風景はどれもほんとうに美しい。それにあきてしまうことは決してあるまい。ぼくはそうした風景を、ただなんとなく、朝に、お昼頃、或いは夕方、ときには夜にさえながめる、するとぼくのからだが

ぼくを逃れて、まじりあってゆくのがかんじられるのだ。
ぼくのたましいは歓喜の中をおよぐ、広大な、はてしない歓喜、黄色い平原のひろがりである歓喜、それを
ふちどっているのが山々や、木々や、小川や、小石だらけの、川床や、歯の千切れたち小灌木や、穴や、影や雲や暑さにふくれあがった踊る大気。

全的な充実か全的な空虚かわからないが、それがどうしたというのか? ぼくの精神はそこにあり、岩の輪郭に、樹皮にぴったりと密着している。
精神はそれとともに生き、ぼくとともに生き、くつろいでいる、
精神は空間、立体感、色彩、腐食、におい、ざわめき、騒音である。
そしてそれ以上のものである。ぼくの生命と時をおなじくするものなのだ。