>>106
『川上久国泗川御陣記』に唐船は小舟で役に立ちそうにないとあり、
露梁の敗因は敵船が大船だったからであって、故に明軍ではなく
大船であるところの朝鮮水軍によって負けた、という主張のようだけれど、
日朝共に大中小それぞれ取りそろえているのに、明水軍だけが
小舟だけなどと言うことはあり得ないでしょ。

実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。

そもそも『川上久国泗川御陣記』にある「唐船」が明船を指しているのかは
疑問のあるところで、当時は唐=明では必ずしもなく、唐が朝鮮を指したり、
明・朝鮮を区別していないという用例も多い。『川上久国泗川御陣記』も
陸戦に関しては「漢南人」と記しているのに海戦では「唐船」となっているので、
これは明朝の区別ではなく、板屋船相当の大型船=高麗船、挟船・鮑作船相当の
中・小型=唐船としている可能性も否定できないと思う。

それから、裏付けを要求してるけど、やはり『宇都宮高麗帰陣物語』に
南海城で収容した四,五十人の島津兵からの聞き取りとして、
「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
ここでは「唐人」と記述)は階下に閉じ籠もったので焦れている内に
朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
数の上からも当然だけれど、露梁海戦は朝鮮水軍ではなくあくまで
北の明水軍が主力であって、その北からの圧力で島津本隊他の諸将は
海峡を突破することなく引き返し、海峡を突破して孤立した島津の
前衛は船を捨てて南側の南海島に逃げ込んだというのが実相でしょ。

また、前述の唐船の大きさに関しても、この「唐人船」は決して
小舟ではなく、板屋船の甲板上の島津兵を射殺せるだけの高さが
ある船だったという証左でもあるな。