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豊下楢彦「昭和天皇・マッカーサー会見」2008年

ヨーロッパの場合、東欧やドイツの占領管理体制の枠組みは、
(英米ソによる議定書によって)ドイツ敗戦時までには明確に決まっていた。
ところが日本の場合、ポツダム宣言や降伏文書の段階では、具体的に何も決まっていなかった。
当時、英米中ソの4カ国で確認していたことは、マッカーサーの最高司令官就任だけだった。
アメリカが日本を排他的・独占的に管理するのか、
(或は日本の完全な武装解除後は、共同管理に移行するのか=)中ソの介入を認めるのか。
日本の管理方針を決めるのは東京の占領軍総司令部なのか、それともワシントンなのか、不明確であった。
そこでロンドン外相会議やモスクワ外相会議が開かれて
(極東委員会がワシントンに成立し、米ソの妥協が成立するまで)、
そこで日本の占領体制に関する駆け引きが行われた。

だがマッカーサーは日本を独り占めしたかった。しかし二つの不都合あった。
それは占領軍総司令官としてのマッカーサー自身の身分の不安定と、
中ソが激しく要求した昭和天皇の戦争責任である。