秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11 [無断転載禁止]©2ch.net
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倭寇阿只抜都の正体は南朝勢力だったらしいね。
九州の南朝勢力は高麗に兵糧を奪いにたびたび遠征してたらしい。
1419年に望海堝まで遠征した倭寇の正体ももしかしたら後南朝勢だったかもね。 このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11
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書き込んだ場合、荒らし行為と見做されます。 「泗川新寨戦捷之偉蹟」の著者(編者)は東郷中将(東郷元帥の甥)なんですね 韓国の反日映像作品「野蛮な日本人の姿」拡散ツールに
http://www.news-postseven.com/archives/20160302_384283.html
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160302-00000002-pseven-kr
歴史物では、豊臣秀吉の朝鮮出兵を題材とした作品も根強い人気を誇る。昨年2
月から8月まで放送されたKBSドラマ『懲録(チンビロウ)』では、文禄・慶長
の役をテーマに日本軍の“狂気”と“蛮行”があらゆる場面で描かれた。
たとえば豊臣政権の武将、宇喜多秀家率いる軍が落とした漢陽(現・ソウル)
では、「1593年9月24日、漢陽に駐屯していた日本軍は朝鮮の良民を大虐殺する蛮
行を犯す」というナレーションのもと、朝鮮の人々を手当たり次第に虐殺するシ
ーンが登場。
一方、平壌城を巡る日本軍と朝鮮軍の攻防戦では、「日本側の大敗」といった
史実と異なるストーリーも盛り込まれた。韓国の人々はしばしば、秀吉の朝鮮出
兵を日本の“連戦連敗”と主張し「李舜臣の日本水軍撃退」や「勇猛な朝鮮人義
兵による迎撃」で日本が敗走したというが、真実はどうか。ちなみに、中国の正
史『明史・朝鮮伝』は「十万の将兵と百万の兵糧を喪失した明と属国の朝鮮に勝
算はなく、秀吉の死により戦乱が終結した」と総括している。
秀吉の朝鮮出兵がテーマのドラマは今年も放送される。現在、制作が進められ
ているのは韓国KBSと中国CCTVの合作による『三国大戦 壬申倭乱1592』だ。キャ
ストには韓国の人気若手俳優と女性アイドルを配し、韓流ブームに沸く中国の若
者を抗日歴史ドラマに取り込もうという意図が読み取れる。 >>20
だから、家康を渡海させとけばよかったんだよ このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11
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書き込んだ場合、荒らし行為と見做されます。 露梁の戦いの戦術的な勝者が明朝鮮連合軍であることは皆認めてるよな は?明軍の副司令官のケ子龍が戦死し、朝鮮軍の総司令官の李舜臣も戦死
もし明軍が明確に勝ったのなら島津義弘を打ち取った等とでっち上げる必要はなかろう
言えるのは戦いの中で島津勢が苦戦したことだけ
例えば「泗川御在陣記」によれば立花宗茂が朝鮮船六十隻を捕獲したと言うのもある シツコイぞ!
前スレも11、ここも11じゃ重複だろうが。
ここは書き込み禁止だ!! 勝った戦いの戦果をさらに誇張することは当時は普通やろ
さらに明皇帝への戦果報告だからそれはもう盛り盛りよ
(さんざん戦費つかって長年戦って打ち取れた敵将は小大名一人だけなんて言えませン。) 司令官の戦死はネルソンの例があるからなんとも
主力の島津が苦戦すなわち日本の苦戦だし 撤退する日本軍の補足に失敗してるから戦術的敗北だろう 痛み分けやね。勝利条件を変えることでどちらも勝利を歌える程度の >>前スレ999
島津は陸戦組だからね。順天救援の諸将は皆そうだから、
乗り込んでいた船も荷船転用の急造水軍だったものと思われ、
当然、矢倉・楯板などの装甲も無いか限られてたでしょう。 でも船には通常は焙烙玉を用意してないか?
いつ敵の船に襲われるかわからないんだし。
このあたりの情報がないからわからないけど。
露梁海戦 今年放送された全5話の低予算ドラマ。李舜臣が撃たれて終劇。
https://www.youtube.com/watch?v=evZfipqI-tk 露梁海戦の参加兵力は、「朝鮮征伐記」では明船五六百隻、朝鮮船百隻とある
つまり朝鮮船六十隻を捕獲とは、指揮官を失った朝鮮軍がほとんど失われたってことだろう 立花の話は一度改易されて記録が散逸しているから、誇張が甚だしい 立花の話は島津家臣の川上久国の「泗川御在陣記」によるものですよ 立花宗茂は自分の武功については黙して語らずだったからな >>45
そうでしたか、失礼
ただし大きさが「廿四五端帆」とありますが、「24か25反帆」だと二千五百石積み級の大安宅クラスになり、
正直、それだけの船を60艘捕獲したとは考え難いかと 常識的に考えると最終的には敗走する中で大規模な拿捕なんてできないのでその考えは当たりかと
李統制に関しては多数でありながら自ら重傷を負う泗川の海戦を見ても自らを戦闘部隊に組み込む指揮官なのだろう
対して島津方は義弘や川上久国は後方支援部隊であることが記述されておりその部隊が攻め込まれている
では島津方の戦闘部隊はと言うと後の琉球攻めの総大将である樺山が敵攻撃により船を喪失する
乗船攻撃が不調に終わったな大規模な被害を与えられない
そこまで期待するのは火縄の可能性を過大に見ているのではないか 史料によるとこれらの戦いの後彼方の敵船が戦闘部隊の樺山の逃げ込んだ南海島で軍事行動したのは間違いないようだ
これらの状況を見るに竹島を日本領土と考える日本人として贔屓目に見ても全滅敗走なのではないかと推察するしかないが 拿捕と言うのは船を運んで行かねばならない
エンジンもついていないのにどのように運ぶかと言うと此方の船員を割いて漕がせるのだ
漕ぎ手を増やすと言う事は戦力は減ると言う事になるので撤退側が大規模で行うことはない 玉浦海戦
唐浦海戦
栗浦海戦
閑山島海戦
安骨浦海戦
鳴梁海戦
露梁海戦
に勝利した東洋のネルソンこと李舜臣 竹島は日本の領土です
尖閣諸島は日本の領土です
反論があるなら理屈でない議論が楽しめない このスレは重複スレです。
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書き込んだ場合、荒らし行為と見做されます。 亀井、小川、寺沢とかあんまり水軍のイメージない、なんで選ばれたんだろ 露梁海戦は日本勝利と言う前提で理論を組み立てるが整合性がないんだよな 泗川の戦いで過大なまでの戦勝表現してるのにその落差から察しろよ 泗川の戦いで過大なまでの戦勝表現してるのにその落差から察しろよ このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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書き込んだ場合、荒らし行為と見做されます。 マッチロック式のマスケットで敵船団に壊滅的被害を与えるというアクロバティックなことができたとしても
李の座乗船に同乗したメンバーがかなり生存している事についてはどう説明つけるのか聞きたい 明朝鮮の指揮官クラスが軒並み皆殺しにされてるという結果が全部物語ってるだろ。 これが=にできないから問題
指揮官が死んでるってことはその軍も壊滅的って論なんだが
同乗メンバーが多く生存しているとこの論は成り立たないので
じゃあ指揮官だけを狙って撃った可能性はどうかと思ってその裏付けの史料を探したんだが
実際にその史料があったのでマッチロック式のマスケットではその程度だよなと納得した 当時だと指揮官クラスが壊滅したら戦闘継続できない=負け。
物理的な意味で全滅・全滅ってよっぽどのことがないとないってだけだろ。
陸戦でも大将首取られて負けた軍が必ず壊滅してるかと言ったらそんなわけはない。 戦闘継続ができなくなってる史料があればそれが成り立つな
しかしそうなると淵辺真元高麗軍覚えの
維新公の難儀を御供の衆命を捨てて漸く其の場をお引き取りになったという表現はおかしいな
戦闘継続できない軍隊から何でこんな撤退の仕方をするのか説明がいる 幕僚が壊滅して戦闘継続可能だと思ってるならもう知らん。 あと喜入や樺山たちが続戦能力のない相手方になんで押し込まれて南海倭城のほうに逃げなきゃいけなかったのか
というより相手は十分戦えましたって考えた方が矛盾ないでしょ 島津の豊後侵攻時の敦賀城攻めで城主の利光宗魚は戦死したけど敦賀城は島津軍に大打撃与えて撃退してるからな
指揮官死亡=軍の瓦解ではない まあそうなっちゃうんだよな
どうしたって腑に落ちるほうに結論が出る
因みに今回の史料読むまで逆の立場の主張してたよ
なぜなら朝鮮征伐記では露梁海戦で日本が勝ってるから
だけど今回出されたものに比べると朝鮮征伐記はちょっとアレなんだよな 攻囲した小西は逃してるし
救援に来た島津も撤退している
そら囲みを解いて終始矢面に立ってたのだから損害も大きかったろう
でもこれ明朝鮮軍は戦術目的を達成したとは到底言えない結果だよ 小西隊が、戦闘に参加すればよかったんだ。背後から攻撃を仕掛ければ陳リンの首を獲れてたかもしれない。
それから、先鋒の島津はでかいダメージを喰らったけど立花や他の隊の損害はでかくなかったんだろう? 朝鮮征伐での捕虜に
イスラム系の武将はいなかったのかな?
当時の明軍にはイスラム系の将兵は少なくなかったようだけど このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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よっこらしょ。
∧_∧ ミ _ ドスッ
( )┌─┴┴─┐
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:/o /´ .└─┬┬─┘
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ありがとうございました
もう書き込まないでください >>70
その辺りは朝鮮軍と明軍を分けて戦況を考える必要があるんだろうと思う。
樺島らは朝鮮軍を追い散らしてるところに明軍に横矢をかけられる形で
島津本隊と分断されて孤立したので、船を捨てて上陸したんだろうと
解釈してるわ。 >>69
俺は意見翻しても全然かまわないよ
ただ疑問に矛盾ないように答えてくれたらいい 戦闘を評価するにあたって最も重要なことは目的を達したかどうか。
島津等の目的は順天の小西等の救出だった。
そして戦闘の結果、小西等の救出に成功し、目的は完全に達せられたという事実。
この事実は全く動かないものであり露梁海戦は実質的に日本側の勝利とみることができる。 戦争自体は日本の負けだろ?
好きなだけ暴れられて飽きたら帰られた明・朝鮮側が恥ずかしくて勝ったとか自慢できないだけで。 アレで日本の勝利だというのなら、日本=倭寇だよw
海賊も同然 >>80
その理屈に従えば目的を達成できなかった日本は、明・朝鮮に敗北したことになる 結局、この戦争に勝敗はない
秀吉の死という戦争とは無関係な要因で終了したノーゲーム 野球に例えるなら雨天でノーゲームになった試合のようなもの。
ただ途中経過をみるなら明らかに日本側が圧倒しているのも事実。 >>86
で、日本は半島を撤退した後、400年近くカムバックできなかったわけで
その400年の間に、日本は豊臣、徳川が滅び、中国は明が滅亡した。
というわけで、400年間健在の李氏朝鮮の大勝利!\<`∀´>/ >>87
パクられておいてスマンが・・・
300年近くの間違いだった^^; >>87
新井白石
「日本が和を結んでやったことで朝鮮は国を再造することができた」
「この再造の恩を忘れるな」 >>87
朝廷「徳川は国家元首じゃねーから。殺すぞ弱小国」 中国の軍隊って、補給不足とか、後背の集積地を攻められ兵糧が枯渇って事例が、やたら多いんだよな。
古代〜中世の戦争なんて、戦場の霧と摩擦で、ナポレオン軍みたいに複雑な運用は出来ないんだから、勝つために大量動員するのは理解できる。
何せ紀元前にもなる秦の始皇帝の時代から、何十万人と動員しており、三国志の曹操は最盛期で100万人の兵士を動員できた。
けどその動員兵力を、食わせていく努力が足りないのは理解できない。 陸を支配していない水軍は活動がきわめて制限される時代性がある。
水軍の長距離侵攻は無理。攻撃圏だけ考えても李舜臣が失敗した釜山侵攻が距離的限界では?
衣食住が揃っている近代船舶と違って当時の水軍は頻繁にオカに上がる必要があった。
食事、給水、睡眠、打合せ、その他補給など。 南原城の戦いの明朝側の兵力ってどれくらいだったのだろうか?
日本語wikipediaだと 明軍3,000 朝鮮軍1,000
朝鮮語wikipediaだと 軍民7000人 全裸病魔群(※翻訳おかしい)5000人 明軍3000人 総兵力1万1000人
英語版wikipediaだと Korea: 7,000 men,5,000+ civilians,Ming:3,000 men
どれもソースがわからない 征明朝鮮役に限った事ではないと思うけど、
当時の日本みたいに、普段は外国との戦争が無い国は、
朝鮮、明兵との戦い方や相手の装備などについて雑兵・武将にいたるまで全く知識が無かったと思いますが、
戦役に入る前に日本側全体として、何らかの打ち合わせをしたんでしょうか?
日本側は初戦から 朝鮮兵相手には鎧袖一触だった所を見ると(殆ど苦戦してないですよね?)、
とても初めての相手と戦ったとは思えないのですが。
逆に明兵に関しては情報が少なくて、対抗戦術が確立出来ずに、
平壌以後押し込まれたような感じもしますが、どうでしょうか どうも朝鮮水軍は日本水軍を質で圧倒していたらしい。
>日本軍は、その優秀な装備(多数の銃、槍、弓矢)を頼み、わずかの船しか持たぬ朝鮮の海賊を求めて出撃した。
>
>かねて朝鮮人らは日本の船舶を血眼で探していたので、彼ら(日本軍)に遭遇すると大声をあげ、喜んで船を率いて
>日本の艦隊を襲撃した。朝鮮の船舶は堂々として頑丈にできていたので、日本人を威圧した。
>まず朝鮮人の方から、火薬鍋による攻撃があったが、これは日本人を散々にてこずらせ悩ませた
(中略)
>この海戦はかなり長く続行したが、日本軍はすでに意気消沈し、戦況はますます彼らにとって不利になっていった。
>この遭遇戦で虎之助側の一人の指揮官が戦死した。中略 他の指揮官も敗北し、万策尽きたと見るや、敵の手に陥るに先立って切腹した。
>この戦いで、朝鮮人は、日本艦隊の七十般を奪い、兵士の大部分を殺害した。日本の残余の艦隊は命からがら逃げのびた。
>
>他の多くの出来事については割愛するが、日本軍は海戦の知識に乏しく、敵を撃退するための火器が不足し、海上ではつねに不利な状況に立たされていた。
完訳・フロイス日本史5巻 中公文庫 海戦の敗因は大砲不足だね
>これに先だって李舜臣は亀甲船を創造していた。船の上を板で張りつめ、その形は穹窿状
>で亀に似ている。戦士や漕ぎ手はみな船内におり、左右前後には火砲を多く載せ、縦横に動
>き回ること機織の竣のようで、賊船に遭遇すれば、いっせいに大砲を放って、これを撃ち砕
>くものであった。このような亀甲船をはじめ諸船が一時に勢いを合わせて攻めたので、烟焔
>がみなぎり、賊船を焚焼すること数知れなかった。
>
>賊将は高さ数丈の楼船上におり、物見櫓を立て、紅や色とりどりの幔幕を、その外周に張
>りめぐらせていたが、この船もまた大砲で撃ち破られ、賊はことごとく水に陥って死んだ。
>その後、賊は連戦して、みな敗れ、ついに遁走して釜山・巨済に入り込んだままふたたび出
>てこなかった。
戦国水軍の興亡 宇田川武久 『懲録』より 朝鮮役の英語版wikiは長らく朝鮮人の電波炸裂の酷い有様だったが、少しずつ修正されてきてるな
蔚山城の日本の援軍8万人→1万3千人と正しい数字に変わってるし、
幸州山城の日本側戦死者1万5千人とか意味不明な数字に「要出典」が付きはじめた
釜山浦の戦いも日本軍の勝利とはっきり書かれてる
(他方、陸で義兵が日本兵3800人をぶっ殺したなどと電波な文章も多いがw) 宣祖は実は結構有能だったのでは?
バックグラウンドがないからピンチでも派閥のバランスを維持しないと行けないし、
独走しても臣下や宗主国の明に押し込められる危険性あったし。
それでいて恐怖にかってギリギリ亡命しなかったし。
ダメな環境でできる範囲で有能さを発揮したと思う。 キタ島卍の「秀吉の朝鮮侵略と民衆」斜め読みした
まあ、あちこちにデタラメ記述が多いこと多いこと
例えば鳴梁海戦記述
「高山公実録」の記述から朝鮮水軍が現地の地理に詳しく勝利したとか言ってるんだが
実際の「高山公実録」の記述は
朝鮮水軍のほうが現地の地理に詳しかったので
朝鮮水軍が逃げていくのを追撃することが困難だったって書いてるだけ
こんなインチキよくできたものだと読んでて呆れたわ 宣祖実録 36巻 1593年 3月 8日
薊遼兵7万
宣府兵3万
大同兵3万
苗蛮兵8万
天津留鎮軍6万
山西兵3万
陜西兵3万
浙江砲手7万
ちょっと明軍多すぎじゃない? 韓国の国民レベルの認識では、
朝鮮の役は、国王が逃げて明軍は略奪にいそしんでいる中
民衆が戦って、日本軍を追い出した
って事になっているね。
そこまで気骨のある国民性なら、何で数百年も李朝朝鮮の支配下にあったか
そっちの方が訪ねたいが >>95
対馬の宗氏は朝鮮の事など詳しいから
そこから知識を得ていたようだし
あと、中国やポルトガルなどの外国人商人から情報を得ていたと聞いているが
ただ、日本軍に対して無知だったのは、明軍や朝鮮軍も一緒だったようだな 日本人だってアメリカに解放されるまで天皇か武家に支配されてたわけだし
アジアの特徴 >>78
想像で補うってのは必要だし見てて楽しいけれど…、それ裏付けある?
川上久国泗川御陣記
唐船ハ小舟ニテ用二立ソフニモナク候
どの史料にも露梁海戦での敗因として敵が大船であったことが書いてある
船舶の知識で考えれば船が大きいほど水面から上に出た部分が増える為に高さが得られる
高さが得られれば有利に戦うことができるからこの部分よく納得できるんだが
もし明船の圧力に押され分断されたとすると明船は小さくて役に立たないと書いてあるのに
その役に立たない船に負けたと言う事だろうか 川上久国の雑録に立花船が屋根の上に兵を置き警戒をしていたのに対し
島津船はそうしていなかったことで戦果が上がらなかったことが書いてある
また
伊藤貞昌覚書
(樺山や喜入は)番船共取巻候て籠の内の鳥の如く難遁躰に候由
とも書いてある
警戒を怠り突出し潜んでいた船に囲まれ潰されたと考えた方が自然では? 伊藤の方は城に逃げた後の話なんだが結局のところ終始湾の支配をされ続けていることを示している
分断されたから船を捨てるってのはどう言う事かわからない
挟撃の機会を自ら放棄したってことだろうか
さらに明史も征韓録も劣勢の明水軍の救援に赴き李舜臣が死亡したと書いてある
どの史料を見てもその解釈と相反するがどう考えるか? >>106
『川上久国泗川御陣記』に唐船は小舟で役に立ちそうにないとあり、
露梁の敗因は敵船が大船だったからであって、故に明軍ではなく
大船であるところの朝鮮水軍によって負けた、という主張のようだけれど、
日朝共に大中小それぞれ取りそろえているのに、明水軍だけが
小舟だけなどと言うことはあり得ないでしょ。
実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
そもそも『川上久国泗川御陣記』にある「唐船」が明船を指しているのかは
疑問のあるところで、当時は唐=明では必ずしもなく、唐が朝鮮を指したり、
明・朝鮮を区別していないという用例も多い。『川上久国泗川御陣記』も
陸戦に関しては「漢南人」と記しているのに海戦では「唐船」となっているので、
これは明朝の区別ではなく、板屋船相当の大型船=高麗船、挟船・鮑作船相当の
中・小型=唐船としている可能性も否定できないと思う。
それから、裏付けを要求してるけど、やはり『宇都宮高麗帰陣物語』に
南海城で収容した四,五十人の島津兵からの聞き取りとして、
「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
ここでは「唐人」と記述)は階下に閉じ籠もったので焦れている内に
朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
数の上からも当然だけれど、露梁海戦は朝鮮水軍ではなくあくまで
北の明水軍が主力であって、その北からの圧力で島津本隊他の諸将は
海峡を突破することなく引き返し、海峡を突破して孤立した島津の
前衛は船を捨てて南側の南海島に逃げ込んだというのが実相でしょ。
また、前述の唐船の大きさに関しても、この「唐人船」は決して
小舟ではなく、板屋船の甲板上の島津兵を射殺せるだけの高さが
ある船だったという証左でもあるな。 あと、>107をみると露梁海戦の両軍の基本的な序列や配置を理解してない
ようだけど、露梁海峡を挟んで北に明水軍、南に朝鮮水軍での挟撃であり、
李舜臣が助けようとした明将・ケ子龍は本来は督戦のために朝鮮水軍に
派遣されており、主従で乗り込んだ朝鮮船一隻の単船であって
麾下の艦隊は持ってないよ。 >>108自己訂正
資料読み直したら、陳リンは分派の際にケ子龍に巨艦3隻兵千人を与えてますな。
記憶違いしてたようでどうも失礼。
でも死んだのは家士二百人と乗り込んだ朝鮮船というのには変わりなし。 @…日本軍の計画の成功と明軍の挫折
慶長の役は日本軍は始めから苦戦したという虚構が流布しているが、慶長の役は出兵以前に練られていた計画通りにことを運んでいた。
慶長2年2月21日に諸大名に発布した戦争計画によりますと、今度は「占領」を目的とはせずに、出兵を繰り返して明・朝鮮軍に打撃を与え最終的に屈服させるというもの
。これは、文禄の役で「占領」にこだわったために、拠点と拠点との間の兵糧の補給路の安全・確保に支障をきたし、慢性的な兵糧不足に陥った苦い経験から得た新たな戦略。
その戦略変換を基に具体的な計画が発布される。
@明・朝鮮軍の軍事拠点となっていた「全羅道」の
明・朝鮮軍を徹底的に撃滅し、忠清道の明・朝鮮軍もなるべく同様にすること
Aそれが、済めば撤収し、日本軍が補給の届きやすい沿岸部に築いていた倭城群を、
さらに拡大させ築城・補強し、防衛体制が整えば、在番を除いて日本本土に帰還し、新たな出兵計画に備えること
Bもし、明・朝鮮軍が日本軍の防衛網に侵入すれば、徹底的に撃滅すること(慶長2年2月21日書状 立花文書)
いざ慶長の役が勃発すると、全羅道の明軍が守る南原城を陥落させ、黄石山城も陥落させるなどして全羅道の明・朝鮮軍を一掃し、
忠清道に進んだ日本軍は稷山で明軍と遭遇するも、圧倒的兵力差で明軍を後退させ忠清道の掃討にも成功し、@は達成される。 ここで、@を達成した日本軍は、防衛網に撤収し、築城・補強を開始しました。しかし、築城中の蔚山城に明から大増援を得た明軍が襲撃を掛ける。
これに対して、日本軍は苦戦するも明軍六万のうち、二万もの兵を打ち取って大勝。
『明史』朝鮮伝「鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬」
ここで、慶長の役の作戦の成功を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計画し、
さらに明・朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で休息をとっていた日本軍を1599年に再度朝鮮に派遣する号令を発する。
『島津家文書』によると、総大将は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計画していたようだ。
さらに、再出兵の準備のため兵糧の備蓄などを朝鮮の倭城に命じ、着々と準備を進めていた(島津家文書、鍋島文書等)
そんな中、秀吉は死去し、1599年の再出兵の計画は流れます。秀吉の死とは関係なく、日本軍と決戦を計画していた明軍は
本土から大増援を得て、倭城攻略に動き出します。在番の日本軍の動きを抑えるため、三路に分かれて倭城に攻めかったが大敗。
理由A…明軍の疲弊
戦争末期には明側は極度に疲弊し、戦争を続行することは困難でした。三路の戦いで九州勢のみにより明・朝鮮軍に大勝した日本側とは
違い明側はすでに極度に疲弊していました。明側は三路の戦いを日本軍との決戦だと考え、数カ月かけて攻城具を大量に造り、
明各地から徴兵を実施するなど意気込みは相当なものだった しかし、相当な意気込みで挑んだ明軍でしたが、九州勢のみの日本軍に敗退します。この時点で明軍に勝算はなかったと明側でも認識していた
例えば『明史』朝鮮伝によると「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、
百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(
自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息)とある。
また、明朝廷の国家予算が四百万両であるのに対して、明側がこの戦役で費やした戦費は780万両に及び財政も極度に悪化していた。
『明史』王徳完伝「寧夏用兵(ボハイの乱)、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役(楊応龍の乱)二百余万」
さらに、明軍の敵は日本軍だけではなかった。この頃には、満洲の女真族のヌルハチがたびたび明に侵攻を繰り返し、
対日本戦の明軍を割いてまで、ヌルハチに備えなければならない状況にあった。
『朝鮮王朝実録・宣祖実録』「西路?子, 與老乙可赤, 約與合勢, 開元、瀋陽、遼東、鴨壕齶謌ネ西等地, 欲爲搶掠云云。」 軍門已抄李芳春、牛伯英等撤送, 使之防守。 」
このように、戦争が続いたとしても日本軍が撃退される可能性はほぼ喪失していたため、日本軍は朝鮮に居座っただろう。
ただし、秀吉が朝鮮の制圧を目指していたかは別問題です。秀吉は文禄の役の講和条件に「勘合貿易の復活」を挙げており、
それを認めさせれば朝鮮から手を引いた可能性も十分ある。 >>109
陸軍国であった日本がこの遠征で水軍を重視せず小舟が多かったわけで
可能性があるという程度で「あり得ない」と断定してしまうのはどうか
こちらは単に納得させてほしいだけなので姿勢がニュートラルでないと困るが
>実際、『宇都宮高麗帰陣物語』には明船として描写されているのが
>長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
明の船が日本の関船に相当するのなら朝鮮の板屋船より小さいことになる
これでは明船が大船とは言えなかったのではないか、どういう意味か?
>「朝鮮の番船」に乗り移ったものの敵(上述のように朝鮮兵のはずが
>ここでは「唐人」と記述)
朝鮮人を唐人と言った可能性は?
朝鮮もサイズが大中小とあるようなので
番船(哨戒船)とすれば板屋船より小サイズだったのも疑問はない
>朝鮮船が「唐人船」の中に漕ぎ入れ、間近で半弓で射殺されたので
>海に飛び込んで南海城に逃れ入ったというものがある。
小サイズであっても波があるのだから射撃することはできると思うが
それは置いといて、板屋船から小サイズの船を撃ったとすれば特に疑問もない
提示していただいた文章からでは朝鮮船が壊滅どころか日本側が有効な攻撃ができず
朝鮮側が組織的に攻撃し続けた様子が見てとれるのだが…
結局のところ現時点においてこの結論が整合性のある結論なのかな でも正直この議論は楽しいので
取り敢えずその文章分かりにくいので二度手間だが解説してくれ
史料読むのが一番なのだろうがすぐにできないしな もう一回読んだ
朝鮮の番船を唐人船から撃った
よって唐人船=板屋船ではないか
唐人船高麗船は単に大小の可能性あり
と言うことだろうが
「朝鮮の小さい船を明船から反弓で撃った」とそのままの解釈だろう >>115
番船が何を意味するかも判ってないようだし、
もう少し勉強してからにして貰わないと
色々話がかみ合わなさすぎる。
ちょっと勘弁してくれw
ついでだから>41の訂正
>長さ約20m・幅約5mなので、日本の関船に相当する大きさだな。
文庫版の日本戦史朝戦役本文から引いた数字だけど、なんだか当時の軍船にしては
細長いな、と思って原文を確認したら横が四間となっていたので正しくは7.2mほど。
縦は十一二間なので20〜21mで間違いない。 だから番船ってなに?
デジタル大辞泉の解説
ばん‐せん【番船】
1 港口・関所などで、必要に応じて見張りや警護をする船。また、密漁を監視する船。ばんぶね。
2 《新綿番船・新酒番船の略称》江戸時代、上方から新綿・新酒を送るため、江戸へ到着する順番を競った廻船の称。 >>121
当時の日本側史料で「番船」と出てくれば、ほぼ間違いなく朝鮮の主力艦種だった
「板屋船」を指すね。『宇都宮高麗帰陣物語』でもそう。
自分の想像だけの番船=哨戒船=小舟という解釈で、“ボクの考えたやっぱり
朝鮮水軍が強かった露梁海戦”みたいな話を延々とされてもつきあい切れませんわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています