銀河英雄伝説 素朴な疑問169

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2019/10/30(水) 22:36:49.09ID:Sn5aZnlX
銀河英雄伝説に関する素朴な疑問について語りましょう。

使用の際のルール
1 本作品は架空の歴史をもとに作成されています。よって、現実の歴史をもとに本作品の考察を
  行わないでください。
2 現実の特定の政治思想、国家、戦闘などを引き合いに出して作中内のそれを批判もしくは罵倒
  しないでください。その逆も同様です。
3 作品内ですでに確定している評価(トリューニヒト、トゥルナイゼン、等)は議論しても覆らないと
  思って語ってください。作者(田中氏)の意図にそった議論をしましょう。
4 疑問に対する回答は大いに結構ですが、あくまで架空の歴史に対しての質問と回答です。
  そういう考え方もあるさ、という程度にとどめ、理性を失わないようにしましょう。
5 sage進行でお願いします。name欄に何も入れなかったり、わざとageにしてる人は荒らしとして
  スルーしましょう。

※前スレ
銀河英雄伝説 素朴な疑問168
http://mevius.2ch.net/test/read.cgi/sf/1563634181/
2019/12/12(木) 22:25:53.96ID:xb3QTIhY
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88

■評価と影響

ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。
一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから、国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。

ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現れた。以後フランスの人口(特に青壮年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、国力でイギリスやドイツ(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。
フランス復古王政を経て成立した7月王政期の1831年には、フランス軍における人員のおびただしい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることになった。

ナポレオンのあとに即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。

王党派は、1815年の王政復古から反ボナパルティズムを取り、数年にわたり白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにもつながった。
ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火していくことになる。

ナポレオン没後もナポレオン体制を支持する潮流は軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤としており、その権力形態はボナパルティズムと呼ばれるようになり、その後のフランス政治にも少なからず影響を与えた。
他方、フランス革命前のブルボン朝によるアンシャン・レジームを絶対視するレジティミスムや、7月革命後のルイ・フィリップによる立憲君主制を模範とする統治を支持するオルレアニスムも存在しており、フランス国内の右派においてこの3者は競合する関係となった。
 
2019/12/12(木) 22:26:44.23ID:xb3QTIhY
 
・・・その一方、産業革命などによって急速に個性を喪失していくなか、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンを時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。
1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。


■ナポレオン法典、別名フランス民法典(1804年)

ナポレオンが用いて広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播した以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。
ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。

ナポレオンはこの法典の条文の完全性に自信をもち注釈書の発行を禁じた。軍事的にもナポレオンが生み出した、国民軍の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携(三兵戦術)、輜重の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、
プロイセンにおいてカール・フォン・クラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されることになる。

政治思想史においてもフランス革命の理念(自由、平等、博愛)がナポレオン戦争によって各国に輸出されたということも見逃してはならない。短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は急激な変化を経験した。

ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立し、フランスと同様の民法を移植していった。長くフランスの支配を受けた地域では工業化が始まり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていった。
また、ヨーロッパの諸民族は他民族からの解放や民族の統一を学んだ。列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前に戻そうとしたが、社会の仕組みはすでに変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。
 
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