では、仮に百万歩譲って「馬鹿にするような書込み」だったとしよう。

しかしそもそも筒井康隆は
「人種差別をし、身体障害者に悪辣ないたずらをしかけ、死体を弄び、精神異常者を嘲り笑い、
人肉を食べ、老人を嬲り殺すといった内容を笑いで表現することによって読者の中の
制度的な良識を笑い、仮面を剥いで悪や非合理性や差別感情を触発して反制度的な精神に訴えかけようとする」
ブラックユーモアの擁護者である。

「差別用語は使う者にその意識がなくても、使われる者には何倍も敏感に響く」
「誰かを犠牲にした表現の自由は真の自由とは呼べない」
といったヒューマニズムと対峙する立場だ。「それでも人間か」と言われる側。

筒井の身内が死んだ時にだけ掌を返して「制度的な良識」の側に立つのは二重基準だろう。
誰かを犠牲にした表現の自由を主張できるのは、犠牲にされる覚悟を持つ人間だけだ。