【昭和陸軍】川田稔 愛読者スレ【永田鉄山】 [無断転載禁止]©2ch.net
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近著
『昭和陸軍の軌跡――永田鉄山の構想とその分岐』(中公新書)
『戦前日本の安全保障』(講談社現代新書)
『昭和陸軍全史 1〜3』(講談社現代新書)
『石原莞爾の世界戦略構想』(祥伝社新書) 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立
歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として
与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の
土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の
蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点
確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の
形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
09/21 17:15 更新
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html これまでは 土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後 宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。 >>38 >>39 >>40
スレッドと関係ない話するな 川田さんの本を読むと、ドイツ側の事情も研究したくなりますね
ドイツの先走りや世界戦略構想のズレがその後に与えた影響は大きいのでは、と 【再稼働】子供は癌センターへ≪山本太郎、憤慨≫若者は戦場へ【戦争法】
マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。
彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。
福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、彼らは幻想の中に生きています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。
汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。
問題は、日本政府が、日本の原子力産業と連携して、
日本の原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。
【新時代リーダー】山本太郎、三宅洋平、窪塚洋介【ゲスヨク撲滅】
日本国民はどう対処すればいいのか。
抑制のない成長に基づく現在の経済政策は終焉を見るでしょう。
新しい政権は民意を反映し、食糧、住宅、健康、教育、
そして最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。 永田が生きていれば・・・ってよく聞くけども
逆に永田が生まれていなければどうなったのだろうと最近おもう 永田が生きていてもガチ北シナの資源確保に走るだろう 永田鉄山なんかより、田中義一の失脚の方が日本にとっては重大だった。彼は
政府と軍をまとめて指導出来る最後の人物だった。 本庄繁の日記を読んだ人いますか?
林が永田を外国に飛ばすつもりでったって書いてるそうですけど本当? 『柳田国男』(ちくま新書) 1,600円+税
軍事関連ではないですが、川田さんの最新本が出たので掲げておきます >>50
本庄繁の日記は読んでいないが
他のその文献を参考にした書籍で悪いが
林が永田にしきりに、外遊を進めていたのは事実のようだよ 初歩的な質問で申し訳ないけど
永田亡き後の一夕会(統制派)領袖って誰になるの? 一夕会=統制派ではない。この会に居た連中が皇道派統制派に分かれて雲散霧消した。 永田が出世していた頃には同床異夢で既にバラバラ。
しかして、強いて言えば武藤章かな。 戦略面で永田と小畑敏四郎との間で、対立したが原因と色々な関係者が証言しているね。
この二人の仲を保っていた、岡村寧次が近くにいなかったのが、人事上の間違えだった。 武藤率いる軍務局と田中率いる作戦部ですれ違いがあったんだよね
バーデン=バーデンの3人は個人的な仲な想いについてよく触れられるけど
この2人はどうだったのかな?性格が合わなかったりしたんだろうか >>58
武藤、田中、富永と・・・永田、小畑、岡村と似たようなもんさ。
偉くなれば喧嘩別れ。完了出世の物語を繰り返しただけ。 >>58
川田稔の著書では、武藤は永田の影響があり、田中は石原莞爾の影響があると記載している。
結局のところ、軍政面から見た立場と軍令面から見た立場の違いによるものですね。(>>59の言われる通りもあるでしょうが) 武藤と田中の仲は、武藤軍務局長回想録に収められた同期の柳勇中将や日米交渉でお馴染み石井秋穂大佐の手記などで伺い知る事が出来る
数ある話の中でも、柳と武藤が、大学生相手に喧嘩を始めた泥酔状態の田中を必死で押し止めて代わりに謝罪したというエピソードなんかは実に微笑ましい
まぁ田中はこんな性格だから、ガ島の例の件で佐藤賢了ぶん殴ったり東條を面罵したのも、演技じゃなくて本気だったのだろうな "つかさ会談"の陸軍省軍務局5人衆(武藤、真田、佐藤、西浦、石井)の中でも特に90代後半まで長生きした石井大佐の証言は、日米開戦直前の陸軍省軍務局と参謀本部の関係を表す貴重な記録としてしばしば引用される
勿論陸軍全史3にも度々出てくる
殴り合い寸前まで発展する"巨頭"会談は、1941年武藤(陸軍省)と田中(参本)の険悪さを示す石井手記の有名な一説だが、だからと言って、武藤と田中は個人的に憎しみあっていた訳では無かったらしい
石井の終戦後の東京裁判に関する回想で、二宮義清からの伝聞として田中が「武藤は気の毒だ、武藤は気の毒だ」と言っていたという話がある
また、先述の柳中将もシベリアから帰還した後、田中と対面して「武藤は日本民族の犠牲になったのだ」との言葉を直接聞いている
何より、田中本人が、自身の回想(大戦突入の真相)の中で「(作戦部長更迭後1943年3月)スマトラに居た武藤に今生の別れを告げに行った」と書いている ただ、女性目線と徹底した御家族への取材などで武藤のパーソナルな部分に迫った澤地久枝の「暗い暦」によれば、
「武藤は両田中にやられたというひそひそ話」「武藤を陥れたのは田中隆吉ではなく"田中ちがいだ"という説」の根拠として、次のような史料が提示されている
ウエッブ裁判長
「もし陸軍省が、参謀本部によって要求された所の人員、資材或いはその他のものを、供給することを拒絶したら、どういうことになるか」
田中新一検察側証人
「拒絶をしたならば、参謀本部の考えておる作戦計画は成り立たないのでありますから、陸軍省が保障する所の人員や、作戦資材の範囲内で、何とかやってゆくというほかありません」
結局東京裁判の結果、開戦時の陸軍省首脳東條-木村-武藤-佐藤ラインに罪を押し付けて統帥部は裁きを免れる
戦争指導班の機密戦争日誌などの史料がこの裁判の間に日の目を見ていれば、或いは東京裁判の結末や意義も多少はましな物であったかもしれない 石井や柳が記す戦後の田中の姿と、澤地の考える田中像は随分違うようだ
もっとも、杉山総長が自決し塚田次長は中支で戦死、田辺次長は南方で処刑、岡本第2部長はスイスで自決している中で、
東京裁判において"名誉ある"A級として訴追された陸軍省東條木村武藤佐藤に匹敵する参本側の開戦時高官は田中第1部長しか居なかった訳で…
田中としては、武藤との個人的友情よりも優先して、参謀本部の有力な生き残りとして組織の面子をかけて、部下同僚の為に行動せざるを得なかったのかもしれない
背負っている"モノ"の重さという観点で、新一と隆吉は分けて考えるべきだろう 武藤の巣鴨手記は特に比島14方面軍参謀長時代、東京裁判時代に関して細かく書かれているが、そこに新一に関する記述は存在しない
隆吉については笹川良一に「取り憑いて狂い死にさせてやる」と言う程憎んでいたようだが、
かつての同期、事変拡大時の盟友、そして立場を入れ換えて日米交渉時にはライバルとして火花を散らし合い、
開戦後は互いに中央を離れてスマトラで再会し、戦争と祖国の将来を語り合ったであろう新一に対して、被告席の武藤は何を思い何を感じていたのだろうか 3巻よむのがつらいなら昭和陸軍の軌跡1冊でいいんじゃない 昨日、書店で新書版がでていたので3巻買って一気読みしてしまった・・・ >>70
すごく資料にあたっている。恐ろしいほど。
そして人間が若い頃に叩き込まれた教育や指導から逃れられないという事実。
自由で柔軟な発想と行動は凡人にはできないという真理。 >>71
なるほど。
確かに、若い時の教育による、ある種の洗脳のうなことは、強烈ですからね。 >>72
一夕会の総力戦に対する妄念の強さが恐ろしいほどなのです。 一夕会が上層部は無能とかほざいて下剋上行為に及んだのって井口省吾の影響もあるのか?
こいつ左遷先の陸大で自分に都合のいいことを吹聴してたらしいですね。
機密日露戦戦史はその影響とか >>73
総力戦に関しては、一夕会という団体というより、永田鉄山の思想が横死後に、本人の思惑とは違うように解釈されて、進めれたようですよ。
>>74
それも影響があると推測できますね。
井口省吾は陸大同期で親友の東條英教(東條英機の父)と一緒に、長州閥による人事の弊害を批判して、長州閥の頭領の山縣有朋に睨まれて、共に左遷しているので。
陸大校長を約六年もしていたので。 井口が左遷されたのは実力相応の扱いだろ
実戦で軍才絶無と判明したから干された。本人はそれを認めず長州閥がどうのこうのと喚きだした
東條英教と息子は井口を真に受けちゃったみたい 永田鉄山が暗殺されなきゃ一夕会の認識も違った方向に行けたんだろうなあ。 永田が死んだの一夕会が崩壊した後だろ
陸パンで表明された永田の方針はその後も継承されてる あ、いや生きてりゃ潰れた一夕会のイメージも変わったのかな、と。
英米との衝突望んでたわけじゃないし。 >>74
確かに機密日露戦争史はその影響だと思う。
ただ川田氏の本を読む限りでは一夕会は「反宇垣(反長州)」ではあるが
井口省吾との関連は指摘されていないようだ。 >>75
>総力戦に関しては、一夕会という団体というより、永田鉄山の思想が横死後に、本人の思惑とは違うように解釈されて、進めれたようですよ。
いろいとな解釈はあると思うが、川田氏の解釈は総力戦思想が継承されたということだね。 >>81
産んだのは総力戦体制の構築と言うレトリックによる夜下克上システムだけのような気がするが? >>82
それだけだと川田氏のもう一つのテーマであるなぜ対米開戦なのか?
というのが説明できない。下克上の結果なぜ対米開戦になったのか、
それが総力戦思想の行き着いた先というのが昭和陸軍全史の
内容。 >>83
説明できるでしょ。無責任に戦火を広げることと対米不戦が成り立つと考えていた。
正しくは、政治も外交も考えていないまま日本を各々が引きずったわけだ。
操り人形の首相がいれば新東亜秩序が思い通りになると。相手があるのに。。。 >>84
いや、川田氏によれば対米不戦が成り立つとは考えていなかったんだよ。
総力戦体制構築のためなら対米戦もアリ。
というのが一夕会末裔の考え方。 総力戦体制なんて、一夕会だろうが統制派だろうが皇道派だろうが創れないよ。
この連中は長州閥憎しで出てきたが、結局、明治憲法体制では内閣を尊重して
協調していく山県有朋のやり方が正しい。実際、東条英機が首相と陸相と参謀
総長を兼ねても総力戦体制なんか出来なかった。 山縣有朋は、陸大出身者を陸軍省に入れなかったことを、永田鉄山がよく思っていたと、どの書籍忘れてしまったのだが。 >>86
そりゃあ総力戦体制なんて妄想というか幻想だよ。
たが当時の軍人はWW1を研究して、次の世界大戦も総力戦になる、と
判断して突っ走ってしまった。またそれを抑える政治家も居なかった。 >>89
永田と小畑は考えが違いすぎる
間を取りまとめている 岡村寧次が調整役でいないと
追伸・なんだか かつての自民党のYKKトリオに似ている >>90
同床異夢だよ。それぞれが要職に就くと組織利益を優先して仲違い。
武藤と田中新も同じケース。
宇垣系が陸軍を握っていたほうが統制が取れてよかったよな。 >>91
しかし宇垣系も、畑英太郎が死んだあたりで弾切れだろ。
軍政経験のない南次郎を陸軍大臣に据えるとか。
杉山元、小磯国昭では、その後を見ても、とうてい宇垣の後釜はつとまらない。 育てることができなかったのではなく、後継者にするつもりだった
津野一輔や畑英太郎が早死にしてしまったと、日記で嘆いているじゃん。 宇垣軍縮なんて馬鹿な事やったヤツに付いていく人間なんか居ない。 たしかに宇垣はやりすぎた。政治に野心があったとも言われるが・・・・ 宇垣軍縮の時に、学校教練制度を政策立案したのが永田だったね。
杉森久英の「夕陽将軍」で、石原莞爾が宇垣軍縮で知り合いの軍人が人員整理されたことを恨んでいて。
そのことなども踏まえて、宇垣内閣を阻止したとなっているね。(理性より感情が走ったのだろうね) 軍縮といったって、日露戦争で陸士16期以降の生徒を大量採用しすぎたせいでしょ。
欧米の軍隊みたいに一般大学に通う高学歴者を、戦時には初級士官にするシステムだったら、
日露戦争後の復員で数を大幅に減らせたはず。
太平洋戦争中の海軍兵学校の大量採用にしても、日本の軍隊は兵科士官を軍学校卒業者で埋める
ことにこだわりすぎ。
海軍なんて、もし海軍が廃止されていなかったら、戦争中に大量採用した連中をどうする
つもりだったんだろう? 陸士を減らしたら減らしたで中国との戦争の大動員で大パニック
陸軍は兵科士官がたりなくて輜重出身でも連隊長にしている。
海軍は天下り先があるんだろうね。 陸士を卒業しても輜重科の将校になるのはいるよ。
陸軍次官になった柴山兼四郎は輜重兵科。 列強は、第一次世界大戦で将校の損害と補充に悩まされた、10万人に制限された
ドイツ軍は将校の比率を極限まで増やして備えた、米英は士官学校以外に一般大
学に予備将校課程を設けて備えた。日本軍は参戦して無いから深刻に考えずバカ
な軍縮ブームに形だけ乗っかり、致命的な軍縮を何回もやった。現役将校と士官
学校の定員削減で日本軍を本当に弱体化させた。その結果、第二次大戦で将校の
損耗で補充がつかなくなり、25歳の艦長や24歳の大隊長が誕生した。その人達の
個人の武勇や指揮を否定はしないが、25歳や24歳が艦長大隊長やるようじゃ戦争
に勝てるワケがない。 >>99
一般中学(旧制)出身者が多い、19期が一番多かったのでは?(今村均大将がいる)
海軍は、大量に採用しても、その後のことなど考えていないよ。(そこまで考えていたら、無謀な戦争など始めない) 戦中の大量採用は陸も同じじゃね?
仮に戦争が終わって陸海軍が解体されなかったとしても大量の予備役送りが出たのは
陸海ともに同じだろう。 若手ではあるが、森靖夫氏の『永田鉄山』(ミネルヴァ)という本はよくできているとおもった
鉄山研究の奥深さをかんじられる 永田鉄山なんて小物の役人、語るべき何モノも無い。それなら田中義一の方が大物だろう(笑) >>108
そう思う根拠はなんですか?
>>109
梅津も優秀だが、人望にかけているところがあるような。 >>110
田中義一は山縣有朋の正当な後継者で、軍部と政府をジョイント出来た最後の人物。永田鉄山
だの梅津美治郎、東条英機といった官僚とは次元の違う人物なの。 張作霖爆殺事件の処理で昭和帝に叱責され内閣総辞職して退場した人。
長州閥の最後であり、なんとも不甲斐ない話にしか見えん。
>田中義一
肝心なところで退場してるから評価ねえ・・・・・ >>110
人望っていっても当時の陸軍の人望って補職と予算分捕りだけどね >>114
確かに、陸軍という組織が肥大化して、補職と予算の奪い合いですからね。
そういう意味では、宇垣一成が行った、宇垣軍縮以上の組織の構造改革が必要があったのではないですかね。 >>115
宇垣軍縮の必要性は理解しているけど、4個師団削減は恨みを買ってしまい、
反宇垣派を形成させることになってしまい後の一夕会などの派閥が作られ
それが派閥抗争にまでなってしまったのはなんともいえないものがある。 >>112
>>113
世間の評価はそうなんだろうが、これは意図的なものだ。田中失脚は、昭和天皇最大の失敗で
第2次大戦敗北の最大原因のひとつは、政府軍部のジョイントが切れ国家意思の形成が不可能
になった事だが、そのキッカケは田中退陣だ。昭和天皇へウソの報告をして退陣という話は、天皇
の失敗を隠すには都合がいい、それで田中義一を矮小化して罪を着せたのだろう。張作霖爆殺の
詳細が判明してくると、犯人と名乗り出た河本大作が事件現場に居なかった事は明らかで、田中の
報告が変わるのは当然で昭和天皇を騙そうとしたわけではない。報告で激怒したという昭和天皇は
政治的に未熟だったというべきだ。 >>117
まぁ結果論だな。田中が大物であるのは認めるがいずれ下克上でやられると思う。 天皇に叱られたショックで死んじゃったみたいな風潮あるけど
あそこで失脚してなかったら体調も悪くならなかったのかな 田中義一、宇垣系が引き続き権力を持っていた方が
日本のためには良かったのかねえ。
統制派や皇道派など出て来てから、陸軍と政府のズレは大きくなったし。 >>123 田中義一、宇垣系が
と言うより、統制派皇道派は陸軍内部だけの派閥に過ぎない。山県有朋の長州閥は陸軍省参謀本部
だけでなく、内務省・宮内省・貴族院の勅選議員・枢密院にまたがって存在したから、コントロール出来
る範囲が全く違う。山縣は、政党と大正デモクラシーを軽蔑してたから、衆院には手を出してなかった。
山縣亡き後、派閥の求心力低下を補うために、田中は軍人を辞めて政友会の総裁になった。手土産
は在郷軍人の票と陸軍機密費だった。翻って永田鉄山やら東条英機、統制派皇道派なんぞには日本
全体を動かす組織もそれを作る器量も無い。彼らは単なる役人に過ぎず、いくら論じても日本を救えた
可能性は全く無く、田中義一と比べるような人物達ではない。 しかし陸軍機密費問題がこじれて、宇垣は田中に愛想を尽かして、
逆に上原と和解したからな。
簡単に田中から宇垣系へはつながらない。 >>125
宇垣は田中義一より政治的に無能。田中から離れて合法的に首相になる道を閉ざされ、陸軍にクーデターを期待
して3月事件をケシかけて増長させた。いざ自分が首相になろうとした時に、その陸軍に邪魔される事になった。 武藤や田中が左遷されず(42年中に)東条下ろしが成功していたらどうなったのかな?
岡田啓介あたりを推す目論見だったと「軌跡」に書いてあったけど
それとガタルカナルの早期撤退も 東条首相交代が早まったところで
戦時中に3回首相が交代してる日本で何が変わったのやら? 東條のダメなところは、政治家ではなく官僚だというところ。ヒトラーが、長いナイフの夜で粛清した
突撃隊は、総員350万人で50万人が武装していたのに、国防軍は10万人しか居なかった。東條は
200万人の陸軍が怖くて、開戦を回避することも出来なかった。 > 200万人の陸軍が怖くて、開戦を回避することも出来なかった。
川田さんの本を読むとわかるが対米開戦は規定路線 >>135
既定路線をひっくり返せるのが政治家だよ。 >>136
当時の政治家は軍部に乗っかってしまったよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています