日本軍はルソン島やパナイ島、レイテ島などの島々を占領すると、すぐに各地で「慰安所」作りを始めました。
朝鮮人や台湾人、日本人女性を送り込んだだけでなく、未成年者も含めて、地元のフィリピン女性を無理やり慰安所に連行しました。
さらに各駐屯地の部隊がたびたび女性を拉致・監禁し、強かんを繰り返しました。
フィリピンを占領した第14軍に、強かん・略奪などが多かったことは陸軍中央でも問題にされたほどでした。
また米軍の再上陸が迫った戦争末期には、追い詰められた日本軍は「無人化作戦」を発令し、
「ゲリラ討伐」に名を借りた住民の大量虐殺をルソン島南部のリパ市などで引き起こしました。

1945年2月から3月にかけてのマニラ市街戦では、スペイン植民地時代からの古い街イントラムロスなどで10万人もの市民が犠牲になりました。
富裕層の居住地域だったエルミタ地区では、400人ものさまざまな国籍の女性たちが連行され、次々と強かんされた「ベイビューホテル・集団強かん事件」[1]が起きました。
戦後のマニラ裁判やBC級戦犯裁判、さらに東京裁判(極東国際軍事裁判)などの戦犯裁判では、連合国軍の捕虜に対する虐待も含めて、おびただしい戦争犯罪の証言や証拠が集められ、裁かれました。
しかし各地の慰安所に送りこまれたフィリピン人女性や連行されてきた朝鮮や台湾の女性たちが被害者であるケースについては裁かれていません。

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