>>263
だから、その質と量がある社会ならそもそも社会と人が作中の挙動自体しないの。
あれは古い近代社会。近代社会に超高度AIを入れればハザードを起こす。
奮闘があったというならそれに従って進歩した社会をちゃんと描くことになる。
その上でその先としてのアラトを描くなら先進性でもあるが当然それも無い。

メトーデ(スタンドアローン)組が対立軸になれる事に違和感を感じなかったのか?
端的に量が量足りえる創発の世界においてあのタイプが優秀足りえる事は無い。
論文の海の扱い方を経てビジネスでも情報と実験の海を扱えるようになって、
アンダードッグ効果さえ当たり前のものになった。今でさえこれだぞ。

科学は質と量を担保する先鞭としてやる事やればアホでもバカでも参加できるよう整備を進め、
情報とシナジーとシナジー自体のシナジーによるフラクタルである現代が発展し始めた。
その暫定の発展経路たる科学と同じ見方をすればやるべき事を何もしてないのが自明な作品なんだよ。
別の発展経路という可能性もあるがこれも描かれてはいない。

その作品が『信じてる』俺の為に扱わせろ、とやるのがアクセサリーでなくてなんだ。


>ストーリーも使われ方すら無視して、単語だけ恣意的に使うその行為に意味はある?
はっきり言えば小説そのものが近代(重工業社会)の産物でその限りにおいてのもの。
現代(情報化社会)以降を小説で表現できると考えるのがそもそも不遜で、何か無いとそこは超えられない。

この人得意のボーイ・ミーツ・ガールは女の子を通して一度その場に引き込んでおいてから、
負荷のかかった場で再決断をさせる事で何かを掴み取った大人になるという教養小説の一種。
あくまで近代の代物。あと騙しAVの作り方と同じ構造。
それを振り回した挙句、近代にちょっと触れて「信じてる俺」はポルノだって話はもうした。

ストーリーがあったんだから意味があるというのがまず以って嘘。
だから>>269のように勝手に君が入れ込んで足元揺らいだストーリーというものに意味がある、
という全くの不合理なバイアスを剥ぎ取って見ているだけ。製作作法上の問題でしかない。
で、中身は? となると作法を引き抜けば見当たらないなら無視出来るストーリーと答えるしかないね。