■■■死恐怖症(タナトフォビア)33棺目■■■
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タナトフォビアとは死そのものや死に関連するものに対する恐怖症のことです。
このスレにはこんな人たちがいます。
1. 意識の喪失による無が怖い人
2. 死に伴う孤独や痛みが怖い人
3. 悲惨な目や災害にあって死ぬのが怖い人
4. 生や死そのものの不可解さが怖い人
5. 死んで人から忘れられるのが怖い人
6. 永遠が怖い人
7. 身近な人の死が怖い人
8. 生きる事やこの世の全てが無意味に感じるのが怖い人
これらのことを考え出すと思考が止まらなくなり、恐怖・発狂恐怖に陥る人。
タナトフォビアの類義語としてネクロフォビアがあります。
しかしタナトスはもともと死を擬人化した神の名を、ネクロは死体を指すので、
ネクロフォビアというと死体、つまり他者の死を意味するときに使う習慣もあるようです。
(ただし海外では同義語として扱われています。)
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前スレ
■■■死恐怖症(タナトフォビア)32棺目■■■
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/utu/1511931976/ スマホで配信するために穴あきグローブ→露出部凍傷→自然治癒期待して放置→指を9本壊死させる
っていう噂がマジならやばいよな タナトなら登山なんかしようとは絶対に思わないよね
ましてやエベレストなんて世界の最高峰
命を捨てに行くようなもの
まぁ好きなことやって死ねたんなら
本望なのかもしれないけど 登山家のあいだでは三流と言われてたみたいだね
この結果から事実だったのかもしれない
自然は舐めたらいかん本当に
所詮人間は生かされてるにすぎん 人の幸せは、心の持ち方次第です。もし物質文明が幸せをもたらすなら、私達はとっくに幸せになっていなくてはなりません。
しかし物質文明(科学文明)が進んだ今日、かえって心の不安が高まっているではありませんか?。
後進国の人達が物質文明に取り込まれるに従い、精神的苦しみや自殺や鬱、
ストレスが増大しているのはその良い証です。
心の病が多くなっているということは、その文明が誤った方向へ進んでいる証しなのです
勿論、物質文明にも意味はあります。でもその意味を知った暁は、一日も早く物質文明から卒業しなければならないのです。
キンピカ、キラキラ、天にも届く高層ビルが建ち並び、その間を縫うように高速道路が走るといった文明は、
その限りであることを知って下さい どうしても華やかなものに目が行きがちですので、物質文明が栄えるのも止むえぬことかも知れません。
しかし大人になってくると、感性や本性が騒ぎ出しますので、精神的なものを求めたくなってくるのです。
人類は今物質文明に酔いしれていますが、やがてその儚さに気付き、
精神文明に大きく舵を切るようになるでしょう 精神文明とは、人の本質、精神、幸せ、宇宙の本質を詳らかにして真の喜びを発見し、
その喜びに少しでも近づこうとする文明です。つまり天の利を地に降ろし、
天の幸せに劣らぬ幸せを地に開花させる文明です。
私達は幸せを勘違いして捕らえています。幸せは肉体が感じるのでしょうか?、
心が感じるのでしょうか?。心ですね。
ならば心に平安をもたらす文明こそ、真の文明ではないでしょうか?。
確かに便利さや快適さをもたらす物質文明は、心を喜ばす条件の一つではあります。でもいかに良い条件が整っても、
心に悩みがあっては真の幸せを掴むことはできないのです 物質文明は幸せを獲得する一手段ではありますが、目的では無いのです。
それに対して精神文明(真の自分を知る文明)は、幸せ得る目的そのものなのです。
なぜなら、真の人間を知らずして精神文明はあり得ないし、真の幸せもあり得ないからです 昔の人達は不幸だったのでしょうか?
そうではありません
今の時代の方が精神的に病んでる人
自殺者が圧倒的に多いのです
物質文明では人と自分を比べた時から
不幸(劣等感)が生まれます 私達の心は本来
思いやり 気遣い 優しさ 愛などにより
幸福を感じるのです
これが精神的な豊かさです
お金や物 物質で人の心が満たされることは
ありません 幸せになるために必要なのは、物質的豊かさではありません。
精神的豊かさです。
精神的豊かさが大切だということは、あることがきっかけで気づきました。
私の家庭は、比較的裕福です。
私が留学できたことも両親のおかげです。
別の言い方をすれば、お金のおかげです。
私は日頃から、高価な物を買っていました。
それもたくさんです。
物がたくさんあるほど、裕福だと思っていたのです。
そのため、以前の私の部屋には、物がたくさんありました。
しかし、違うことに気づき始めました。
高価な物がたくさんあっても、心からの満足感がないのです。
日常に困ることがないはずなのに、心の中は満たされていませんでした しかし、たくさん物を持たなくても、親しい友達が1人いるだけで変わりました。
すぐ心の中が満たされ、幸せを感じることができたのです。
もちろん物を持つことで幸せを感じることもあるでしょう。
しかし、精神的豊かさは、友達や家族など、人が大切です。
そうした経験があり、私は幸運にも幸せに気づけました。
大切なことは、精神的豊かさです。
本当は目に見えません。
もちろん買うこともできません。
幸せとは、当たり前のことです 友達が優しく話しかけてくれたこと
両親からの教育
友達が誕生日を覚えてくれていたこと
自分のことを心配してくれること
誰かが助けてくれたこと
どれもささいなことですが、大きな幸せです。
自分の周りには、すでにたくさんの幸せがあることに気づきます。
それらは精神的なことですから、お金で買えるものではないし、見えるものでもありません
しかし、生きるために大切なことです。
幸せになるために大切なことです。
それに気づきましょう。
幸せとは、手に入れることではなく、気づくことなのです。
幸せはそこから始まります。
今、置かれている状態がどれだけ幸せであるかということに、
気づくことが大切なのです。 アイザック・アシモフの科学エッセイ集『存在しなかった惑星』(ハヤカワSF文庫)に、こんな話が出てくる。
ある時、アシモフの講演の後の質問に、一人の青年が、「科学や技術が人間の幸福を少しでも増大させたと本気で思っているのか」と訊ねてきた。
「あなたは、古代ギリシアの時代に住んでも、いまと同じように幸福だと思いますか?」と私は尋ねた。
「思いますよ」彼は、きっぱり答えた。
「アテネの銀鉱の奴隷であることが、どれだけ楽しいかな?」私が微笑を浮かべて訪ねると、彼は坐って黙りこんでしまった。
どうしてこんな話を思い出したかというと、つい最近、ネット上で面白い意見を読んだからである。
個人の日記なので迷惑がかかるかもしれないからURLの提示は避けるが、要約すると「我々は武士の子孫ではなく、百姓の子孫だ」というのである。
江戸時代の武士の人口比率は三%とか五%とかいう数字。
人口の大半は百姓だった。
だから「日本はサムライの国」とか「日本人は武士の子孫」などと考えるのはおかしい。
そうしたことを真剣に主張する連中は「現実と空想の区別がついていない」というのだ。
まったくその通りである。
僕たちは、ギリシア時代というとソクラテスのような哲学者を、中世ヨーロッパというと騎士や国王を、平安時代というと雅な貴族の暮らしをすぐに連想するが、
実際にはどの時代でも、肉体労働者や奴隷や農民の方がはるかに多かったのだ。
仮にあなたがそんな時代に生まれていたとしたら、九割以上の確率で、抑圧される貧しい被支配階級としてみじめな一生を終えていたはずである。
こう書くと「いや、農民でも幸せな暮らしをした人はいたはずだ」などと反論されるかもしれない。
だが、電気や機械がなかった頃の農業がどれほど大変だったか、想像してみたことがあるだろうか? 江戸時代には飢饉や伝染病で多くの人が死んだのに、近年の日本ではそんな事例はめっきり減り、平均寿命も延びた。
なぜか? 言うまでもない。
機械化農業によって大幅に労力が軽減されるとともに、作物の収量が増大したこと。
冷害などに強い品種が開発されたこと。
医学の進歩によって多くの病気が治るようになったこと。
輸送網の整備により、収穫物を遠く離れた土地まで迅速に送れるようになったこと――
どれも科学技術の進歩のおかげである。
科学が人間を多くの苦しみから解放したのだ。
ではなぜ「昔は良かった」とか「科学や技術は人間を幸福にしない」などと思ってしまう人が多いのか。
それはまさに「現実と空想の区別がついていない」からだ。
テレビドラマや映画で描かれる架空の江戸時代――夜でも部屋はライトで明るく照らされ、既婚女性はお歯黒をつけず、
飢饉や伝染病の脅威など存在せず、正義のサムライが悪人をばったばったと斬り倒す――を、本物の過去と錯覚しているのだ。
仮面ライダーの実在を信じる特撮マニア、ガンダムの実在を信じるアニメ・マニアはいない。
だが、テレビ時代劇の中の江戸時代を現実の過去と錯覚している人は、確実に存在している。 そんなに遠い時代の話ばかりではない。
たとえば昭和三〇年代を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の感想をネットで読むと、あの描写を映画的なウソだと割り切って見ている人も多い反面、
本気で信じ込んで「古き良き時代」とか「こんな時代って素晴らしい」とか賞賛している人がいて不安になる。
冗談じゃない。まだ公害規制法が存在しなくて、工場が煤煙や廃液を垂れ流していた時代だよ?
今より少年犯罪が何倍も多かった時代だよ?
夏にはクーラーなんかなくて、窓を開けておくから家の中でも蚊に刺されまくってたんだよ?
便所はみんな汲み取り式だったんだよ?
全自動洗濯機も電子レンジもコンビニもATMもビデオもインターネットもテレビゲームもなかったんだよ?
あなた、本当にそんな時代に戻りたいと思います? 僕は嫌だぞ。
「貧しい時代だったが、心は今より豊かだった」?
本気でそう思っているなら、今すぐ全財産を慈善団体にでも寄付して、一文無しの暮らしを始めなさい。
経済的な豊かさと心の豊かさが反比例しているなんて証拠はどこにもない。
犯罪の多くが金目当てであることからすれば、むしろ貧しいほど心がすさむと考えるべきではないのか?
貧しい時代に憧れるというのは、豊かな時代に生きる人間の不遜である。
「古き良き時代」なんて本当は存在しなかった。それは美化されたフィクションの中の話なのだ。
無論、現代にも多くの問題が存在する。それらは解決していかねばならない。
しかし、問題があるからといって、「昔は良かった」とか「今の世の中なんて」と自虐的になることはない。
過去と比べれば、現代こそ「良き時代」なのだ。こんな時代に生まれた幸運を、僕は誇りに思う。
(山本弘『存在しなかった過去』より) そうなんだよね
物質的豊かさが悪だなんて言えるのは豊かな生活おくってるからなんだよなぁ
Mariaとやら口だけでなく行動してごらん
科学技術の発達してない国は沢山あるよ
そこで生活してきてごらん
俺は海外やらで農業やったことあるけどかなり大変だったよ
精神病がないんじゃない
精神病なんて言ってられないほど毎日生きるのが大変なんだよ
弱者は死ぬしかない ただ古きよき時代を全否定はしない
誰しも心にノスタルジアを持ってるだろうからね 自分自身が平安である人は、自分のまわりのものすべてに平安を認めます。
本質は美であり、真理であり、平安です。人はそれを醜いものとして、間違ったもの、暴力的なものとして捉えます。
…それだけのことです」
「幸福な人生を送るには、心の平安が必要です。人間の心は荒れ狂うガンジス河に似ています。
心はディヤーナ(瞑想)のような歯止めとなるものを効かせて抑制しなければなりません。ディヤーナとは一点集中です。
心の動揺が人類にあらゆる不幸をもたらすのです。穏やかで健全な人生を送るためには、心の平安を培わねばなりません」
「徳高い道に沿って考え、話し、行動するなら、人の意識は純粋となり、内なる平安を抱きます。
知識は力である、と言われますが、美徳は平安です」 「快適であるということと平安であるということが混同されています。
快適さは平安と同じものであると受け取られています。富む者、地位ある者、富豪や権力者は誰も平安を得ていません。
それが真実であることは調べればわかります。平安は、銀行の通帳や部屋数の多い家、倉庫や鉄の金庫の中に見出されはしません。
あなた方の態度はすべてあべこべのものとなっています。それは馬の前に荷車をつないでしまうのと同じ程滑稽なことです。
物質的なことは霊性のあとについてくるものです。心が馬であるのに、それが顧みられておらず、旅に備えて訓練されていないのです」
「単に憎しみを取り除いただけではアーナンダ(平安)を確実にすることはできません。愛をもまた、培わねばなりません」
「シャンティ(平安)は神の特性です。根気と忍耐と寛容をもって正しい
霊性の道に従う者のみが平安を得ることができます」 25: Maria 2017/08/24(木)21:23 ID:0(25/135) AAS
今の物質文明で心の平安を得ることは難しい
今の社会は過剰社会と言えます
満たしても満たしても満たされない
物質文明(科学文明)に生きてると人の心は病んでいきます 宗教の創始者たち(イエス、ブッダ、老子)は、
宇宙の本質とは何か、
精神的な本質とは何か、
現実の本質とは何かについては、
それぞれ独自の考えをもっていて
相いれなかった。
しかし、道徳的な教えに関しては、
彼ら全員が一致している。
たとえば、物質的な富の追求は
間違った目的であるという解釈である。
また、没我性と他者への愛を持つことこそが、
人生における幸せと成功の鍵であると
口をそろえていっている 貧乏とは何か?
レオナルド ダ ヴィンチ
私を軽蔑するな 私は貧乏ではないからな
やたらに沢山の物を欲しがる者こそ貧乏なのだ
貧乏とは物質的に金銭的に足りてない者のことではなく
何でも欲しがる者のこと
つまり心が貧しい者のこと 貧乏でも満足している人間は金持ち、それも非常な金持ちです。
だが、金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人間は、
冬枯れのようなものです。
シェイクスピア著 『オセロー』 生活に“必要なもの”が揃っていれば、それは“金持ち”です。
しかし、それ以上の“快適なもの”を揃えている大金持ちが他にいると、とたんに “貧しい者”になってしまいます。
資本原理主義の中では、生活に“必要以上”のものを持って初めて“庶民”であり、
“必要過剰なもの”を持って初めて、“金持ち”になります。
搾取する側とされる側、気味の悪い勝ち負けが明確に色分けされた
場所で、自分の個性や判断力を埋没させている姿に貧しさは漂うのである。
実際これからの時代は、“勝ち組”“負け組”の二極化が進み、勝ち組は共食いを始め、
負け組は自殺者が急増するという予想もされています。
年収3000万円以上、資産1億円以上あって、初めて“中流”“小金持ち”とみなされるようです。
日本の平均年収約700万円、
その弱肉強食の社会では、我利我利(ガリガリ)と他との競争で勝つことだけが美徳とされ、共利共存の“弱きをたすけ”という情けを持つ余裕すら許されないでしょう。
そして必要以上のものを求めて、今の自分を必要以下に見てしまうところに、“心の貧しさ”はやってきます 貧しい人ほど、外見や容器や量ばかり気にして、肝心の“中身”に意識が向きません。
某テレビで“幸せ”について語っている某占い師の身につけた何百万円もする装飾品の数々は、逆にその寂しさと貧しさを語っている気がします。
大切なこととは、自分にとって必要なものが何であって、今、苦しくとも自分を楽しませる気持ちがあるか? だと思うのです。
1000円、100万、1000万、10億、100億、1000億円…。
いったいいくらあれば、人は必要量を満たし満足するのでしょうか? 「10億円くらいあれば“ラク”に暮らせるだろう」…、何のために“ラク”である必要があるのか?
本来ならば、10億円投資しなければ達成できない“夢”があって、初めて設けることのできる基準のはずです。
“楽しい”人生と“ラク”な人生の間には、 “死ぬほど生きる”と“死んだように生きる”くらい、かなりおおきな差があります。
年収も、偏差値も、環境も、外見も、結婚相手も、将来も、子供も、“平均”以上でなければ庶民にもなれないという考え方こそ、
“貧しい”ことだと思うのです。
不足感故の、見栄という名の満足の“虚構”…。
私の思う“豊かさ”の基準は、
「好きな時に、好きなことを、好きなだけ行える自分」があることです。
金がない、自信がない、好きなことがない…そう思い込むとき、本当に自分が貧しく感じます。
なぜなら、お金も自信も好きなことも、実は自分で創り出せるものであるからです。
たとえ状況を変えることができなくとも、「〜だからダメ」ではなく、
「〜だからこそ」と、自分の心の状態を楽しませることが出来ます
お金を持っているからといって偉いわけじゃない、お金の遣い方を知っている人、
その品格・態度を持っている人が偉いと思います。
豊かさとは、人と比べた相対的なものでなく、自分の中にある“絶対的”なもので決まります 日本が世界一"貧しい"国であることについて
日本は世界から可哀相な国だと思われている ロンドン在住、元国連職員の著者が見た
「日本は世界で"かわいそうな国"だと思われている」衝撃の現実。
若者の自殺、「社畜」的働き方、「人付き合い地獄」の社会、
「みんなで不幸になろう」という足の引っ張り合い、
グローバルな人材なんて育つはずもないおかしな教育、何でも人任せで自分で考えない「クレクレ詐欺」。
空気を読み過ぎて「セルフ洗脳」に陥る日本人たち。
こんな日本人の「貧しさ」を、世界の現実と対比させながら問いかける。
『自分が日本でかかっていた洗脳。
競争しなくてはいけない、
家族や友より仕事、進歩は偉い、田舎はださい、自販機とコンビニは重要、電車とバスは定時でなければいけない、
痩せてなければいけない、
群れなければいけない、流行は追わないといけない。どれも自分を不幸にしていた。』 それらしい言葉を引っ張ってきてぐだぐた書くだけなら誰でもできる
だけどそこに意味はないよ
君はそこから 人は、物質的な豊かさ、幸せを求めて 来ましたが ・・・
1 産業革命( 資本主義 )
● 人の考え方・行動を、ベルトコンベア式、単一的、機械的にし、人を製品化しています。
? 人間の個性、自由性、精神性が認められない。
? 社会のシステムに合わない者は除外され、人間の差別化が起こる。
? 人間関係の軽薄化。 家庭破壊。
現代の「 姥捨て山 」現象の出現。
産業革命は、必要なものですが、
その取り組みに、失敗したのです。
「 弱肉強食 」( 権力・知識 )が支配する社会となる ネットの発達
人間関係の軽薄化
いじめ
パワハラ
暴力
人と人との貶し合い
差別
仕事のストレス
勝ち組負け組
競争社会 子どものころから勉強,受験,上を目指せという教育を受け,
物質文明至上主義の中で育って ...
そのあまりの変化に人間の心がついていけないのだ 現代人は、現状に感謝できず欲望が暴走しているとよく言われていますね。
こうなる原因はいろいろとあると思いますが、物質文明の発達による人間関係の希薄化がひとつの原因だと考えています。
野生の動物たちがそうであるように、
またかつての人類が長い間そうであったように、
本来の大自然で生きるということはとても過酷で、お互いが心を通わせながら、
助け合ったり、分け合ったりして生きていく必要があるのです。 しかし現代は、家電、コンビニ、インターネットなど便利なものがあり、
交通やインフラなども整備されているので、人と中身のある交流をしなくても生活が成立してしまうのです。
そして、これが「ひとりでも生きていける」という錯覚を生み出し、感謝をしなくなる原因になるのだと思います。
物や環境さえあれば一人でも生きていけるような社会が形成されてしまえば、
それを満たせるお金や地位に執着してしまう。また、
心の隙間を埋めるかのように欲望が暴走してしまえば自分のことで精一杯になり、周りのことも考えなくなる。
そしてつながりに感謝することをしなくなる 権主義に走る人、犯罪を犯す人、精神を病む人が増えていますが、
このような人間関係の希薄化が原因となっている場合もあると思います。
そういう人ほど、「自分のことを分かってくれる人はいない」と言いますが、
とても危険だと思います。より人間関係が希薄化していくのです。 松下幸之助さんの言葉をシェアします。
『きょうこのごろの世の中、心のぬくもりの何とうすくなったことか。
頭がよくて、口先が巧みで、理が立って、それでなお寒々とした心の気配しかつたわらない人の何と多いことか。
そうした人と人との交わり。そこには、ジーンと胸にひびく感動もなければ、互いに募い寄る情感も生まれてこない。感謝の心がないのである。
ありがたく思う心がうすれたのである。米一粒にも天地の恩を感じ、人の情けに涙したあの日本人の心のぬくもりはどこへ行ったのであろう。
音もなく崩れゆくこの日本人の心を、慄然とした思いで省みたい。このままでよいのかと問いかえしてみたい。 「自分は一人ではないんだ」「自分は生かされているんだ」という意識が大事だと思います。
そうでなければ人の優しさが見えてきません。人の優しさが見えてくれば、
心のぬくもりを取り戻せるし、欲からも解放されて生きやすくなると思います 20世紀は電話、自動車、機関車、飛行機などの発明 また 20世紀後半はコンピューター、インターネットと 我々の生活そのものを変えてしまう ものが 一般化しました。
第二次世界大戦後生まれの人々にとって はあたり前の生活なのですが
実は このようなものが大量生産されることにより コストが落ち 一般大衆にもいき渡ったという 資本主義の意義のあるところです。
しかしながら、物質 つまり ものを追求するために その交換財である 紙幣(お金)を稼ぐことが目的となってしまい、一部の金融機関関係者を中心とした人たちの横暴が
1929年の恐慌をまねき 、また、今回の「金融危機」にいたっているわけです。この金融危機は 欧米ではすでに「恐慌」にはいっているわけですが、発想の転換が必要です。
「物質文明」から「精神文明」への転換です。日本国は古代より精神文明の国であったのですが、
敗戦により アメリカ占領政策の基 「物質文明」社会への転換を余儀なくされました。 アメリカ型資本主義が終焉を迎えたのですから、「助け合う」「困った人がいたら助ける」「お互い迷惑はかけない」など
人と人とのつながりを大切にする社会へ脱皮する機会でもあるわけです。
2005年からこのブログを続けていますが、日本人が忘れているアジア型社会の模範は ベトナムにあります。 彼らは 助け合い、周りの人々に思いやりをもち 生きているのです。 儒教を中心として大乗仏教の国という日本と同じ土壌をもっていいます。
「物質文明より精神文明へ」これがこれからのキーワードです。 人と人
人と自然との調和を大切にする
和の国だったのです
https://youtu.be/GwxEVBPDRhA お金や物にとらわれないその生き方
人との繋り
精神を大事にする文化
多くの外国人が感銘を受けました
https://youtu.be/Oqr0J5Z69lY 202(1): Maria 2017/08/07(月)12:41 ID:0(192/374) AAS
多くの欧米人がいろいろ観察をしているが、ほぼ全てに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。
だからこそアメリカ人のモースは、「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。
欧米では、裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、
この国では全くそうでないことに驚いたのである。
●イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドなどは、明治22年に東京で開かれたある講演で、日本についてこうまで言っている。
「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。…その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、
その神のようにやさしい性質はさらに美しく、
その魅力的な態度、その礼儀正しさは、
謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。
これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、
あらゆる他国より一段と高い位置に置くものである ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。
「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、
そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」 人と人との触れ合い
調和こそが
彼等の生き甲斐であり
人生の意味そのものだったのです 社畜的働き方
きつい労働 業務
複雑な人間関係
ストレス
金儲けの為だけの出社 パニック障害は従来「不安神経症」と呼ばれていたもので、
その特徴である発作(パニック発作)は、もともと「不安発作」と呼ばれていました。
このことからもわかるように、パニック障害は強烈な不安を伴っているところが最大の特徴です。
この不安は「このまま死ぬかもしれない」と感じられるようなものであることが多く、それがあまりに強烈であったために、
予期不安と呼ばれる「またいつ発作が起こるかわからない」という心配におびえ、
生活にもさまざまな支障を来たすようになります。
それにしても、なぜ「死ぬかもしれない」といった不安が、
わざわざ自分の内部から起こってくるのでしょうか。 「病というものは、何らかのメッセージを自分自身に伝えるべく内側から湧き起こってくるものである」、
あるいは「病は、その中核的な症状によって、自分自身をより自然で望ましい状態に導こうとしている」という見方で「うつ」について考察しましたが、
ここでもその考え方を用いてみましょう。すると奇妙なことに、
「死ぬかもしれない」と自分自身に思わせることにパニック障害の意味がある、という話になってしまいます。
パニック発作や予期不安は、特に地下鉄や急行・特急電車の中で出やすい傾向がありますが、
同じ乗り物でも、地上を走る各駅停車の電車やタクシーなどは比較的大丈夫なことが多いようです。
これは、地上なのか地下なのかによる「閉塞感」の違いや、「降りたい時にすぐに降りられるかどうか」
という点が重要なポイントになっていることを示唆しています。
ここからある大切なことが推測できるように思います。 つまり、その人はすでに心理的にいまの生き方に「閉塞感」を感じ、
「降りたい時に降りられない」レールの上を走っているような人生になってしまっているのではないか、ということです。
そうだとすれば、まさに同じような状況が物理的にもたらされた時に、
その人は心理的・物理的に二重に「閉塞」させられるわけで、
それに反発して発作が起こりやすいのも不思議はないと考えられるのです 物質文明(経済文明)では競争こそが美徳であり
学校や会社でも
他者を蹴落としてでも上にあがるのが偉いと考えられています
そして上に上がれなかった者は
落ちこぼれとされ
人生の落伍者のような烙印を押しつけられ
金銭的に貧しい生活を送るのです 問題は「現象世界」が表現されたものに過ぎないのに
それが「実在である」と思ってしまっている事です。
既に自己が無限であることを知らず、
「表現された世界」に過ぎない「現象世界」に
無限性を固定しようとして執着する。
科学や物質文明の発達は
この「執着」を増加させできたことは否定できません。
その執着が、世界の諸問題の根源ではあります。
もちろん精神文明だけでは足りない
でも本来物質的なこととは精神的なものの
後についてくるものの筈です
精神文明をベースに考えるべき 西洋文明は、物質文明を発達させてきました。
競争主義、効率主義、個人主義が、それに拍車をかけたことでしょう。
それは、見せかけの実在の大いなる功績ではあります。
しかし、そろそろ人類は
物質文明を、正しい「精神文明」の
統制下におく時期が来ているのではないでしょうか
物質文明としての西洋、精神文明としての東洋
この二つを内包する、
この「日本」という国が
その使命を担わなくてなならないのではないでしょうか。 空を風船がフワフワと飛んでいる光景を思い浮かべてみてください。
その風船は突然速度を上げて飛んで行ってしまいました。
さて何故でしょう?
我々日本人を含む東洋人の多くは、「風に吹かれて飛んで行った。」と答え、
欧米の人たちの多くは、「風船から空気が出たため飛んで行った。」と答えるそうです。
実はこれ、以前某テレビ番組で取り上げられた「東洋と西洋の文化の違い」を表す例です。
東洋人は、自分と周囲とのつながりや関係を見、行動は周囲からの影響が大きいと考える傾向が強いそうです。
一方西洋人は、対象となっている物(ここでは風船)それ自体が行動をコントロールすると考える傾向が強いそうです。
もちろんこれはあくまでも傾向の話なので、個人差はありますが 言い方を変えれば西洋人は利己的
東洋人は利他的ということです 利己的で他者との競争が得意な西洋人と
違い
利他的で他者との共存を望む
日本をはじめとした東洋人には
この物質文明が合わないんですよ
日本は精神文明をベースにすべき 君は善意で書いてるのかもしれないがこうも連投されると迷惑に思う人もいるだろうし少し控えてくれないか
1つ、2つくらいなら目を通してみようとも思えるけど20を超える連投はもはやただの埋め行為だ >>276
あなたは今の文明で
生き甲斐を見いだすことは出来ますか? コテつけてんだから透明にしとけ
糖質にネットで何言っても無駄 スレを圧迫する分パキシルよりタチが悪いかも
自分が悪いと思っていない所も含めて 今夜8:00にNHKEテレで放送される「あしたも晴れ!人生レシピ・選」(選ってことは再放送?)に
臨死体験者の鈴木秀子さんが出るんだって。 人の心を打ちたかったらまず君自信が救われること
本人が病んで余裕ないのにこんな出来合いの言葉連投したとろで人に響くわけないでしょう? 失恋でタナトが和らいだけど違う意味で同じくらい人生に絶望してきた
いいのやら悪いのやら 物質文明では犯罪がよく起こる
万引き 虐待 いじめ
人が人を殺す
私利私欲にまみれた金と物中心の
世の中だからだ いつの世も物質に恵まれ豊かな状況下では人の心は乱れ、他の人や生きている環境への配慮を忘れ慢心し、努力をしなくなり、
手軽に自己の都合だけで生きるようになります。
厳しい自然環境の中で生きるなら、大自然の掟を学んで自然にマナーも身につくのですが、現実はぬるま湯生活。
現代社会がもたらす物質文明の中で、豊かで便利な生活にすっかりと慣らされてしまっている私たちは、直接自分に影響する物質的なものごと、つまり贅沢や利便性のみに敏感になっています。
人よりも劣っているか優位にあるかが、大きな問題になるのです。待遇は気にするけど、仕事で得られる充実感には期待しないのです。成功した地位に憧れるのも、その地位とともに得られる物質的な豊かさが目的とも言えます。
苦労してこそ手にできる充実感や幸せを、知らない世代が増加しているのです。なに不足なく育っているので、
希望もなく、夢もなく、やる気もなく、努力なしで、目の前の快楽が得られればいいという感覚が身についてしまっています どこの家でも思わず一挙に捨てたくなるほど、家の中は使わないモノで溢れています。シンプルライフってどこの話しですか?と言いたくなります。
整理整頓出来る状態ではなく、バザーに出すために買っているようです。膨大な浪費です。
人は辛さを知って、人にやさしくなれます。気配りができるようになります。
豊か過ぎる物質文明の中で不自由なく成長した人々が作り出している社会の状態は、新聞の社会面を見ればよくおわかりでしょう。
わが子に対する信じがたい虐待行為の多発。平気で親を殺す。平気で結婚相手を殺す。
平気で教え子を凌辱する。金の為に人を殺し、万引きを注意すると親が出てきて金さえ払えばいいんだろという態度。人にぶつかっても挨拶もできない。
電車、バスなど、ところかまわず躾の悪い犬のようにモノを喰い、モノを投げ捨て、ゴミは散らかし放題、注意するとキレて殺す始末。この他、あきれるような事が日常化してきています。
過去半世紀、躾や作法の教育を忘れた社会は人を確実に野獣化させています。
モノが豊かな社会なのに、人の心は混迷を深めていくばかりです。お互いにやさしく気配りを持って支えあう心豊かな社会を実現させるために、日本伝統の素晴らしい躾や作法の教育が今こそ必要です。 だからスレ違いだって
とりあえず自然主義になりたいならネット感興断てよ 死ぬのが怖いなら
一生ビクビクしてなよ
ヘタレ共が タナトの怖さというのはビクビクする怖さじゃない
物が豊かだの、誰が誰を殺しただの、死んで無になることの前には何の価値もない 毎日お題目あげていれば自然に活気、エネルギーに満ち溢れて死の恐怖なんて無くなっていくよ
騙されたと思ってやってみ
俺は学会員じゃないし一切活動とかやってないけど、毎日のお題目は欠かさない
時間が無い時も三唱は必ずやる
毎朝東に向かって唱えるといいよ
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経
君たちの人生が上手く行きますように... 私は学会員です
南無妙法蓮華経は生きてる間に幸せに
なりましょうというお経です
元々はお釈迦様の法です もし宜しければ皆様も学会に入りましょう
私は学会入ってタナトがだいぶマシになりましたよ このMariaって奴分裂症か?
最初に現れた時と性格違ってんじゃん 恐怖症て程ではないかもしれないけどふとした時に
「自分もいずれ無になる、目を覚ますことがなくなる、自分の意識が途切れても世界は続いてくんだ」と考えてはゾッとする
数百、数千年後とかどんな世界になってるのか見てみたい気持ちがあるのに見れないこともなんか虚しい やっぱり創価学会って終わってんな
噂だけで決めつけたくはないが実際まともな人見たことないわ
結局自分さえ良ければどうでもいいってやつばっか 俺は入会して半年だけど、
学会の人の中でまともじゃない人は今のところ会ったことがないよ。
みんなに共通して言えるのが真面目で優しくて細かい気遣いが出来るってことかな。
入会前は偏見の塊みたいになってたけど実際入ってみるとネットで悪評流してる奴等が、いかに学会のこと解ってないことが解ったわ。 自分が無くなった状態を想像できない
タバコの燃えカスや潰した蚊の死骸が風と雨に流され無くなってしまってそこには何も残らない
それと同じにいずれなる
恐すぎる みんな無になるのが怖いみたあだね。
自分は全く逆で、よくスピリチュアルな人が口を揃えて
「自殺したら本来の寿命までずっと自縛霊みたいに死んだ所から離れられずにいる」
っていう方に恐怖を感じる。あと
「死んだ時の苦しみを味わい続ける」
っていうのも。
この世に絶望して死んだのに、死んでもこの世に束縛され続けるのかよと。
だからもう、無になりたい。
自分というこの恥ずかしい存在が消えてなくなってほしい >>304
タナトフォビアの俺からしたら本当に羨ましいよそう思えてるなら。
だったらはやく無になった方がいいよ しんどい思いしてまで生きるよりも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています