【俳句】プレバトのお題で一句詠みましょう 10
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住人同士の批評は名無しである限りアマチュア同士の感想だと思い、感情的にならないようにしましょう
玄人を自負して批評される方はコテ(+トリップ)で特定されない程度で経歴や入賞歴をつける事をオススメします
お題をキャプチャーしてくださる方募集中です。 >>615
>>616
ありがとうございます。
さらに、口語調にして、としたいところですが、
この辺にします。w >>616
まあまあ
みんな最初はこんなんだったはず 明らかに中学で習うレベルだし
そうでなくとも俳句やってるなら勉強としてじゃなく自分の身体にある程度染み付いてるはずの知識
それをこれほどまでに知らないとは…
どれだけ学校でも俳諧の道でも不真面目であるかということ >>619
最初はみんなそんなもん
その姿勢には若干疑問はあるけどね
学生時代俳句なんて真面目に勉強しなかったわ
朝顔につるべ取られてもらい水
この句を高浜虚子がラジオで20分以上もディスった
これを聞いた時は衝撃だった
しかもそれを知ったのは20代も後半になって
勉強を始めるのに遅すぎるということはない >>619
申し訳ない。
前に表明した通り、自分は俳句の面白さは
”背景に足場を移す気持ちよさ”だと考えている。
知識はむしろないほうが良い。
中学生レベルだとか、その先にもっと上手くなるものがある。
とか言うファンタジーの中にいる人たちはむしろ笑ってしまう。w
母国語を喋れる人、五七五の音が数えられる人となら、
どんな人とでもコミュニケーションの道具になり得るし、
その中で、良い発想に巡り逢えたら、それが醍醐味。
まあ、世の中、点数付けてもらわないとにっちもさっちも
行かない人がほとんどで、プロはそういう人たちに権威と点数を
配って食べているだけどね。w »0593元句
雨後の日へぐいと反りたる胡瓜かな
元句を書いた方は胡瓜が反るのは肥料や水分が足りないために起ったことをご存知なかったと思われる。
間違った事象の句に対して添削することに違和感を感じました。
さらに
大地を吸いて大胡瓜
養分を吸うなら分かりますがねー・ >>621
この辺りの考え方は自由だけど
誰にも認められることのない下手くそな区句
これしか作れないのは寂しいだろ
絶対に人と交われない >>622
内容はともかく
そのアンカー初めて見た 今日はプレバトの日です。
詩の好きな青年描く沙羅しろし ん?出水は秋の季語なんだけど。・・・
ま、なっちゃんだから夏でもいいんだろうなあ。 >>584雨あがる胡瓜陽射しへ反り返る
が原句でそれ以降は添削句。
雨上がる(切れ)胡瓜陽射しへ反り返る
〜る〜るの形が気になるので直してもらいたいが
梅雨晴間や雨後は「梅雨の晴れ間ですよ」「雨の後ですよ」と説明的で
しっくりこないのだろう。
雨上がるという単純な言葉が今、この瞬間雨が上がった空気や水滴が映像になる。 オンエアになんとか間に合いました。
天幕の継ぎ目したたる梅雨の空
梅雨じめり色変わりたる石畳
今回は苦吟しました。
私、梅雨が嫌いなのかなぁ、6月生まれなのに…? 雨後の日へぐいと反りたる胡瓜かな
素敵な句だとおもいます。路地ものの胡瓜でハウスものとはちがう。
市場には出荷できない規格外のヘボ胡瓜なんだろな。でも美味い。
中七の「ぐいと反りたる」で鮮度抜群。 きゅうりが反る科学的な理由を持ち出して句に文句付けてる人、まだいるの!?w
子どもじゃないとしたら、本当に取り返しがつかないほど俳句に向いてないから、やめたほうがいいよ >>630
イマジネーションと現実とのギャップを俳句ではどのように考えているのかな?
現実にとても合わない有名な俳句の例を教えてよ なんでわざわざここで偏屈強情なジジイに教材用意して俳句講義してやんなきゃなんねえんだよw
受け身なのは人生だけにしろ 梅雨じめり色変わりたる石畳
断っておくと、個人的には無季、有季こだわわりません。
自分の評価軸にしたがって、楽しめればいいと思います。
この句は、そうだよねー。って共感できる句で良いと思います。
ただ、前に
”路肩を詠嘆してどうする”と言う人がいましたが、
”石畳がどうかしたのか”と言う人がいても不思議ではありません。
情緒のあるなしを言い合っても無意味です。
その場合、”これは季語ですから”と言えば話は通ります。(そのはずです)
季語にはそういう役割もあるのかなあと思いました。
石畳色変わりたる苔の花 そんなことのために季語があるとしたら、もうおしまいだよ。俳句は。
「梅雨じめり」が駄目。
「じめり」という語はいいけど、「梅雨じめり」は無い。自分でも分かるでしょ? >>635
苔の花…素敵な季語を教えてくださりありがとうございました。 >>0632
朝顔につりべとられてもらい水
やさしい心温まる誰もが認める句ですね
でも、現実的にはあり得ないでしょう
毎日洗濯や炊事に頻繁に使う井戸に朝顔のつるべが絡まるはずがない
このような句が認められているのだから
胡瓜がぐいっと反っても許容範囲では? キュウリの句はてめえらに許容されるまでもなく有りだけど、
それはさておき、朝顔育てたことねえだろ?おまえ 朝顔やつるべ取られてもらひ水(加賀千代女)
にとやでも観点が違いますよ。
帰りたやよひらのはなの咲く頃に >>641
正岡子規 高浜虚子 藤田湘子が
指摘しているのはそこじゃない >>641
> 朝顔につりべとられてもらい水
> やさしい心温まる誰もが認める句ですね
こういう句を認めない結社が多いんだが
分かっててわざと書いてる?
ホトトギスに喧嘩を売ってるのかな まぁ、ちょっと川柳臭さがあって俗っぽいよね。加賀千代女のそれ。
その暮らしの匂い、世の匂いが夏の朝の雰囲気の中で良い感じに輝いてるって部分もあって、
それがこの句の良さ。
だからこそこれだけ賛否両論割れるんだろうけど。
かといって切れ字使って「や」だと、意味が結構分かりづらい。にもかかわらずさほど臭みが抜けるわけでもないしね。
あ、この程度の吟味すらできない人はお呼びでないのでw スルーしてくだせ。 万葉の頃から、女の詠む歌ってやっぱ女特有の雰囲気多い印象。
事態そのものをどこか遠い地点から包み込むような詠い方するんよな。 >>642
作者は物を知りません馬鹿ですという
自虐の句ならありだな 自分は詩のセンス皆無ですって言い続ける刑にでも処されてんの?w >>647
賛否両論分かれているそのポイントがまるで違う >>652
6月はジューンブライドの季節なのに、逆に別れの句というのが切ないね
紫陽花って土(環境)によって色が青になったり赤になったりコロっと変わる
結婚生活みたいだな
助詞「に」で代替できるのに「添えし」が音合わせに使われていて勿体ないかも?
>>654
これは...プレバトのお題と関係あるの?
意図が分からず、解説プリーーーズ >>655
どうもありがとうございます。
置き手紙に…で、もう少し推敲してみます。
たまたま、タイカレーを食べつつ考えておりまして
いろいろな味や香りがあり、爽やかさもあるタイカレーは
いろいろな色の混じった紫陽花みたいだなぁと思いまして…
(*^_^*)どうも失礼しました。 >>651
>>>647
>賛否両論分かれているそのポイントがまるで違う
いろんな賛否両論があるでしょ >>657
ポイントは一つだと思うよ
意味不明な独自理論かざすやつを除けば 新版 20週俳句入門 (角川俳句ライブラリー) 藤田 湘子
俳句とはどんなものか 高浜 虚子
俳句の作りよう 高浜 虚子
この辺り読んでくれ
2、3年俳句やってりゃ本読まなくてもわかると思うが それ、高浜虚子の見方じゃん
賛否両論と言うには足りないよ >>651
正岡子規による非難とも高浜虚子のそれともだいたいのところで意見を同じくしている上に、元の句の情感に対する理解まで示し、
さらに川柳の風合いだったり切れ字の有無による違いにまで言及した適切な読みだと思ったけど?
あなたはどんな賛否の両論を読んだの?何ができるの? >>642,>>643
朝顔なんて小学生いったなら誰でも一度は育てているだろ
この句の生活井戸の周りに何で朝顔を育てているんだよ、邪魔になって仕方がないだろ
また、朝顔のつるは作為がなければつるべに絡むこと何てないだろう
生活井戸の根拠はわざわざ”もらい水”ということから推測できる
江戸中期の女優俳人が作った句を明治の俳人がその人の手記でもなければ推測に過ぎず
何とでも解釈可能だろうよ、”や”で切るより”に”の方がより分り易いよね
もともとは”に”だったんだろ
この千代女という女流俳人が尼さんになった後にこの句を作ったとしたら生活の臭いがしないんだね
その場合、井戸に水を汲みに行くとは思えない、身の回りを世話する人がすることでしょう
そこでこんな推測が
縁側から朝顔の鉢を通して井戸が見える、伸びた朝顔のつるが井戸のつるべと重なり想像力で
そのような句ができた、とするのがしっくりする
お前はまたこの内容に対し罵詈雑言垂れるだろうが、勝手に吼えとけ >>656
せっかく味のことを詠んでいるなら、
アジサイの”アジ”の音を使わない手は無いかとw
爽やかな紫陽花の花タイカレー
それにしても紫陽花はいろいろな別名があるのですねー。
置手紙の句も、悲恋を連想させる”オタクサ”を使ってみると
面白いかも、と思いました。 >>667
最高の推測ですね。まるで加賀本人。
まるっと申し分なしです。
すごい。
その通りですね。 >>668
ありがとうございます。
そこまで考えが及びませんでした。 この句を嫌う人がなぜこの句を嫌うのか
少し考えてみるといいよ
こういったところて結社ごとの
考えの違いが分かるから 俳句は原因→結果(〜〜したので〜〜)を嫌うので写生をよしとする俳人には評価が低い。
また、生活の水を汲む井戸のそばに朝顔を育てるわけがない、というリアリティのなさ。
しかし、この句には感情を揺さぶる美しい物語がある。
評価の分かれる句。 爽やかな紫陽花の花タイカレー
爽やかは秋の季語。紫陽花の花は「花」が重なるので避けたほうが。 >>675
ご指摘ありがとうございます。
この句の句意は、
タイカレーの味や香りを紫陽花に例えた”面白さ、奇抜さ”にあると私は考えました。
元句者が言った爽やかさは酸味を修飾するものだと思います。
よって字面は”紫陽花”ですが、
爽やかな(酸味の効いた)アジ(味)サイのハナ(鼻)
(に抜けるような香りの)タイカレーというダジャレ句として
みていただけると幸いです。w >>677
七変化も紫陽花の別名なんですよね。w
でも、はまり過ぎていて、逆に紫陽花の傍題で季語と
認識してくれないような気がしました。
(私ならもちろん、わかりませんでしたw) タイカレーを花に例える路線は俳句というより、グルメレポーター彦摩呂の
「タイカレーのお花畑やぁ〜」みたいなコメント映像が思い浮かんでしまうww >>679
元句者さんもそのようなつもりだったと思いますよ。w
”俳”の字が”こっけいなこと、おどけ(で人を和ませる)”の意なので、
私は俳句といって十分だと思います。
ただ現状では、俳句といえば普通、主流である有季定型俳句を指しているので
発表するときには、なにか前置きを入れた方がいいのかもしれませんね。 >>681
へー、勉強になりました
調べてみたら俳は「わざおぎ」という訓読みがあって、神様の前で滑稽な踊りをして楽しませるという意味なんですね
俳句と俳優が同じ漢字を使っていることに納得
蛇足ですが、最近の彦摩呂は太りすぎてタイカレーのレモングラスのような爽やかさゼロですw >>667
井戸と尼僧の生活にお詳しいんですね?専門家の方でしょうか?
667さんがしっくりする読解も大変興味深く見 俳の字の元をたどればウズメかな
アメノウズメノミコトに行き着くのかもしれませんね。
また、よくよく見ると「人に非ず」とも読めます。面白いなぁw
オタクサのことも教えていただきありがとうございました。
ハイドランジア・オタクサ…心に残る響きです。 そもそも俳句とは元々〜とか字義の曲解とかしても、低俗な句は正当化できないよ。 こうした間違った情報を信じないように
良い子の皆さんは自分できちんと勉強しましょうね 次週のお題は【あじさいとバス停】
又、発想の飛び過ぎる句が選ばれるのかな?
大南風活断層を刺激せり >>676
駄洒落や新しい表現に挑戦するのは良いと思いますが
まずは俳句の基本は押さえてから。
紫陽花や( 中7 )タイカレー
の句をたくさん作ると基本が沁み込みます。
悩まずたくさん作るのがコツ。
例)・紫陽花や客なき店のタイカレー
・紫陽花やスパイス多きタイカレー
・
・
基本を押さえた人の応用句や挑戦句は確かに面白いですが
いきなりそこを目指すのでなく基本から。
基礎ができている人の破調や挑戦句はやっぱり違う。
俳句にやっていけないことはない。
でもそこに詩がなければいけないのだと思います。 紫陽花の七色タイカレーの緑
タイカレーふうと吹きてやよひら揺れ
白あじさゐの後ろ頭やハンモック なんとなく風雅っぽい線を選んでるだけで
何も本当のことがない >>698
たぶん取り合わせてる内容から鑑みるに、それってアジサイじゃなくても成立するよね?って句になりがち
アジサイならではの季節感とか趣き、体験が欲しいなぁ
ちなみに私はアジサイあんま好きな花じゃないんで、今回のお題はパス 季節感で言うと、>>696 は雨宿りでたまたま入った人気のないバス停、みたいな感じが読み取れんこともないね >>701
お前みたいなやつ学校にいたよね。
教科書と先生の言うことが絶対で、それを周りの生徒に対して浅薄に振りかざす検閲官みたいなやついたよね。 >>696 紫陽花や余白の多い時刻表
上手だと思います。プレバトであれば65点〜71点くらい。
紫陽花の咲くバス停、もしくは駅。バスや電車は2時間に1本ほど。それを余白という言葉で余計な説明をせずに簡潔に表しています。その光景に紫陽花がとても印象的。
多いを「多き」に直しましょう。
「多い」の形容詞は連体形は「多き」、終止形は「多し」
これを覚えるだけで俳句はかなりカバーできます。
この調子で百くらい作るとすぐに上達します。
平行して他の人の句と句評も読むと良いです。
>>701
俳句でいうところの説明的は「〜〜なので〜〜」という形。
「○○の××」の場合、○○は「××を修飾している」といいます。
>>696は紫陽花と時刻表の二つの物の取り合わせ。
二つ並べ生まれた火花(詩)を読み取るのが俳句。
「余白の多い」の裏側の情報を推理する楽しさと言いましょうか。 >>597も上手です。
>>599
例えば紫陽花を向日葵に変えたら爽やかな夏の風が吹く明るい光景になりますよね。
それぞれに美しいのです。
季語は大きな力なので季語を意識しすぎるより
遠く離したものを配置したほうが成功しやすいです。
それが季語を信じるということ。
そしてそれらを説明しないで、ぽんと無造作なほどに12音を配置する。
それが読み手を信じるということ。 >>703
嬉しい!
どうもありがとうございます。 >>704
597=697
599=699
でした。失礼しました。
>>705
良い例をありがとう。
多いは少ないの反対語。ゆるがぬ言葉。客観的な事実。
「ばかり」は「残念だなあ、つまらないなあ」という作り手の感情の入った主観の言葉。
余白の多い…白い部分が多い、ということはバスの本数が少ない、
きっと田舎なのだろう、山の中かもしれない、
でも季語の紫陽花が美しいから作者の心は晴れやかなのだろう…
という想像の膨らみのスムーズさが心地よい。
余白ばかりの…もっとバスの本数が多ければ良いのに、というマイナスの感情が
見えるので想像の幅が狭くなる
よって俳句としては「多い」が良い。
「文字が少ない」でなく「余白が多い」とすることで白い時刻表が映像として浮かぶ。
その白の清々しさに紫陽花の青や紫が映え、雨や水の空気や気候とも響く。 >>696
紫陽花を下五にした方が、人寂しさを紛らわせてくれる花の存在感や鮮度が上がるかも?
あと余白の白と紫陽花の紫の漢字を離した方が色のコントラストが出るし
上五に余白を持ってくれば、読者に何の余白だろう?と興味を惹きつける効果も期待できそう あくまで個人の感想ですが。
紫陽花や…の形は若い人には古臭く物足りなく感じるかもしれませんが
実はとても美しい基本の形。
この型の美しさを理解することから俳句は始まる。
逆にこの句の良さが分からないうちは、基本が足りないのです。
自分は基本から逸脱した句を好んで作りますし、
現代風の句も好きで積極的に選びますが、
基本の型に敬意を払っていないと表面的で
軽薄な言葉遊びに陥る恐ろしさを感じます。
正しい鑑賞ができないと句作も伸びないのでまずは基本を大切に。 おかしな先生の集まり
5ちゃんねるはそういうとこだけどさ
それにしても凄すぎ 基本の型については藤田湘子『20週俳句入門』より引用。
夏井いつき先生もこの本を読んで学んだそうですよ。
夏井先生は俳句ライブでは更に初心者向けに5音の季語に12音の俳句の種を合わせましょうと言っている。
前回プレバトでは「追憶や」について「難しい型に挑戦していますよ」と言ったのは
「季語+や」の基本ではないから。
藤田湘子『20週俳句入門』についてはウィキより
特に1988年に最初の版が出された『20週俳句入門』は俳句入門書の定番として現在まで続くロングセラーとなっている。
自分の言葉でなく引用しているだけなので先生ごっこ以下ですが基本は抑えておくべきかと。
湘子はこの型について「ふるさととなる型」とまで繰り返し述べています。
以上を踏まえた上で句の評価をお願いします。 >>713
季語+や が基本形なんてその本に書いてませんよw ちなみに追憶やが基本らしい紫陽花やと比べて
なんで難しいの?
基本を外したからとかいうのはやめてね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています