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小畑が対ソ連予防戦争を主張した、という話は西園寺公望の秘書だった原田熊雄
の日記が出典ですよ。原田は小畑から直接聞いたわけではなく、永田の話をその
まま書いたに過ぎません。要するに伝聞です。実際、満州の防衛計画を見てみれ
ば、攻撃的な要素は無く、タンネンベルクの戦いのように、侵攻して来るソ連軍
を迎え撃つ作戦計画に過ぎません。日記の記述と実際の防衛計画が食い違ってい
ます。永田は元老重臣を統制派の味方に付けて、中国と戦争したかったという事
です。関東軍の数が、極東ソ連軍の数の三分の一を上回った事は一度もありませ
ん。関特演で最高に数が増えた時でもソ連軍の三分の一以下です。だいたい日本
が満洲を占領した時点で、大きくなる前に叩くも何も、すでにソ連軍は十分大き
すぎて、日本から攻撃を仕掛けられるような状態ではありませんでした。