「頑張った」なら使ってもいいッ!
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「頑張る」…そんな言葉は使う必要がねーんだ。なぜならオレやオレたちの仲間は
その言葉を頭の中に思い浮かべた時には!
実際に頗る頑張っちまってもうすでに終わってるからだッ!だから使った事がねぇーッ
「頑張った」なら使ってもいいッ! それとは可なり独立に、世間的に、常識的に、
併し定義すべからざる厳密さを持った一定概念として、通用しているのである。 殆んど総ての概念がそうであるが
(例えば感覚は心理学的に云えば一つの単純な心的要素に過ぎないが日常的には
認識・判別・批評的判断・性格的能力・などの極めて複雑な力を意味する――センス)、 専門的な概念――夫はやがて術語となる
――は他方に於て日常的な概念と平行し複合しているのを常とする。 と云うのは科学的諸概念は元々常識的な言葉から洗練し出されたものに外ならないからである。 処で、意識が、心理学的な、或いは最も著しい場合を採るのが好都合とすれば
実験心理学的な、概念であると共に、
同時に吾々が日常用いている一つの常識概念でもあるということが、
この概念の色々な困難を用意する。 ――心理学者は、だから、どれ程科学的であろうとも、
必ずしも意識という概念の説明に於て権威を有つものではない。 心理学的意識概念は、常識的な概念乃至用語のセンスによって、裏切られる。 ――一つとして数学の名辞のように定義出来る日常概念はない、
誰が一体机を定義出来るか、誰が一体家を定義出来るか。 こうした概念の諸規定はそれに対立した諸規定によって、
順々に否定されることによって、初めてほぼ纏った一つの概念となることが出来る。 ヘーゲルが指摘する通り、凡そ概念と呼ばれる限り、
それは弁証法的なものであらざるを得ない。
――意識の概念も亦そうした弁証法的な概念であることを今、忘れてはならぬ。 心理学、その代表的なものは実験心理学であるが、
この科学にとって、意識とは常に個人が有っている意識のことを意味する。 考え方によっては個人ばかりではなく団体も亦――群集・法人・民衆・国民等々
――意識を有つと云われなくはないが、そうした団体のもつ意識も実は、
個人の有つ意識の概念を基準として、初めて意識の名を与えられることが出来る。 個人のもつ意識という概念は、一切の意識の概念のモデルと考えられる。 個人の意識と群集の意識とが異ることを、或る心理学者達がどれ程強調しようとも、
両者が同じく意識と呼ばれる理由は、
外でもない両者とも同じく、
個人的意識――もはや必ずしも個人のもつ意識に限られない――だという処に横たわる。 実際、実験心理学(従って、又一般に心理学)が、
生理学――それは生物個体に関する理論である――にその物質的基礎を
求めなければならない以上、その意識の概念は個人的意識である外はない。 ――だがこの点は、
謂わば哲学的心理学(F・ブレンターノの『経験心理学』やナトルプの『一般心理学』) ・現象学・哲学(「先験心理学」其他)などに於ても、今まで少しも変る処はないのである。 哲学的心理学や現象学乃至哲学などに於ける「意識」は、
――最も特徴ある場合を採るとして
――それが如何に「純粋意識」(フィヒテ、フッセルル)であろうと 「意識一般」(カント)であろうと、要するに個人のもつ
意識(それは個人意識とか経験的意識とか呼ばれる)から蒸溜されたものであって、
個人の意識の外に横たわるにも拘らず依然として
個人的意識の概念に依っていることを免れない。 哲学者――実は観念論者――は好んで意識の超個人性を又は超意識性をさえ主張するが、 そうした主張は、自分が観念論者乃至超観念論的観念論者であることを
証拠立てているまでであって、却って皮肉にも意識概念の個人性を、
個人主義的見解を、暴露しているに過ぎない。 かくて哲学と云わず科学(今は特に心理学)と云わず、
従来、観念論の組織の上に立ち又は之と友誼関係を結んでいる諸体系にとって、
意識とは個人的意識の謂だったのである。 意識は全く意識主義的に、個人主義的に、だがそれは結局観念論的に、
しか取り扱われなかった(以上の意識の概念に就いては、第六章に詳しい)。 こういう取り扱い方によれば、意識の問題は、
意識そのものを道具としてしか解決出来ない、意識を説明するものは意識自身である。 意識は最後のもので最初のものだ、ということになる。 ――では併し、意識と他の諸存在との関係――意識も亦一種の存在
Bewusstsein であるが――との関係はどうやって与えられるか。 意識乃至観念が凡てである(尤もこの場合意識乃至観念の概念は色々に
都合好く偽装してではあるが)、では他の諸存在はどうなったか。 だが意識は決して、単なる意識としてあるのではなくて、何物かの意識としてしかないのである。 或る形の観念論の主張に従って、一切の存在が意識として初めて、 意識されることによって初めて、存在出来るというならば、それだけ却って一層、
一切の意識は何物かの意識だということにならなければならぬ。 併しそうすると、意識はもはや意識として独立するものとしては意味を失うのであって、
却って意識は或る意味に於て他の存在に依存せねばならぬということになる。 と云うのは、仮に意識を担うと考えられる主体――個人――が転変しようとも、
一定の意識を形づくる処の存在そのものは転変しないかも知れず、 従ってその意味に於て意識の内容は意識の主体――個人――を超えて
一定形態を保つことが出来る、というのである。 自我とか精神とかいう何か意識の担い手を意識と呼ぶのではなくて
――だが哲学では大抵それを意識と考える――、 意識現象の一定内容を意識と考えるならば、
意識は当然意識以外の存在に依存せねばならぬという必然性が出て来るのである。 ――例えば純粋自我・純粋意識其他に関する処のもの――の手を借りなくても、
而もより決定的に、意識の概念は個人――意識の担い手・主体――を超えて理解出来るし、
また理解されねばならぬ。 こうして得られた意識の概念こそ、本当の――形而上学的範疇を借りない処の――超個人的意識である。 従来の哲学に於ける所謂超個人的意識――純粋意識・意識一般・絶体意識・等々――は、 なおまだ、超個人的に考えられることを強制された個人的意識に過ぎなかった。 普通、哲学概論式な概念によれば、形而上学的とは「認識論的」又は「現象学的」に対立する。 だが吾々によれば、単に存在の意味の解釈を与えることに終始し、
従って存在の意味の秩序を以て存在そのものの秩序と思い誤る処の、
理論的方法が、形而上学的である。 併し有力なそして又実際尊重すべき従来の観念論の或るものによれば、
意識の概念はすでに略々今云った意味に近い点にまで引き寄せられていないのではない。 超個人的意識は歴史的意識として、個人を超越せしめられる。
歴史を遍歴する処の理念として、歴史的伝統の主体である
精神(例えば客観的精神)として、又歴史的理性として、
――人々はヘーゲルやディルタイ等を考えるべきだ――、
それは鮮かに個人を超越する。 例えばフィヒテに於ける(個人の)経験的意識から純粋自我の超個人的な(?)
意識への超越は、決してこのように鮮かではない。 と云うのは後者の場合に於ては、その所謂超個人的意識が、
個人の意識からの形而上学的な超越の結果であったために、
依然として個人的な意識の範疇の外へ出ることが出来なかったが、
前者の場合は之と異って、個人的意識が実際に超個人的な意識にまで超越したと、
一応は見られねばならぬのである。 凡ゆる意味に於ける文化、広く理解された学術や芸術、
又同じく広い意味での道徳や宗教まで入れて一切の文化は、
従来こうした超個人的な意識という範疇によって理解され又取り扱われて来た。 歴史主義や歴史哲学、又文化哲学や文化社会学は、
そうした超個人的意識の内容に関する学に外ならない。
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