歴史上の遷都について

天武天皇は683年(天武天皇12年)に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と詔し、難波を飛鳥とともに都とした

和銅3年(710年) :藤原京(現在の奈良県橿原市あたりの場所)から平城京(現在の奈良県奈良市および大和郡山市あたり)へと都を遷した。

延暦3年(784年) :奈良盆地に設けられた平城京から40キロメートルほど離れた長岡盆地へ都を遷した(cf. 長岡京、長岡遷都)。

延暦13年(794年) :長岡遷都からわずか9年後、長岡京から京都盆地へと都を遷した(cf. 平安京、平安遷都)。

治承4年(1180年) :平清盛によって平安京から福原京への遷都が強行されたが、計画は道半ばで頓挫した。

建武政権から離反した足利尊氏が室町幕府を開いたことにより、朝廷は実権を失った。
ただし、名目上の都が平安京から動くことは無く、幕府も当地に置かれた。

天正4年(1576年) :織田信長が琵琶湖東部の湖畔に安土城を築き、安土城天主から見下ろせるような場所に天皇を住まわせるための建物も建造し、
そこへ天皇の居所も移動させることでその地から日本全体を支配しようと構想した。
しかし、それを実現させる前に明智光秀が起こした謀反(本能寺の変)によって信長は命を奪われ、織田政権は有名無実化した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、日本全国に対する支配力を得たが、都が平安京(京都)から動かされることは無かった。

慶応4年10月13日(1868年11月26日) :明治維新を行った人々は、天皇居住地を京都御所から東京城へ、時の政府を京都から東京へ移した。
遷都の検討段階では、大久保利通によって大阪遷都案も出されたものの、これは東京に奠都することを決定したために却下された。
しかし、これにより正式な遷都が行われず京の名も定められることがなかったため、厳密な定義では東京行宮となる。

日清戦争中の1894年に大本営が広島市に設置され(広島大本営)、これを指揮するために明治天皇が移り、
帝国議会(第7回帝国議会)も広島臨時仮議事堂で開催され、この期間広島が事実上、中央政府であった。