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差異を作ろうとした、というのは、正確な理由ではない。
人々が遺伝子操作を行うのも、遺伝子操作科学が誕生したのも、自由競争が世の中にそ存在するからである。
自由競争の中で我が子を優れさせたいと思った結果、遺伝子操作に手を出し、その結果差異が発生した、というのがより事実に近い。
また、遺伝子操作科学(ヒト遺伝子工学)は、自由競争に勝ちたい、より高みを目指したい、という普遍的な重いが誕生を大きく後押しした。

自由競争の結果起きてしまう差異は、自由競争をしないことでしか解決できない。
競争の勝者が獲得したものによって発生する敗者との差異は、当然の結果として受け止めるのが精神の健全な在り方だろう。
遺伝子発現という人間にとってより身近で、本能的に反応しやすい点での差異を受け入れるには、おそらくより多くの時間を必要とする者が多いし、
遺伝子や生まれついた環境という努力しようのないところで決まるものが極めて重大な影響力を持つことに不当さや理不尽さ、やりきれないものを感じるのは異常ではないが、
自由競争のために努力した結果、遺伝子操作に手を出した精神と、
新たに登場したこの競争市場に核攻撃という結論を出す精神のどちらがより批判されるべきなのかは明白ではないか。

遺伝子操作は生命倫理に踏み込む行為だが古来から人間の奥底に存在する「秀でたい」という意識の実現の場の一つに過ぎないという事実を無視してはならない。