73:書き逃げ魔♪:2007/07/29(日) 11:44:55 ID:BDE/q37o
言語と概念を噛み千切りたいくらい憎悪して現実に見切りをつけ芸術鑑賞に浸ってしまっている私は、
ランボーの詩には、それを読みたいがためにフランス語の独習を始めてしまったくらい、ほれ込みました。
「イリュミナション」の中でも、私は「曙」以外は原詩はまだ読めてませんが、言語表現の絶頂にある散文詩集だと思う。
言葉というものが、どれだけの可能性をもっているのかを教えてくれると同時に、
普段、日常の言葉によってどれだけ私たちの感受性の可能性が縛られているかを気付かせてくれる。
日常の功利性、習慣的言語などは、私たちの感覚にまで鬱陶しい影響を及ぼしている。
何かを感じるときは、自分達の便宜になるように、あるいは、脳内の言語体系の干渉を受けて、何かを感じている。
しかし、ランボーの本能と感覚は、おそらく彼の完全な孤独とシニズムが人工の言語や概念を彼にしみんでしまうことを防いだことによって、
純粋なほとんど動物のような次元に保たれている。感官の完全なる開放と、生粋の本能的イメージによる、自然との接触。
「イリュミナション」にみられるああいう不思議な表現は、彼が表現しようとして表現したというより、
自然が彼に接触する瞬間の印象をそのまま装飾もなしに表現したものなんでしょう。
彼は自然との接触を、私たちであれば夢の中でしか行うことのできないような形象の把握方法で、行っていたのでしょう。
「見者の手紙」に書かれているような激越な錯乱の実践によって、ランボーは、そういう能力を手に入れ、
空前絶後の表現で、生命の神秘、自然の純粋な姿を、描くことができた。
私は「イリュミナション」を読んだ時、人間の感覚の海の臨海点へ辿り着いた途方もない航海者が、死に際に瓶に報告書をつめ、海に流し、
それを私が受け取ったかのような、不思議な生理的かつ感覚的な奇跡を感じました。
この詩集は、専門用語で解説なんか、できやしない。朝起きて、自分の気持いい夢を専門用語で感想を表現するのは、心理学者だけでいい。
専門用語を使う度、ランボーの詩想は色を失ってしまう。空に浮かんでいる色々な夢に、固定的な言語の網を被せても、風が吹けば、夢は逃げていく。
自分の心を空気のように虚心にして、夢のような詩語と戯れるのがいい。
だから「イシュミナション」の詩そのものの感想は、言葉で表現できない。