叩かれまくりの>>126の持久線不徹底について言及すると
上陸前の那覇空襲で泊港の穀倉が炎上して2か月分相当の食糧が消失した。
しかも台湾沖航空戦大勝利、米空母19隻撃沈という 有名な大本営発表のせいで
戦果は遠のいたと判断した文民政府や地方自治体が避難勧告を出せなかった。
計画的に実施できたのは全国的に実施していた学童疎開のみ。
そのため4月1日の米軍嘉手納上陸時点で食料の奪い合い、防空壕代わりのガマの奪い合いははなっから解っていたのだし
その様になった。