遠藤周作は沢野忠庵の子孫と会ったことがあるらしい。子孫と会って、その三百年以上さかのぼる、その先祖を、わざわざ悪魔的人物に描くものでもないだろう。現実に触れると、山田や平井のようにぶっ飛ぶわけには中々いかないものだ。
実際、1974年のレポート(翻訳発刊は1986年)を読むと、山風・平井が描いたたような怪人物という印象はまったく受けない。遥か海を越えた異国の地で拷問を受け、棄教して体制側につくも、肩身の狭い日々を送った無力で哀れな老人……そんな印象だ。
中国人商人の未亡人だった日本婦人と結婚するか、家政婦とするようにと命ぜられる。
長崎の洪泰寺という禅寺に登録され、息子の沢野忠二郎とともに葬られている。彼が実子か、未亡人の連れ子か不明。
日本側の資料にはふたりの娘がいる。一人は杉本忠恵の嫁となる。その子孫は代々徳川幕府に医官として仕えた。
忠庵の仕事は長崎の奉行所で通訳として働き、ポルトガル語やスペイン語の文書を翻訳、宣教師の手紙を翻訳・解釈していた。
1636年の「顕偽録」は彼単独のものでなく、不特定多数の手により作成されたらしい。
実は絵踏みの創案者ではない。等々。
……フーベルト・チースリク(Hubert Cieslik)による「クリストヴァン・フェレイラの研究」から

もともと山田風太郎の作品は少年漫画的な作風なので、悪役はいかにも悪役だ。彼の沢野忠庵は、大柄で金髪碧眼、悪魔のような男として、溢れる狂気を禍々しく描写する。そのあたり、いかにも山風だ。
で、平井和正は、山風忠庵をスケッチしたような男にした。
平井がそのようにした最大の理由(推測)は後述するが、注目すべきは、山風が「感情倒錯症」という言葉で表現した回心の心理を、平井が採用したことである。回心がキーなのだ。