アルチュール・ランボーV
「盗まれた心臓」の詩でコミューン参加でナニがあったか皆妄想逞しくしてるよ あれは脳筋のゴリラ達に「カマ野郎プゲラw」言われただけの愚痴だよ
生涯で(仕方無く)身体を許したのは憐れなヴェルさんだけだった訳で > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 綱を鐘楼から鐘楼へ、花飾りを窓から窓へ、金の鎖を星から星へ張り渡して、わたしは踊る。 地獄の季節執筆の頃ヨーロッパ大陸を岩倉使節団がフラフラしていた ゴッホやアルチュール・ランボオは、ゴールドラッシュの頃くらいに生まれたのかあ。 粟津さん93でご存命のようだが
詩手帳の連載止まってるから具合がよくないのだろうか 鹿島茂さんの「ドーダの人 小林秀雄」痛快
小林のランボー誤読、誤解についてコテンパン 立ち上げる×起こす〇興す〇設ける〇発足する〇
たち(<たつ)」は自動詞であり、「あげる」は他動詞なので、自動詞他動詞の混じった、文法的に異例な語。
自動詞「たちあがる」を他動詞化したものであろう。
コンピューター用語"boot up"の訳語として、情報産業業界で広く用いられるようになり、
1990年代半ばからビジネス俗語として広まり、現在では新聞記事や学術論文にも用いられるようになった。 医師国家試験の受験生が玉石混合と書いた2つの理由は、個人的な経験によります。
第一に、私の出身高校は某男子校の進学校ですが、医学部に進んだ人も少なくなく、同じグループで集まるメンバーにもいます。
彼らの内何人かは頭が良いなと思いましたが、ほとんどは普通です。中高で英語9年間学んで、ようやく英検2級レベルの頭です。
共通していたのは家が裕福であることや、彼らの両親の多くが医師であったこと。彼ら個人の能力は平凡でしたが、家の経済力は中の上以上あったでしょう。
第二に、父(大学教授)が某医師国家試験で100%合格率を継続している医学部で、週一で非常勤講師(理系の一般教養科目)をしていた経験からです。
本業の大学は週4であり、非常勤では年契約により様々な大学で週一で教えています。
父が感じたのは、医学部生の能力の平凡さです。大学の実名を挙げるのは避けますが、仮にも医師国家試験100%合格率なのに、その大学の学生の能力は、例えば早稲田理工などにも劣るのではないか、と感じたようです。
もちろん、旧帝大の医学部とかなら話は別で、学生は皆優秀でしょう。 「牝騾馬1頭と奴隷少年2人のご注文、確かに承りました。ご健康とご繁栄をお祈り致します。お元気で。ランボー」 この手紙はランボーがアフリカで商人をやっていた時に取引がこじれて損したので、相手に嫌がらせの嘘の一文を加えたもの。
いかに100年前にとはいえ、奴隷売買は極刑だった。この手紙を受け取った相手の戦々恐々ぶりを想像しているランボーを思わなければならない。
詳しくは「ランボー、砂漠を行く」(岩城書店) ランボーは「俺は架空のオペラになった」という。
しかし正確には「おらは田舎者で貧乏で母ちゃんが怖いから、パリにいけなくて、おぺらとかいうのを空想するしかなかったばい」というのが真実である。 ランボーの生まれた田舎を考えると、オペラのみならず、我々が当たり前に知っているモーツァルトやベートーヴェンの交響曲なんて聴いたことがなかったはず。
ランボーの教養が文学や歴史や語学に片寄りすぎているのは特記すべきことだろう。
ボードレールは一世代前だが、音楽会に通っていたし、ワーグナーに熱狂していたのは周知のとおり。絵画も良く観ていた。
ランボーの酒を酌むのは、実際、売れた本数。
自室学習って、うまく行くようで、特別短いものだ。
もう日の目を、見ないかもしれないと言う恐怖は、
輝かしい言霊の、精霊を、
行間に埋め込む。
そこに、私情を挟むことを許して頂ければ、
全く、詩人そのものの、ホットネスを、
ジャストサイズに、決めている人と言う印象がある。 ランボーの文学史的な継承は何方向かあるが、一つはカトリシズムといわれている。
1886年、18歳のクローデルは「地獄の一季節」を読み、衝撃を受けた。また同時期にノートルダム寺院での体験により、カトリックに回心した。その宗教的な確信は聖職者さえも驚くほど強固なものであったという。
その後、クローデルは詩人、劇作家兼外交官として、各国のフランス大使を歴任した。 奥本大三郎さんの新刊「ランボーはなぜ詩を捨てたのか」を読了。
奇しくも371と同じく、片田舎の少年であったランボーの音楽的教養の欠如を指摘している。
今日、我々は誰でもヨーロッパ文明が音楽において、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった高みに到達したことを知っている。
ところがランボーはまともにこれらの音楽を聴く機会がなかった。そのランボーがヨーロッパを罵倒したところで説得力はないのである。「音楽はランボーの躓きの石であった」
ともわれ、フランス語を母語とした19世紀の田舎の少年の遺産として、今でも驚異には違いはない。 >>365
les illuminationsを飾画と訳すのはなんだかなあとはガキの頃思っていたが 近代には常にキリスト教的世界観と非キリスト教的世界観の相克がある。
文芸ではランボーがこの問題に引っ掛かる典型だろう。
この問題から離れたところはランボーとはあまり関係が無さそうである。
そしてもう一つランボーと縁のないのは音楽である。 フランスだとランボーよりボードレールが読まれ、日本はその逆の状態にあるように思うのですが、諸賢はいかがでしょう?
文化的な壁に厚く翻訳も分かりづらいボードレールより、神秘性と前衛的な言語遊戯で知覚的な印象をたやすく与えうるランボー、
こういう風に考えると妥当な見方に思えます。 フランス詩アンソロジーみたいなのに入っていた佐藤朔訳がまあまあしっくりきた
おれは作家のネームバリューにすぐ囚われるから逆説的に良訳なのだろう 素人質問
なんでランボーはおっぱいの話ばかりするんだ
イルミナシオン読んだ
なんでその向こう側の話はしないんだ お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ https://
i.imgur.com/hPw40SP.gif
https://
i.imgur.com/tiwjHra.gif 海外の12歳の少女が、NFTで1億8000万円を稼ぐ
12歳のナイラ・ヘイズ氏のNFTコレクションが、数時間で160万ドル
(約1億8000万円)を稼ぎ出したと、米メディアの『Business Insider』が報じている。
ヘイズ氏は4歳で絵を描き始め、9歳のときにスマートフォンを使って彼女の代表作
「Long Neckie Ladies」を描いたという。このシリーズは3333点からなる、首の長い
多種多様な女性を描いたコレクションだ。出品後わずか数時間で売り切れとなり、
総額は約1億8000万円にのぼるという。
「アートは私が自分自身を表現し、言葉では不可能なやり方で人々を
驚かせるのためのもの」と述べている。
これまでにヘイズ氏は、NFTで1394ETH(約6億6000万円)を稼ぎ出してきた。
若きアーティストのさらなる活躍に期待しよう。 ランボーの勉学呪詛の詩を読むと
昔のゆた〇んを思い起こしました。 勉学呪詛と言っても後年のランボーは
大学受験のために猛勉強してたから
詩に関わって高校中退したことを
後悔してたでしょうね。 ランボーの詩は勉強嫌いの子供には
受ける詩じゃないですか?
大人の場合、どういう層の人に受けてますか? ランボーは中二病ですよね?
詩を読むと子供っぽい主張が多い。
「勉学に励んでも行きつく先は地獄だ」とか。
大人が読んで感心するのは難しいです。 また 見附 かつ た、 何 が、 永遠 が、 海 と 溶け 合 ふ 太陽 が。 独り 居 の 夜 も 燃える 日 も 心 に 掛け ぬ お前 の 祈念 を、 永遠 の 俺 の 心 よ、 かたく 守れ。 人間 共 の 同意 から 月並み な 世 の 楽しみ から お前 は、 そん なら 手 を 切 つて、 飛ん で 行く ん だ……。 ─ ─ もとより 希望 が ある もの か 立ち直る 筋 も ある もの か、 学問 し ても 忍耐 し ても、 いづれ 苦痛 は 必定 だ。 明日 といふ 日 が ある もの か、 深紅 の 燠 の 繻子 の 肌、 それ、 その あなた の 灼熱 が、 人 の 務め といふ もの だ。 また 見附 かつ た、 ─ ─ 何 が、 ─ ─ 永遠 が、 海 と 溶け 合 ふ 太陽 が。 389
そういう詩が
子供の主張だと思うんですよ。
そのまま中二病じゃないですか? ランボーも大人になって
仕事を始めてからは
詩作に関心無くしたしね。 ランボーの詩が
大人に受けている理由が分からない。
彼の人生の後半は職を転々としてて
冒険家みたいで面白いけど。 ランボーの詩みたいな
子供の主張をしている歌や小説、
「僕らの七日間戦争」
「ライ麦畑でつかまえて」
村上龍の一連の小説や
尾崎豊の歌なども
子供の疎外、子供の自由や人権を
主張していることになるし、
全くの無駄な芸術ということには
ならないかなと思いました。
そういう視点で見れば
意味があるかなと思いました。 しかし、ランボーの詩を始めとする
子供を対象とした芸術は
大人になったら
卒業すべきかなとも思う。