった理由の後には、去る者は日に疎しで、以前ほど悲しい記憶はなかったまでも、私自身打ち殺した小夜の面影が、箒星の尾のようにぼんやり纏わっていたのに相違ございません。 が、校長は十分私の心もちを汲んでくれた上で、私くらいの年輩の者が今後独身生活を続けるのは困難だと云う事、しかも今度の縁談は先方から達っての所望だと云う事、校長自身が進んで媒酌の労を執る以上、悪評などが立つ謂われのないと云う事、 そのほか日頃私の希望している東京遊学のごときも、結婚した暁には大いに便宜があるだろうと云う事―― そう事をいろいろ並べ立てて、根気よく私を説きました。 こう云われて見ますと、私も無下には断ってしまう訳には参りません。 そこへ相手の娘と申しますのは、評判の美人でございましたし、その上御恥しい次第ではございますが、N家の資産にも目がくれましたので、校長に勧められるのも度重なって参りますと、いつか「熟考して見ましょう。」 そうしてその年の変った明治二十六年の初夏には、いよいよ秋になったら式を挙げると云う運びさえついてしまったのでございます。 するとその話がきまった頃から、妙に私は気が鬱して、自分ながら不思議に思うほど、何をするにも昔のような元気がなくなってしまいました。 たとえば学校へ参りましても、教員室の机に倚り懸りながら、ぼんやり何かに思い耽って、授業の開始を知らせる板木の音さえ、聞き落してしまうような事が度々あるのでございます。 その癖何が気になるのかと申しますと、それは私にもはっきりとは見極めをつける事が出来ません。 ただ、頭の中の歯車がどこかしっくり合わないような―― しかもそのしっくり合わない向うには、私の自覚を超越した秘密が蟠っているような、気味の悪い心もちがするのでございます。 それがざっと二月ばかり続いてからの事でございましたろう。 ちょうど暑中休暇になった当座で、ある夕方私が散歩かたがた、本願寺別院の裏手にある本屋の店先を覗いて見ますと、その頃評判の高かった風俗画報と申す雑誌が五六冊、夜窓鬼談や月耕漫画などと一しょに、石版刷の表紙を並べて居りました。 そこで店先に佇みながら、何気なくその風俗画報を一冊手にとって見ますと、表紙に家が倒れたり火事が始ったりしている画があって、そこへ二行に「明治廿四年十一月三十日発行、十月廿八日震災記聞」 私の耳もとでは誰かが嬉しそうに嘲笑いながら、「それだ。 私はまだ火をともさない店先の薄明りで、慌しく表紙をはぐって見ました。 するとまっ先に一家の老若が、落ちて来た梁に打ちひしがれて惨死を遂げる画が出て居ります。 それから土地が二つに裂けて、足を過った女子供を呑んでいる画が出て居ります。 一々数え立てるまでもございませんが、その時その風俗画報は、二年以前の大地震の光景を再び私の眼の前へ展開してくれたのでございます。 長良川鉄橋陥落の図、尾張紡績会社破壊の図、第三師団兵士屍体発掘の図、愛知病院負傷者救護の図―― そう云う凄惨な画は次から次と、あの呪わしい当時の記憶の中へ私を引きこんで参りました。 苦痛とも歓喜ともつかない感情は、用捨なく私の精神を蕩漾させてしまいます。 そうして最後の一枚の画が私の眼の前に開かれた時―― 私は今でもその時の驚愕がありあり心に残って居ります。 それは落ちて来た梁に腰を打たれて、一人の女が無惨にも悶え苦しんでいる画でございました。 その梁の横わった向うには、黒煙が濛々と巻き上って、朱を撥いた火の粉さえ乱れ飛んでいるではございませんか。 しかもその途端に一層私を悸えさせたのは、突然あたりが赤々と明くなって、火事を想わせるような煙のがぷんと鼻を打った事でございます。 私は強いて心を押し鎮めながら、風俗画報を下へ置いて、きょろきょろ店先を見廻しました。 店先ではちょうど小僧が吊ランプへ火をとぼして、夕暗の流れている往来へ、まだ煙の立つ燐寸殻を捨てている所だったのでございます。 それ以来、私は、前よりもさらに幽鬱な人間になってしまいました。 今まで私を脅したのはただ何とも知れない不安な心もちでございましたが、その後はある疑惑が私の頭の中に蟠って、日夜を問わず私を責め虐むのでございます。 と申しますのは、あの大地震の時私が妻を殺したのは、果して已むを得なかったのだろうか。―― もう一層露骨に申しますと、私は妻を殺したのは、始から殺したい心があって殺したのではなかったろうか。 大地震はただ私のために機会を与えたのではなかったろうか、―― 私は勿論この疑惑の前に、何度思い切って「否、否。」 と囁いた何物かは、その度にまた嘲笑って、「では何故お前は妻を殺した事を口外する事が出来なかったのだ。」 私はその事実に思い当ると、必ずぎくりと致しました。 ああ、何故私は妻を殺したなら殺したと云い放てなかったのでございましょう。 何故今日までひた隠しに、それほどの恐しい経験を隠して居ったのでございましょう。 しかもその際私の記憶へ鮮に生き返って来たものは、当時の私が妻の小夜を内心憎んでいたと云う、忌わしい事実でございます。 これは恥を御話しなければ、ちと御会得が参らないかも存じませんが、妻は不幸にも肉体的に欠陥のある女でございました。 そこで私はその時までは、覚束ないながら私の道徳感情がともかくも勝利を博したものと信じて居ったのでございます。 が、あの大地震のような凶変が起って、一切の社会的束縛が地上から姿を隠した時、どうしてそれと共に私の道徳感情も亀裂を生じなかったと申せましょう。 どうして私の利己心も火の手を揚げなかったと申せましょう。 私はここに立ち至ってやはり妻を殺したのは、殺すために殺したのではなかったろうかと云う、疑惑を認めずには居られませんでした。 私がいよいよ幽鬱になったのは、むしろ自然の数とでも申すべきものだったのでございます。 しかしまだ私には、「あの場合妻を殺さなかったにしても、妻は必ず火事のために焼け死んだのに相違ない。 そうすれば何も妻を殺したのが、特に自分の罪悪だとは云われない筈だ。」 所がある日、もう季節が真夏から残暑へ振り変って、学校が始まって居た頃でございますが、私ども教員が一同教員室の卓子を囲んで、番茶を飲みながら、他曖もない雑談を交して居りますと、どう云う時の拍子だったか、話題がまたあの二年以前の大地震に落ちた事がございます。 私はその時も独り口を噤んだぎりで、同僚の話を聞くともなく聞き流して居りましたが、本願寺の別院の屋根が落ちた話、船町の堤防が崩れた話、俵町の往来の土が裂けた話―― とそれからそれへ話がはずみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町とかの備後屋と云う酒屋の女房は、一旦梁の下敷になって、身動きも碌に出来なかったのが、その内に火事が始って、梁も幸焼け折れたものだから、やっと命だけは拾ったと、こう云うのでございます。 私はそれを聞いた時に、俄に目の前が暗くなって、そのまましばらくは呼吸さえも止るような心地が致しました。 また実際その間は、失心したも同様な姿だったのでございましょう。 ようやく我に返って見ますと、同僚は急に私の顔色が変って、椅子ごと倒れそうになったのに驚きながら、皆私のまわりへ集って、水を飲ませるやら薬をくれるやら、大騒ぎを致して居りました。 が、私はその同僚に礼を云う余裕もないほど、頭の中はあの恐しい疑惑の塊で一ぱいになっていたのでございます。 私はやはり妻を殺すために殺したのではなかったろうか。 たとい梁に圧されていても、万一命が助かるのを恐れて、打ち殺したのではなかったろうか。 もしあのまま殺さないで置いたなら今の備後屋の女房の話のように、私の妻もどんな機会で九死に一生を得たかも知れない。 そう思った時の私の苦しさは、ひとえに先生の御推察を仰ぐほかはございません。 私はその苦しみの中で、せめてはN家との縁談を断ってでも、幾分一身を潔くしようと決心したのでございます。 ところがいよいよその運びをつけると云う段になりますと、折角の私の決心は未練にもまた鈍り出しました。 何しろ近々結婚式を挙げようと云う間際になって、突然破談にしたいと申すのでございますから、あの大地震の時に私が妻を殺害した顛末は元より、これまでの私の苦しい心中も一切打ち明けなければなりますまい。 それが小心な私には、いざと云う場合に立ち至ると、いかに自ら鞭撻しても、断行する勇気が出なかったのでございます。 が、徒に責めるばかりで、何一つ然るべき処置も取らない内に、残暑はまた朝寒に移り変って、とうとう所謂華燭の典を挙げる日も、目前に迫ったではございませんか。 私はもうその頃には、だれとも滅多に口を利かないほど、沈み切った人間になって居りました。 結婚を延期したらと注意した同僚も、一人や二人ではございません。 医者に見て貰ったらと云う忠告も、三度まで校長から受けました。 が、当時の私にはそう云う親切な言葉の手前、外見だけでも健康を顧慮しようと云う気力さえすでになかったのでございます。 と同時にまたその連中の心配を利用して、病気を口実に結婚を延期するのも、今となっては意気地のない姑息手段としか思われませんでした。 しかも一方ではN家の主人などが、私の気鬱の原因を独身生活の影響だとでも感違いをしたのでございましょう。 一日も早く結婚しろと頻に主張しますので、日こそ違いますが二年前にあの大地震のあった十月、いよいよ私はN家の本邸で結婚式を挙げる事になりました。 連日の心労に憔悴し切った私が、花婿らしい紋服を着用して、いかめしく金屏風を立てめぐらした広間へ案内された時、どれほど私は今日の私を恥しく思ったでございましょう。 私はまるで人目を偸んで、大罪悪を働こうとしている悪漢のような気が致しました。 実際私は殺人の罪悪をぬり隠して、N家の娘と資産とを一時盗もうと企てている人非人なのでございます。 出来るならこの場で、私が妻を殺した一条を逐一白状してしまいたい。―― そんな気がまるで嵐のように、烈しく私の頭の中を駈けめぐり始めました。 するとその時、私の着座している前の畳へ、夢のように白羽二重の足袋が現れました。 続いて仄かな波の空に松と鶴とが霞んでいる裾模様が見えました。 それから錦襴の帯、はこせこの銀鎖、白襟と順を追って、鼈甲の櫛笄が重そうに光っている高島田が眼にはいった時、私はほとんど息がつまるほど、絶対絶命な恐怖に圧倒されて、思わず両手を畳へつくと、『私は人殺しです。 中村玄道はこう語り終ると、しばらくじっと私の顔を見つめていたが、やがて口もとに無理な微笑を浮べながら、 が、ただ一つ御耳に入れて置きたいのは、当日限り私は狂人と云う名前を負わされて、憐むべき余生を送らなければならなくなった事でございます。 果して私が狂人かどうか、そのような事は一切先生の御判断に御任かせ致しましょう。 しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございますまいか。 その怪物が居ります限り、今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、明日はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。―― とまあ私は考えて居るのでございますが、いかがなものでございましょう。」 ランプは相不変私とこの無気味な客との間に、春寒い焔を動かしていた。 私は楊柳観音を後にしたまま、相手の指の一本ないのさえ問い質して見る気力もなく、黙然と坐っているよりほかはなかった。 ある夏の日、笠をかぶった僧が二人、朝鮮平安南道竜岡郡桐隅里の田舎道を歩いていた。 実ははるばる日本から朝鮮の国を探りに来た加藤肥後守清正と小西摂津守行長とである。 二人はあたりを眺めながら、青田の間を歩いて行った。 するとたちまち道ばたに農夫の子らしい童児が一人、円い石を枕にしたまま、すやすや寝ているのを発見した。 加藤清正は笠の下から、じっとその童児へ目を落した。 が、不思議にもその童児は頭を土へ落すどころか、石のあった空間を枕にしたなり、不相変静かに寝入っている! 倭国の禍になるものは芽生えのうちに除こうと思ったのである。 しかし行長は嘲笑いながら、清正の手を押しとどめた。 が、虎髯の生えた鬼上官だけはまだ何か不安そうに時々その童児をふり返っていた。…… 加藤清正と小西行長とは八兆八億の兵と共に朝鮮八道へ襲来した。 家を焼かれた八道の民は親は子を失い、夫は妻を奪われ、右往左往に逃げ惑った。 宣祖王はやっと義州へ走り、大明の援軍を待ちわびている。 もしこのまま手をつかねて倭軍の蹂躙に任せていたとすれば、美しい八道の山川も見る見る一望の焼野の原と変化するほかはなかったであろう。 と云うのは昔青田の畔に奇蹟を現した一人の童児、―― 金応瑞は義州の統軍亭へ駈けつけ、憔悴した宣祖王の竜顔を拝した。 「わたくしのこうして居りますからは、どうかお心をお休めなさりとうございまする。」 もしそちに打てるものなら、まず倭将の首を断ってくれい。」 小西行長はずっと平壌の大同館に妓生桂月香を寵愛していた。 桂月香は八千の妓生のうちにも並ぶもののない麗人である。 が、国を憂うる心は髪に挿した瑰の花と共に、一日も忘れたと云うことはない。 その明眸は笑っている時さえ、いつも長い睫毛のかげにもの悲しい光りをやどしている。 ある冬の夜、行長は桂月香に酌をさせながら、彼女の兄と酒盛りをしていた。 桂月香はふだんよりも一層媚を含みながら、絶えず行長に酒を勧めた。 そのまた酒の中にはいつの間にか、ちゃんと眠り薬が仕こんであった。 しばらくの後、桂月香と彼女の兄とは酔い伏した行長を後にしたまま、そっとどこかへ姿を隠した。 行長は翠金の帳の外に秘蔵の宝剣をかけたなり、前後も知らずに眠っていた。 もっともこれは必ずしも行長の油断したせいばかりではない。 誰でも帳中に入ろうとすれば、帳をめぐった宝鈴はたちまちけたたましい響と共に、行長の眠を破ってしまう。 ただ行長は桂月香のこの宝鈴も鳴らないように、いつのまにか鈴の穴へ綿をつめたのを知らなかったのである。 王命を奉じた金応瑞は高々と袖をからげた手に、青竜刀を一ふり提げていた。 すると行長の宝剣はおのずから鞘を離れるが早いか、ちょうど翼の生えたように金将軍の方へ飛びかかって来た。 しかし金将軍は少しも騒がず、咄嵯にその宝剣を目がけて一口の唾を吐きかけた。 宝剣は唾にまみれると同時に、たちまち神通力を失ったのか、ばたりと床の上へ落ちてしまった。 金応瑞は大いに吼りながら、青竜刀の一払いに行長の首を打ち落した。 が、この恐しい倭将の首は口惜しそうに牙を噛み噛み、もとの体へ舞い戻ろうとした。 この不思議を見た桂月香は裳の中へ手をやるや否や、行長の首の斬り口へ幾掴みも灰を投げつけた。 首は何度飛び上っても、灰だらけになった斬り口へはとうとう一度も据わらなかった。 けれども首のない行長の体は手さぐりに宝剣を拾ったと思うと、金将軍へそれを投げ打ちにした。 不意を打たれた金将軍は桂月香を小腋に抱えたまま、高い梁の上へ躍り上った。 が、行長の投げつけた剣は宙に飛んだ金将軍の足の小指を斬り落した。 王命を果した金将軍は桂月香を背負いながら、人気のない野原を走っていた。 野原の涯には残月が一痕、ちょうど暗い丘のかげに沈もうとしているところだった。 金将軍はふと桂月香の妊娠していることを思い出した。 今のうちに殺さなければ、どう云う大害を醸すかも知れない。 こう考えた金将軍は三十年前の清正のように、桂月香親子を殺すよりほかに仕かたはないと覚悟した。 英雄は古来センティメンタリズムを脚下に蹂躙する怪物である。 金将軍はたちまち桂月香を殺し、腹の中の子供を引ずり出した。 残月の光りに照らされた子供はまだ模糊とした血塊だった。 が、その血塊は身震いをすると、突然人間のように大声を挙げた。 「おのれ、もう三月待てば、父の讐をとってやるものを!」 同時にまた一痕の残月も見る見る丘のかげに沈んでしまった。……… しかし歴史を粉飾するのは必ずしも朝鮮ばかりではない。 あるいはまた小児と大差のない日本男児に教える歴史はこう云う伝説に充ち満ちている。 たとえば日本の歴史教科書は一度もこう云う敗戦の記事を掲げたことはないではないか? 「大唐の軍将、戦艦一百七十艘を率いて白村江(朝鮮忠清道舒川県) このスレッドは1000を超えました。
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