あの日からの消費と反復
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実際に震災の恐怖に直面した人たちと、TVのモニター越しに観ていた自分らには距離があって。
なかなか、難しいっすね。
「東京オリンピック」での「福島の汚染水とは関係ない」アピールとか。タバコを吸っていた山本太郎さんとか、色々、思うことがあります。
きっとその距離は、これからも広がっていくんだろうな。
その広がりをもたらすのが、TVを初めとしたメディアであって、それ以上に作中で描かれたネットの世界な気がします。

死亡者がマリリンモンローに変わる場面。考えさせられる。
解釈には人それぞれ様々あると思うし、必ずしもそれを作者が語るのは、作品にいいことじゃないと思うし。

それでも、自分の考えたことを書き残そうと思う。

初めはセックスアピールのあるアメリカ的なモンローという代名詞を、一人一人の犠牲者に当てはめて、
一般人よりも著名な「芸能人」に置き換えたほうが、むしろ損害の酷さを生身に体験する、そうしたとても現代的な感じ方だと思えました。

次に思ったのが、いや、これは犠牲者の没個性化。
沢山の人が亡くなったのに、残るのは、死亡者の数や被害の大きさ、地震の規模、データ。
一人一人の確かにそこにあった筈の命が、一枚のマリリンモンローの写真に同等に置き換えられていく記憶の風化の怖さ。
そうしたのを感じました。


後半部分、映像的にメリハリがあって刺激的。けれど前半部分の圧倒的な解釈の自由さに、ちょっと力負けしてるかなとも思ったり。
かなり解釈が追いついてないだけかもしれませんが。
でも、自分を見せる時ってお洒落したり、掃除したりするじゃないですか。
この部屋の映像にはその痕跡が見えなくて、あくまでも等身大に作者と対峙している肉薄さがあって、来るものがありました。
一人の人間として訴えている、という感じが。

考えさせられます。ちょっと恥ずかしい感想っすね。でも、震災の風化しつつある今、こういうのに触れられて、キーボードを叩けて、何だか嬉しいです。
それはもうひとつのネットの魅力ある側面なのかな、とも思う。