詩人になろうぜ 2
『MIRAGE , FLOWER』 君もまた目の前を遮られ僕が苦しい時に苦しんでいた お前もまた目の前で消され自分の姿さえも映せず俺の姿も見れなくなっている ひび割る二人のガラス 美しいほどに… 鏡越しの二人 君と背中合わせの僕の影 お前の前に行く俺の影 鏡に映した像のまま、疲れてゆくのは二人 いつも…そっと幾千の時を二人で見つめて 僕は君を想う 俺はお前を伝える この世界が鮮やかで全てが色とりどりでそして濃淡が濃くて眩しくて 帰る時 東の空から登るオリオン座 当たり前の景色で心踊ることもない 新月に夜空を見上げるのが怖い 沢山の星空に心奪われる時 立っている地面が 底知れない穴ぐらに立っているように 感じるから 【材料:不安、孤独、すかすかのスポンジ】 人生はケーキだ。苺の様に一度は目立つ。 私のケーキは、ぼろぼろで、ぐしゃぐしゃ。 不安と孤独のクリームで、 すかすかのスポンジを塗り固めただけの、 味も、目立ちも、しない。 穴の空いた、すかすかケーキ。 批判が的を得てないんだよな。 まず業務で高校数学が応用として使える時点で、世の中の上側1%以上なのよ。 アク界隈はお受験からのエリート教育で育ってるから、世の平均以下がちゃんと認識できていない。 残念ながら需要が存在してしまうわけですわ。高校数学の範囲だろうが何だろうが知らんがな。 あと、純粋な高等な数学になればなるほど、応用が狭まっていく。平たく言うと役に立たない。 なんでそんなものと比較するのか意味が分からない。好きなら勝手に博士課程でも行ってろ。 そして、哀れにもアク候補生として入社して、想像以上に日本社会の企業文化に揉まれ疲弊し、 自分は東京一工のエリートなのにこんな試験にも受からないクヤシイ!!みたいな人が、 5chで見えない敵をたたいて必死にもがいているんだな。憎むべきはその選択の損切りができない自分自身なのに。 だから、嫌ならやめろよと。クソ試験と思うなら今すぐやめて転職なりしろ。何事も中途半端が一番良くない。 猿すべりの木に登った猿はないと言い切れるだろうか。 猫柳という柳に猫が登ることがあったかなどとは関係性がないのと 同様だ。名前にまどわされてはならない。 イヌノフグリという植物が犬のキンタマ袋と全く関係がないし、紅テングタケ で天狗の面が作れるとしたら、それがなんだというのだろうか。 紅テングタケよりも適した顔料はいくらでもある。そうだ、サルノコシカケに 腰かける物好きなサルはいないだろう。 アブラゼミで油がとれるだろうか。 そんなことはない。それなら、油トンボがいてもおかしくはない。 ましてや、シオカラトンボが塩分豊富なら、アブラゼミであげた シオカラトンボはどんなにか旨いことだろう。 ムギワラトンボで麦わら帽子が作れるだろうか? 羽を取ったら確かに麦わらみたいに見えなくもない。 しかし、赤とんぼの羽を取ったら本当に唐がらしになるのか、 それは違う。それと同じだ。 人の手で作った赤とんぼは陸海軍の練習機だった。 だが、練習機はトンボではない。ただ、飛行するという点で 同じとはいえ、人の乗る者ではない。なぜなら、トンボが 人を乗せて飛行するには構造上の無理があるというだけではなく、 人に慣れるということはないからである。 コガネムシが金持ちなどといえるか。 だいたい虫に金など持たせて何の役に立つというのか。 カブトムシは確かに逃走するが、兜を被っているわけではない。 それよりも地上でも樹上でも、空中でも自在に移動できる能力 に注目すべきだ。フォルクスワーゲンはビートルと呼ばれることも あるが、それ自身、飛行する能力はないのでカブトムシにはかなわない。 BMW社が飛行可能な自動車に改造するなら別だが、その計画もなさそうだ。 タイコウウチという水中で生活する昆虫がいるが、こいつが太鼓を叩いた など、見たことがない。なにを根拠にこう呼ぶのか疑問だ。 水中の昆虫はたいてい羽があって、飛ぶことができる。 なぜ、ペンギンはそうでないのか?やつらは水中と陸上で生活する。 羽があるくせに飛べない鳥なのだ。いつからそうなったのだろう。 トノサマガエルとトノサマバッタとどっちが偉いのかという問いには 答えがない。普段、殿様は城にいるはずなのだが、どうも両者はそこを 住みかとしていないからだ。ただし、殿様ガエルは城の周りの堀などに はいるだろうし、草むらにトノサマバッタを見つけることはある。 つまり、殿様とは、名ばかりのただの両生類と昆虫に過ぎない。 ならば、人間の殿様は実在するのかといえば、そうではなく、過去は 別として、実在しない。確かに、殿様商売というものは現在でも実在 する。だから、殿様は武士から商人へ格下げされてしまったともいえる。 商人の殿様といえば、社長とか会長とかがそれにあたる。武力がなければ ただの商人の頭領に過ぎないが、たいていの場合、非公式に外注の軍隊と 秘密裡に契約している例が見受けられる。そう、闇の世界に生きるそれだ。 その、非公式の反社と揶揄されるその団体はあってはならない人でなしの 集まりとされ、実際そうなのだが、まれにまっとうな振る舞いをするので ややこしい。この団体は個別に消滅することはあっても、全体としては消 えないで人の弱みに付け込んで、それを餌に存続し続けるものと思われる。 お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ やばい糞だった。犬散歩してたら糞をもよおしてきたんだが、まぁ、大丈夫 なんて呑気にしてたら糞の圧力がグングン高まってくる、もう限界だ、いや、すで に限界を超えている。意を決して引き返す。デパートのトイレで糞しよう。 たどり着けるかわからない、がんばって何とかたどり着いた、しかし、完全に限界 を越している、糞漏らしてないのが奇跡なくらいだ。でも、ここで漏らしたら、明日 からこの町歩けなくなる、根性でトイレに向かうが、途中で女子高生とすれちがう、 糞よ出てくんな、女子高生にばれたらキモーー!!って怖がられて警備員が飛んでく るだろうが。で、ケツを押さえながらトイレにあえぎつつ到着。 信じられないくらい幸運だ、まだ漏れてないぞ。ドアを開けたがそれが最後だった。 いま、犬が俺のケツに鼻をつけてクンカクンカ香りを楽しんでいる。 「狼を思う」 狼は山にはいないだろう 狼は草原にはいないだろう 狼は浜辺にはいないだろう 狼な啼いているか アーン アーンと かすかに啼いているか アーン アーン 狼も空を見るのだろうか そして 啼くのだろうか アーン アーン アーン アーン ↑字の訂正です 「狼を思う」 狼は山にはいないだろう 狼は草原にはいないだろう 狼は浜辺にはいないだろう 狼は啼いているか アーン アーンと かすかに啼いているか アーン アーン 狼も空を見るのだろうか そして 啼くのだろうか アーン アーン アーン アーン 「なにもできることがない」から 「なにもしないことができる」へ、 悲観から楽観への反転 ひとは若い頃は、自分には潜在的にもっと能力があるはずなのに、 それを十分に発達させて発揮する機会が奪われていると思い込みがち しかし、年を取り、経験を重ねることによって気づかされることになるのは、 自分がいかに無能であるかということよりも、いかに無力であるかということだ 自分にはこれほど能力があるのに、それが認められて高く評価されないのは 間違っていると感じるのは、ほぼ例外なく、事実誤認である。 ニワトリが、自分はもっと高く飛べる、高さ10メートルを超えて飛ぶ ことができると自負しているようなものである。実際に高さ10メートル を超えて飛ぶことができれば、ニワトリとしては特異なことかもしれないが、 それを繰り返しデモンストレーションとしてやってみたところで、 迷惑がられるだけの話だ。 「>>423 のおつゆ」 >>423 よ そのからだから したたる しとどに したたる おつゆは いかに けうの おつゆは きのうの おつゆと おつゆは おつゆで おつゆなり >>423 よ おまえ わたしの おつゆぶくろよ わたしが しぼろうと おもう さきから おまえは こんなに おつゆを たらして わるいこだ おまえは わるいこだ >>423 よ 「何もできることがない」としても、「無になろうとすることができる」 という禁欲主義と、「何もできることがない」としても、「何もしない ことができる」という楽観主義は、似て非なるものだ。 「無になろうとすることができる」という禁欲主義は、「無になろう」 と「つとめる」ことになり、その「つとめ」が自己の振舞いに余計な 制約を課すことになるのに対して、「何もしないことができる」という 楽観主義においては、そのような制約は何もない。「何もできることがない」 ことについて「何もしないことができる」なら、無駄な努力をすることが ないと同時に、生きている限りにおいてデフォルトで「何かできることを している」。しかも、「何かできることをしている」なら、その結果として 「何ができることになる」のかあらかじめ決まっているわけではないのだ。 かくて >>426 の たましいは おなごの・・・ としごろの おなごの おけつや ぼいんに ささげらる・・・ おお えっちな えっちな >>426 よ すこしは はじをしれ >>426 よ なんじみだらな こころと たましいよ おお なんじ すけべえ にんげんよ おもうまま みだらに みだれるが よい ばちあたりの えっち にんげんよ ぼいんずきよ >>426 よ おまへは けふの ひも たべごろ むすめの おけつ&ぼいん をゆめみる おけつ きちがいの ぼいん ぐるいよ しきぜうに ひきまわされたる とらわれの えっちまんよ けさも えっちな >>426 の まどべに ことりが さえずる かぜが なよぶ えっちな >>426 の にわきの こずえに おつゆは したたり あさひを さそふ もつと ”ふ”とか”ひ”とか つかつたり つかわなかったりしろ えつちなおとに ぼいんがなよぶ のり(宣/規/法/則)は、その規定からして、本来的にみづから(身づ柄/自ら)に 対するのろ(呪)ひとして作用する。それはちょうど、地上において地面に のって地に支えられている自らの体重と、みづから(身づ柄/自ら)にのって 自身が支えている自重と等しいのと同様である。 そのようにのり(宣/規/法/則)がすなはち、のろ(呪)ひとして作用すること を忘れさせてくれるのが、のり(宣/規/法/則)を恣意的に自在に/ »Willkür«により適用することができること、つまりは、のり(宣/規/法/則) により支配することができることであり、それ以外にはない。 誤:みづから(身づ柄/自ら)にのって自身が支えている自重と 正:みづから(身づ柄/自ら)にのって自身が支えている自重とが必然的に 「何もしないことができる」という《soulagement》 >soulager >from Vulgar Latin *subleviō, from Latin sublevō (“I lift up, I raise; I lighten”), from sub- (“from under”) + levō (“I raise, I lift up”). (出典:Wiktionary) 「何もしないのは許せない」というのは、「何もしないことを敵を利する 行為であると見なす」と宣り言をする友敵理論による思想の実行である。 何もしないことが咎められるべき落ち度やいたらなさ/《faute》である と宣告することができるのは、どのような立場においてなのか。 >piger >From pigeō (“to feel annoyance at, feel reluctance at”), from Proto-Indo-European *peyǵ- (“ill-meaning, evil-minded, treacherous, hostile, bad”). Related to Old English ġefic (“fraud, deceit, deception”), Old English fācen (“deceit, fraud, treachery, sin, evil, crime, blemish, fault”), Middle High German veichen (“dissembling, deceit, fraud”). (出典:Wiktionary) 生きている限り、自重("self-load")を無にすることはできない。 できるのは、自己の比重を軽くしようとすることだけだ。 上方にであれ、下方にであれ、その場に働いている自重を誤って 推定することは、自己の比重と適合しない自負("self-attribution") (またはその欠如)を生じさせ、自らがわざはひを招き、自他への 呪ひを増幅させることになる。 自省によるさと(覚)りとは、その都度、自己の比重と適合しない自負 ("self-attribution") をさ(去/晒)ることによってもたらされる やすらぎ/《soulagement》 である。 生きることにおいて自重を無にすることを志すというのは、裏返った形での、 自己の比重と適合しない自負("self-attribution") の肥大化である。 >>443 よ なんじの こふもん こそ ときに おひては えひえんに また かたちに おひては むげんの おほきさに かくてふ されるべし かくてふ されるべし 市場主義/共産主義のユートピアの幻想というのは、社会全体における 自己の寄与(contribution)と社会全体における自己の比重に適合した 自負(self-attribution)との間の均衡が、予め存在する理想状態として 到達され得ると信じ込むことにある。しかし、これは、円周率の 最終的な値が、近似計算の収束の結果として求められ得ると考える のと同様の錯覚である。ユートピア的な快適さ、心地よさは、 苦痛をもたらす作用がやは(和)されることによってもたらされる やすらぎ/《soulagement》の感覚であって、予め存在する 理想状態として到達された和が保たれることによって生じる 感覚ではない。 >>443 >生きることにおいて自重を無にすることを志すというのは、裏返った形での、 自己の比重と適合しない自負("self-attribution") の肥大化である。< 円周率を近似の数値として表現する単位として1が無/"null and void"、 つまり、1=0となった収束した状態の円周率の値というのは、 存在し得ず、あたかもあらかじめそのような収束があり得るかのように それを理想状態として追求することは、無意味である。 Alive and Kicking Lyrics You turn me on, you lift me up And like the sweetest cup, I'd share with you You lift me up, don't you ever stop, I'm here with you Now it's all or nothing 'Cause you said you'll follow through You follow me, and I,-I-I follow you >ユートピア的な快適さ、心地よさは、苦痛をもたらす作用が やは(和)されることによってもたらされるやすらぎ/《soulagement》の感覚< 「やは(和)す」は、ドイツ語であれば、»weichen«に対応するものと考える ことのできる日本語の古語である。岩波古語辞典では、「やは(和)す」の 「やは」は擬態語であるとされているが、私見では、「や・は・す」の 「は」もやはり、「〜ふ」という再帰表現の活用形であり、「や」は、 「や(遣)る」という表現が"to send away/over (to 〜)"という意味で 使われることからも分かるとおり、"away"/»weg«の様態をもたらす 働きを表現する。「〜す」は、"to let"に対応するように用いられるので、 「やは(和)す」全体としては、メタ言語的な記述として、 "let itself (be) away"に対応するような表現であると解釈することが できる。 言語表現と物象化の関係について考えるうえで、ルシファーを「のろ(呪)ひ」の 象徴と見做すなら、ゲーテがキリスト教神学の枠組みを借りて、 »der Gestalt der Materie«について述べていること(ゲーテ、『詩と真実 第二部』、pp228-32)もとても参考になる。 >Und so ereignete sich das, was uns unter der Form des Abfalls der Engel bezeichnet wird. Ein Teil derselben konzentrierte sich mit Luzifer, der andere wendete sich wieder gegen seinen Ursprung. Aus dieser Konzentration der ganzen Schöpfung, denn sie war von Luzifer ausgegangen und mußte ihm folgen, entsprang nun alles das, was wir unter der Gestalt der Materie gewahr werden, was wir uns als schwer, fest und finster vorstellen, welches aber, indem es, wenn auch nicht unmittelbar, doch durch Filiation vom göttlichen Wesen herstammt, ebenso unbedingt mächtig und ewig ist als der Vater und die Großeltern.< Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 308-353. 円周率の近似値を求めるとは、自己同一性としての等しさ、つまり、 周期性としての単位を「やは(和)す」ことである。 >ここに、救済は永遠の昔から決定されているだけでなく、永遠に必然的な ものと考えられている、いや、それどころか、救済は生成と存在のあらゆる 時を通じて、たえず新たに繰り返されなければならないということが、 容易に知られるのである。< ゲーテ、『詩と真実 第二部』、p.231 「やは(和)す」こと/《soulagement》としての»Aufheben« >>449 ここに引用した論述の続きとして、p.231に >神性みずからが、その覆いとしてすでに用意してあった人間の姿をとり< という訳文がある。これに対応する原文は、 >die Gottheit selbst die Gestalt des Menschen annimmt, die sie sich zu einer Hülle schon vorbereitet hatte< である。私には、ここで訳者がなぜ»Hülle«に対して「覆い」という分かり にくい訳語を当てたのか理解できない。ここで»Hülle«は、 »die Gestalt des Menschen«/「人の形象」なのだから明らかに 「からだ」だろう。「から(殻/骸)」が亡き骸/»die sterbliche Hülle« を強くイメージさせて合わないというのであれば、「躯(からだ)」とすれば よいだけではないかと思う。これは、別にドイツ語ができるか否かという 問題ではないのではないか。 「>>453 はしやばぞふ」 >>453 は なんでも きくところに よると わかひ むすめ としごろの おなごの おけつ ふりひく である らしひ ぱひぱひ まにや である らしひ かぜがかたりかけます しやばひ しやばすぐる はるのへあけあまつりの まつりばやしをあとにして >>453 が おもひを はせる とほいおくに おけつと ぼひんで みたされた けふわこく おけつ こつかに ぼひん きんぐだむ にわきの こずへの ひばりのす には ひなが けふも なひて いる それでも >>453 は ぱひぱひの ことばかり 言語表現の物象化と反物象化(活性化と言い換えてもよい)の関係について、 「相撲(すもう)」から考えてみることもできる。「相撲」も物象化された 言葉として、その表現としての意味が問はれなくなっているが、 「すもう」の古語は、「すまひ」であり、「すまひ」≒"settling down"、 つまり、「鎮/沈静化」を意味している。 「すまひ」のために「しこ」を踏むが、「しこ」は、語源的には、 「如(し)くはない」という表現で使われる「しく」という動詞の 活用形であると考えることができ、ドイツ語をメタ言語的な記述に 用いて説明するなら、「如(し)く」≒»gleichen«、 「敷(し)く」≒»ausgleichen«、「しこ」≒»ausgeglichen« のような関係にある。 >ausgeglichen ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説 (→ausgleichen)[形](人が)性格〈気分〉の安定した; 安定した, むらのない, バランスのとれた; 〘スポーツ〙互角の.< 古事記に出てくる「あしはらのしこを(葦原色許男)」の「しこ」も この「しこ」であり、「あしはら」は、周囲の一帯の広がりである と理解することができるので、「あしはらのしこを」は、言い換えるなら、 周囲一帯の平定(「しこ」≒「平定された状態」)者であるが、「を」 は、この場合も、求めを表現する「〜を」と男性を表現する「を(雄)」 の掛詞だろう。 ここで、言語表現の物象化と反物象化(活性化と言い換えてもよい)の関係に ついて考えるのに、「すまひ」の取組みが行はれる基礎の土台/"ground" である土俵を思ひ浮かべてみるといい。基礎の土台である土俵は既に 「しこ」が実現された、つまり、「平定された」/»ausgeglichen« 状態で そこにある。すると、相撲の取組みを観る人々にとっても、相撲をとる 力士にとっても、土俵が「平定されている」ことは当たり前の前提となり、 特に異変がない限り、そのことには「無関心」/»gleichgültig«となる。 これは、»gleich gelten lassen«という行為から、当初は働いていた はずの感性を無視する「感性の麻痺」としての「無関心」/ »Gleichgültigkeit«への移行である。すると、「相撲」がそもそも、 「『すまひ』のための取り組み」として行はれていたこと自体が見失われる。 この感性の働きの麻痺が、言語表現の物象化である。したがって、解釈による 言語表現の反物象化/活性化は、ちょうどその逆のプロセスであると見ることが できる。それは、「すまひの取り組み」が行われある基礎の土台/"ground" である土俵を、既に「平定された」/「しこ」/»ausgeglichen«状態にある ものとして前提とするのではなく、もたらされた効果として見ることである。 物象化が、»gleich gelten lassen«という行為から「感性の麻痺」としての 「無関心」/»Gleichgültigkeit«への移行であるとするなら、反物象化/活性化は、 「たと(喩)へ」/»Gleichnis«を介して、麻痺していた感性を再び働かせるように することであり、実際に「しかじか」である(「如(し)く」/»gleichen«)かどうか を「比べる」こと、»vergleichen«によって「た『しか』め」る感覚を みづから(身つ柄/自ら)に取り戻すことだ。 >>458 が こんや も くちずさむ ぼひん ざ ゆへすへー ♪ »ein spiegelgleiches Bild«としての「ひと(人)」 「人は神の似姿である」と言われるが、日本語において「かみ(神)」は、 「かがみ(鑑)」を意味する(和語の「かがみ」自体は、「光の像を観るもの」 を意味する)「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」の流用であり、 「ひと(人)」は、「ひと(等)しい」、「ぴったり」、「ひたひた」 などと共通で、「比(Middle Chinese: /piɪX/)」と同根語であるとも 考えられる「匹(Middle Chinese: /pʰiɪt̚/)」の流用である。 人が人(ひと)としての平等を理想として追い求めるとき、その理想像はどこにあるのか。 誤:「すまひの取り組み」が行われある基礎の 正:「すまひの取り組み」が行われる基礎の 「かげ(≒光の像)」をうつしみることに「かがみ」があるのであって、 「かがみ」がまずあって、そこに「かげ(≒光の像)」がうつるのを みるのではない。 Je suis en droit. Ce n'est pas moi qui ai commis des gaucheries. 常日頃から絶えず《des gaucheries》を演出しようとしているのは誰か 《des gaucheries》を演出することによってどのような効果がもたらされるのか >>466 は真の御父様と真の御母様の血を引く 真の放送作家"真の新野新"をご存じだろうか? 私は存じ上げない >あの人達は、正道を踏み外していると思う人を、誰彼となく自分の方へ 導きたくてたまらないのでございます。そうせずにいられない人達なので ございます。何分にも自分達の行く道だけが正しいと真実思い込んでいる のでございますから、別の道を歩む友達がやがて堕落し、それも永遠の 堕落に陥るのを平気で見ていられる筈はございません。また場合によっては 同じ人を、愛しながら同時に憎むこともできるに違いないのでございましょう。< レッシング作、篠田英雄訳、『賢者ナータン』、p.194 「>>468 ちょっとなにそれ?」 ちょっとなにそれ? あなた本気で言ってるの? どういうことですか?おかしいでしょ? おかしいですよ、実際。なにその態度? 謝りなさいよ、謝ってくださいよ さて、曾婆訶理は、あらかじめこの結論を知っていたとしたら、 どのようにすることが最善だったのでしょう? >曾婆訶理、吾が爲に大き功あれども、既に己が君を殺せし、これ義ならず。 然れどもその功を賽(むく)いぬは、信(まこと)無しと謂いつべし。 既にその信(まこと)を行はば、還りてその情(こころ)に惶(かしこ)けれ。 故、その功を報(むく)ゆれども、その正身を滅してむとおもほしき。< 『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171 ゆるしませんよ おとこのこです さびしくなったら はなしにきますね いつか たぶん それではまた おたよりします ははうえさま いっきゅう お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に そして曾婆訶理はそば畑へそば刈りに行きました さて、曾婆訶理はなぜそば刈りに? 正解者には一億万円あげるのら〜! そば(側)か(離)り 謀(はかりごと)により、そば(側)を離れたかったから? 人は死ぬことができる。これは確かなこととして万人に認められている。 しかし、人を含めた生物の身体を構成する細胞が死ぬことができるか どうかは定かではない、というより、人が死ぬというのと同じ 意味では、死ぬことはできないと考える方が正しい。 細胞は、破壊されることや腐敗することができ、それを構成する 分子が分解されることはできるが、死ぬことはできない。 「細胞が死ぬ」というのは、かなり大きな問題を抱えた隠喩表現である。 みづから(身づ柄/自ら)が死ぬ(≒»die sterbliche Hülle«である)ことが できるのを知っていることが、人(ひと)であることである。 人とされない他の生き物が「自殺する」と表現するとき、人はそれが 「擬人化」であることを意識している。それは通常、人は、他の生き物が、 「みづから(身づ柄/自ら)が死ぬ(≒»die sterbliche Hülle«である)ことが できるのを知っている」とは、つまり、「人である」とはみなしていない からである。 みづから(身づ柄/自ら)が死ぬ(≒»die sterbliche Hülle«である)ことが できるのを知ることにより、人は人としてある。 誤:»die sterbliche Hülle« 正:»sterbliche Hülle« 定冠詞は、コピペに由来するもので、この場合、特に意図したものではない。 「ボランティア活動」をするとは、どのようなことか。 また、「ボランティア活動」の「経験」は、どのように人事的に評価されるのか。 ちんちん ぽんぽ ちんちんち ぽこぽこ ぽんぽん ちんち ぽんぽんぽ ちんちん >>480 の ぽんぽん ぽんぽこ りん ちんちん ぽこぽこ ちんぽこ りん >>480 の まどべで ひばりが たずねる 「>>480 さん だいじょうぶ ですか?」 >>480 は こたへる 「ちゅうじょうぶ ちゅうじょうぶ」 ひばりが こたへる 「わたしは しょうじょうぶ」 >>480 の まどべに あかねの ひがさす 新城 幸也(あらしろ ゆきや) 生年月日 1984年9月22日(37歳) 所属 バーレーン・ヴィクトリアス 2022年 全日本自転車競技選手権大会個人ロードレースにて、2013年以来9年ぶりの優勝 マーク・カヴェンディッシュ 1985年5月21日(37歳) 所属 ドゥクーニンク・クイックステップ (2021年にバーレーン・マクラーレンから移籍) 2022年 イギリス選手権 個人ロードレースで2013年以来9年振り2回目の優勝。 ソクラテスの「産婆術」としての哲学について考えるときでも、 「み(身)ごも(籠)る」(「こもる」のは誰か)、「み(身)・どり・ご(子)」 (「う(生)ま・れる」とはどのようなことか)という日本語の表現法に ついて意識することは、案外、大切ではないかと私は思う。 「哲学史」、「思想史」、「哲学者研究」といった類ものは、大抵の場合、 制度によって暗黙裡に、「懐妊」を回避させるための「避妊薬」として 作用することを目的として処方される。 「ドント ウォーリー」(575歌) テポドンドン北の国からノドンがドン テポドンドン二本のサルは見てるだけ ノドンがドンどこへ落ちたか知らぬバカ by ネコドン 「他者に寄生する」と言うと聞こえは悪いが、実のところ、 寄生も、共生も、分業による協力も他者の"neglect"の活用であり、 己が生きることは互いの"neglect"を活用しながら成立している。 すもももももも~♪もももももももももも・・・ うわ~ももが止まらね~ももが~ももが~止まらね~ 誰かももを止めろ~ももを止めてくれ~ > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。 > なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。 > イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。 > > 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。 > 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。 > > ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。 > それらの写真は、集団ストーカーに使用される。 > 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 read.cgi ver 07.4.6 2024/03/23 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる