それが、「処女懐胎説」を導入せざるを得なくなったことで、一気に崩れました。
処女懐胎説は前述の通り、なつみを「超常的な力が『ない』」が、「保護される特別な存在」としています。
これは地蔵説の前提と相反します。かといって、地蔵説自体を否定することも、できないのです。
何故ならば、「なつみの地獄行きの理由」の問題があり、少なくとも冥界においては必要だからです。
したがって、「処女懐胎説」の及ぶ範囲は現世であり、また現世に限られるということになります。
同様に、「地蔵説」の及ぶ範囲は冥界であり、また冥界に限られるということにもなります。
つまり、一つの物語の中でいわば「聖書的世界」と「仏教的世界」が「幽明界を異に」しているわけです。
これでは統一は望めません。何よりも、なつみの性質が激変しています。まるで二人いるみたいです。

それならば、いっそ「二人いる」ということにしてみてはいかがでしょうか?
少し唐突かもしれませんが、統一すべくもない世界を、一旦別々のものとして観るということです。
そして、なつみはその別々の世界で別々の役を、つまり「一人二役」で演じている、と見立てる。
つまり、このFLASH全体を「演劇」のように解釈してみたらどうだろうか、と考えるわけです。
そのためには、時間の流れ、登場人物、そして全体の構成を整理し直す必要があります。
それによって、ここまでの論を整理するとともに、新たな発見を、と目論んでいるのですが…。

例によって眠さの限界です。失礼いたします。ではまた。