秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part11 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>250
そんなことする暇と金があれば国内開発に投資すべき >>251
まあ、確かに失敗だったよね
結局、結果が全てだ。
朝鮮の割譲すら出来なかったのだしね
それは認めるけど 徳川政権も台湾征伐していたはずだが?
長崎奉行にやらせていたような それなら関が原でも石田、小西を助けに5千ほど率いて助けに行けよ、と
勝敗も変わったかもしれん >>246
激怒したのは後世の創作
交渉が決裂したのは朝鮮が人質を拒否したから
秀吉自身は日本国王を否定してない そうなの?
宗、松浦、有馬、大村とか第1軍のメンバーが朝鮮同様に戦ってれば東軍は容易に壊滅していたろうに 大公儀の御威光(笑)で上杉征伐軍諸将が大阪へ馳せ参じ坂東に攻め込む予定が
一人残らず徳川に与力し東海道は素通りで最終防衛線の岐阜城も瞬く間に落城
この状況下で反徳川で兵を挙げるバカがいたらびっくりのぽんだよ そもそも太閤殿下の妹婿で一族衆筆頭であり秀頼君の御名代の徳川内府と
年寄衆の一員でありながら勝手に領国に帰った毛利や政局で敗北して隠居した石田ごときと
どちらが正統でどちらが謀反人かといえば謀反人は毛利石田のほうだろう そもそも秀頼みたいな幼児に自分達の領土の安全をたくす方が不自然だわ
秀吉が死んだら次の実力者である家康にのりかえる
それだけの話 主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが ×豊臣家を守る戦い
○毛利上杉宇喜多石田らが私利私欲のためにおこしたクーデター
そもそも秀頼成人まで諸大名の子女は十年以上処女童貞でいろというのが無茶だっただけ
それ以外は徳川内府が完璧にやってたし実際徳川家が優秀すぎて石田は首になったわけだし
勝手に領国に帰った毛利上杉なぞ論外なわけでそもそも挙兵の大義名分がない
だいたい徳川の専横とやらに何か根拠があるのか?縁組云々以外全部いいがかりじゃないか >>263
朝鮮の役や秀次誅殺のような事がなければ、豊臣政権の命脈は続いていたかも知れない
そもそも豊臣家では、秀吉以外では唯一残っていた成人男子の秀次を誅すなど
愚挙も良いところだ。
封建制は血統による支配なのだから、一族のものが失われたら
それだけ弱体化する。
源頼朝が、義経ら自身の兄弟を次々と粛清した結果、源氏は三代で滅んだ前例があるように
秀吉の行動は明らかな失敗だ このスレは重複スレです。
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秀吉による朝鮮征伐の軍事分析part12
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もう書き込まないでください 秀頼が、2代目の江戸幕府将軍になってたら、
徳川秀頼って名前になってたのか? むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに むしろ秀次が粛清された時点で終わってる。
後継者を政府機能ごと粛清すれば、そら忠臣以外下剋上起こすわ
まして成り上がりで権威もないのに 変わらんだろ
主力軍の毛利軍が分裂してる状況じゃ勝ち目はない
まぁ豊臣家を守る戦いなのに毛利家だよりな時点で西軍は終わってるんだが そういわれれば秀次死亡は野ブタだ死亡と同じくらいの重要事項なんだな 秀頼を三法師ポジションに見立てると確かにしっくりくる 秀勝も秀保も秀秋も重要だったんだな。
秀勝、秀康、秀家と血縁ない奴のほうが優秀そうなのが辛いが もし秀次が関白位を続けたら
秀吉の実子が三代目になれたかと言えば、難しかっただろうな
秀吉が生きている間に三代目への代替わりが出来たならともかく
さすがにそれは難しかっただろうし >実子
まさに実のところビミョーだけどな。
それでも豊臣政権が存続してることがが前提なら、、その辺は
五大老にでも言い残しておけばどうにでもなったんでないの。 秀頼の実父が秀吉ではない大野治長では無いとの俗説は、豊臣時代の当時から存在した
もっとも有力候補として大野治長が存在する。
秀吉の側室らは、ねねが面倒を見ていたから、不義など出来なかったとの説もあるけど
海外で女子受刑者が、その国の法律で、妊娠している受刑者は刑務所から出れるので
それを目当てに、精液をこっそり手に入れて受精した受刑者も存在したそうだし。
その気になれば、幾らでも可能だよね
淀君は、信長の命令と言っても、弟を秀吉に殺され
母親も自害に追いやられたのだし
妻にされたといっても、内心では秀吉を憎んでいても何も不思議はない
秀吉への復讐のためにも、秀吉が得た権力を奪いとってやるために子供を生みたかった
何て野望のために、どんな事でもやったかも知れないな。
まあ、想像の世界の話だけど。 >>280
秀次が殊勝な性格で、叔父であり義父である秀吉の命令を
彼の死後まで忠実に従うような、殊勝な性格であるなら
自身の跡継ぎを秀頼にする事もあったかも知れないけど
それより甥を密かに殺して、関白の座を守るって未来図の方が
ずっと現実感があるけど
五大老も豊臣政権が磐石であるなら、それを覆すような事はやるまい
ま、為政者としての秀次の技量がどれほどによるかにもかかってくることだが
秀次が秀吉亡き後も、政権をしっかりと守れる技量があるなら
少々、おかしなことがあっても、その程度のことは目をつぶるしかなかったのではないかね 本当の問題は、後継にもその対立候補にも家臣団があり、また家臣団にも出身地や官僚・武将の間で派閥があって、神輿なり旗なりが自分の意思だけでは動けないって事だよ。
織田信長にせよ豊臣秀吉にせよ、取り敢えず日本を統一するところまでは行ってたが、その後をどうするかって構想は中途だったし、その実現に着手する前に滅びてしまった。
例えば織田信長に関して言えば、自身の一族を京都を中心にして配備し、家臣団を日本各地に転付して治めるという、戦国武将そのままの感覚で統治しようとしていた。
豊臣秀吉は、少なくとも恭順する者には惣無事を許していたが、まだ長宗我部や北条、徳川、島津や伊達など、各地で領土拡大と地域の統一を目指す勢力が跋扈していた。
フランスだってルイ14世までは、有力な官僚のマザランやフーケーなどが幅を利かせており、絶対王政にはなってなかったーー日本の将軍は、絶対王政までは行ってないし。
国家の組織を完全に完成させるには、維新後の日本もそうであったように、一定の期間が必要なんだよ。 このスレは重複スレです。
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もう書き込まないでください マザランやフーケーが幅を利かせてたから云々って意味不明なんだが
モロトフが幅を利かせてたからスターリンは独裁者じゃないとか
周恩来が幅を利かせてたから毛沢東は独裁者じゃないといわれても何言ってんだお前としかいいようがない 少なくともルイ14世はマザランであれ誰であれやろうと思えば冤罪で処刑するぐらいできただろう
まして徳川将軍なら老中の一人や二人切腹させるぐらいわけないが 『殺生関白』は誇張にしても、罪人の拷問や処刑を見るのが好みと、ルイス・フロイスの記録にもあったし、話半分でも人格者とは言えなかったのは確実だよ。
才能そのものはなかなかで、武芸や教養を身につけるのに熱心だったそうだけどね。 戦国武将には、少々、ネジが外れたのが多かった
信長が浅井親子の髑髏を金の盃にしたのは有名な話だし
秀吉を初め、他の戦国武将にもこうした残虐譚が残されている
まあ、罪人の処刑を鑑賞して喜ぶくらいなら、まだマシかも知れないな
摂政関白に関しては、江戸時代になって言われたことだし
あまりアテになる話ではないな 頭蓋骨の杯は俗説で頭蓋骨に漆を塗っただけって聞いたが 漆で金箔を貼り付けて箔濃(はくだみ)にしたのを、内輪での祝いの席で披露したと、信長公記に書かれているが、作者の太田牛一も含めて、周囲もあまり驚いてはいないみたいだね。
この頭蓋骨の箔濃は中国由来の祭儀用らしくて、あまり一般的でもなくば好まれた訳ではないにせよ、非道な仕打ちと非難を受けるほどの事ではなかったみたい。
と言うより、当時の状況では、本物の生首を並べる事だってあったんだろうから…… でも義理堅い武将もいるから教育かな?
秀吉が秀次、秀勝、秀保を枕元に呼び毛利元就のようにサンフレッチェな教えを説いていれば歴史は変わったかもしれない。
初めからこの3人がいなかった方が安定したような気もするが 秀吉は織田家の内紛を利用して天下を獲ったから、同じ事を防ぐために一貫した
行動を取ってる。鶴松が生まれると秀長とその周辺を遠ざけ、秀長は病死だが生
きていたら殺されただろう、秀長と政務を執った千利休切腹はその余波だ。秀頼
が生まれると、今度は秀次とその一族と周辺を退けた。退けられた側に何か落ち
度があったのではなく、秀吉は後継者を一人に絞る事で豊臣家は安泰になると考
えていたに過ぎない。徳川はこれを見て反面教師にして長続きした。 大阪城も献上し。
豊臣家は十万石程度の国主大名の1人程度に落ち着ければ
あるいは豊臣家の存続を、家康は容認したかも知れないがね
家康は、宿敵だった武田家。それに織田家の存続も認めているし
もっとも両方とも、一万石や二万石程度の外様大名に転落したが >>292
魏の武帝
つまり曹操は、皇族が力を持てば皇族同士が争い
混乱が生じるだけと考え
皇帝以外の皇族には力を持たせないように国づくりをした
その結果、司馬仲達が容易に魏の政権をひっくり返した。
その反省から、司馬は皇族それぞれの力を強化する事にしたが
結果、晋だったかな?内紛続きだった
この辺のさじ加減は難しいのよ 実は家康は、豊臣方と事を構える前に、下克上にならないかと側近に相談し、その正当性を確かめたりしてるからね。
少なくとも秀吉のように、有力な後継者を滅ぼすようは事はしなかったろうし、それこそが人質と大阪城引き渡しの要求だったんだろ。
いくら恭順したところで転付は免れなかったろうし、それはイコール大阪城の引き渡しになるんだから。 素直に東国(安房・上総あたりか)への国替えをのんでいれば普通に安泰だったでしょう。 三代将軍家光の時代まで幕府は数多くの大名を取り潰した
幕藩体制を固めるためになりふり構わず
武断政治を実行に移してきたのだが
政権末期に起こった由井正雪の乱から、その方針が転換された
大名を潰して国中に溢れた浪人が反乱を狙ったのだ。
幕藩体制を固める事を目的として行った事が、かえって逆効果になりだしたと認識したわけで
コレ以降、幕府は大名の取り潰しを大きく減らすことになった。
豊臣恩顧の大名も、加賀藩前田家を除いて片っ端から潰されていったし
仙台藩の伊達家も取り潰す計画があったとの話もある
この時代になるまでは、豊臣家が存続したとしたら安泰といえなかったのは間違いないな 大名のままじゃ無理、公家にでもなってなきゃ豊臣は残れなかったよ。 徳川家としては豊臣の家名を残して、徳川から養子と家臣を送り込み
家を継がせ豊臣本家を事実上の徳川の分家に作り変えるって手も有るな。
直系の血統は、まあ適当な手段で絶えさせてしまえばよし。 末期の豊臣家は淀殿とか織田有楽斎が支配する実質の織田家なので豊臣は秀吉一代とみれば
丹波篠山の小名として存続できたな >>301
秀次事件は文禄の役の失敗と関係がある。秀吉は朝鮮出兵が上手く進捗してたら
秀次に日本は任せて、秀頼を連れてシナ大陸に移動したはずだ。 病死が大半だったみたいね、ニューギニアの戦いかよ。 秀次が東海、機内の大名を率いて渡海していれば平壌も脱退できていたはずだ 現地の人々が年貢をめぐる反乱を起こしてゲリラ化だからどうしようもない。 二回とも二年未満でそもそもまともに徴税してなかったわけだが
文禄の時兵糧焼き討ちは支那朝鮮の十八番だという認識がなかったのが痛い
大友がヘマをやらず兵糧庫を守ってれば大同江かイムジン河で防衛線張れたはず
そのまま半島南部で徴税機構を整備してれば日本から補給する必要もなかった 文禄・慶長の役の中国語wiki見たら、小西行長が撤退した平壌の戦い
での小西軍死者数が1万2000人とあった。
ソースは日本戦史らしく、元々の兵数が1万8000人で、戦闘後の兵数が6600人
だかららしい。
1万8000人の内約は、小西7000人、宗5000人、松浦3000人、有馬2000人、大村1000人、五島700人。
6600人の元ネタは、1593年3月20日(文禄二年)の漢城での
点呼数(6626人)だと思うんだが(豊公遺文)(中野等、文禄・慶長の役・106ページ)、
この時の小西行長の点呼数って、宗・松浦・有馬・大村等の兵数は含まれてるんだろうか?
ちなみに、「文禄二年三月十日付の豊臣秀吉朱印「覚」による布陣計画」
(浅野家文書263号)(中野等、文禄・慶長の役・112ページ)
には、小西4500人、宗3500人、松浦2000人、有馬1300人、大村700人、五島500人、計12500人
とある。↑の点呼数とは日付は近いのに兵数に差があるが秀吉は兵の減少数を把握してたのだろうか?
「文禄二年五月二十日付の豊臣秀吉朱印「覚」による布陣計画」
(島津家文書955号など)(中野等、文禄・慶長の役・124ページ)
には小西行長7415人とあるが、宗・松浦・大村・五島・有馬の名前はあるが兵数は書いてない。
これは全軍合わせて7415人という意味だろうか?
長文すまん >>宗5000人
対馬の全人口が一万未満だったはずだが っつーか肥後半国で七千なのに五千だ三千だってどこからそんなデタラメが >>313
外人が千人は入っていし、約四千人になったし、定数と実数は違うし。 このスレは重複スレです。
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もう書き込まないでください >>305
ガスパルコェリョに似たような事を言ってるじゃないか。日本は秀長に任せて
自分は明へ行くって。 日本は秀次、朝鮮は秀家、明が秀吉、快進撃が続けば印度は秀秋、ベトナムは秀勝とかなってたんだろう そのころのインドって象兵いるの?
儀礼用だけだよな? 小西行長なんか先鋒にするから失敗するんだよ。加藤清正か福島正則だろ。 >>318
秀長と秀次じゃ扱いが全然違うだろうが。 当時の日本では釜山への兵站の維持も難しかった
しかし、それでもたいしたものだ。
歴史上、海を越えて十万を超える兵力の遠征に成功したのは
元寇や第三次ポエニ戦争のローマを含めても、そうはない。
それだけ海を越えての遠征というのは難しいからな。
実際、これをなしたのは、蒙古やローマにペルシャなど、世界に名だたる
大帝国ばかりだしな
当時の日本にそれだけの国力があっただけでも、たいしたものだ
そして本当に明を落とすなら
朝鮮の支配を確かなものとして、明を伺うしかないだろう
朝鮮の役の時には、明の衰退は、すでに明らかな状況だし
十年や二十年も、腰をすえての戦略なら、充分にありえた事だ >>324
おいおい、元寇だけど文永の役では元軍が4万くらいだから10万行かないしわずか一日で元軍の敗北、
弘安の役の元軍は10万超えてるけど二ヶ月近く水際で完封され続けて大惨敗じゃないか >>325
文永の役では、最近は日本に敗北したというより
日本に兵力を送り、元の力を見せ付けた段階で元側が引いたとされているがね
それはともかく、勝敗なんて論じていないの
ここで論じているのは、実際に十万を超える兵力を渡洋させるのがどれほど難しいかって事
論点を誤らないでくれる」 そんなに難行で重要な事業の先鋒を、なぜ和平派の小西行長なんかにするのか。 >>327
別に和平派でもないだろ?秀吉も指示していたし。清正だって勝手に和平交渉をしていた。
今でさえ、朝鮮半島との交渉が有益だと思っている人は多いのだから現代人だって馬鹿にできないよ。 >>329
秀忠はそれなりに優秀でしょ
むしろ家光が暗愚 家光は生涯戦国時代に生まれなかった事を悔やんでたらしいな
伊達政宗を崇拝してたり 映画「鳴梁」が創始改名されて日本で販売されていたと今知った・・・
バトル・オーシャン/海上決戦
http://amzn.asia/dkdRV0S むしろ強すぎて失敗したんだよな。
総大将は秀吉で秀吉が統括する予定だったから、総大将はおかなかった。
秀長がすでに死んでいたから軍を任せられる人が限られいたのもあるが、秀次はつかえんし、
そしたら、秀吉が上陸する前に首都を陥落させてしまった。
現地軍は朝鮮の属領化をはかる毛利などの一派は南進し、
明軍や朝鮮と早期決戦講和を図り、有利な条件で貿易利権ウハウハ狙いの小西などは北上して王族をおった。
朝鮮なんてどうでもいい、あくまで唐入り狙いでついでに王子とらえようとする加藤などは北東に向かった。
現地で軍が分散してしまう。おまけに別に中いいわけじゃないから、
明軍が何度も攻撃を仕掛けている小西の援軍要請を断る。まあ小西は最初は余裕で蹴散らしてて俺の手柄とるんじゃねーよみたいな事言っていたから、
自業自得だが。結局防ぎきれなくて首都に退却することになってしまった。
秀吉と本体は渡海したいのだが、現地の食糧が厳しいてんで受け入れ無理となり、
単独でいくといいだしたら、家康は利家がそれだけは勘弁と止めるし、
おまけに朝鮮もう落としたし、北京おとして遷都するぜといったら、朝廷からちょっとまったと言われて動けなくなったんだよなあ。
流石に秀吉も太閤としては朝廷は無視できんからね。
最初の秀吉の想定だと南部で苦戦しながら勢力圏を広げて、明軍と戦う、
そこに援軍として登場みたいなのを想定していただろうに。
予定通りにいかないもんだな。 秀保が死んだとき断絶させて所領を直轄領化したのはその辺の流れも関係してるのか?
大和60万石を身内がついていれば関ヶ原で大きく違った牢に 当時の日本在来種の馬は、ずいぶんと小柄なのよね
あんな小さな馬が、三十キロもある鎧を纏った人を乗せて走るのは
大変だっただろうと、馬が気の毒になったくらいだ。
タイムスリップもので、現在の日本に来た侍とかが、サラブレットとかを
なんと立派な馬だと絶賛するシーンがあるが
あんな小さい馬に見慣れていれば、サラブレットとかアラブ馬系の馬は
それは立派に見えるだろうな
源頼朝は、落馬で死んだと言われるが。
ポニーから落ちたくらいで死ぬとは、よほど打ち所が悪かったのだな
それとも平氏か、義経かの呪いだったのか、
>>331
秀忠が目立った功績でも挙げたか?
家康が彼を跡継ぎに使命したのは、彼が自身に従順だったからと言われている
秀忠自身の才能をそれほど評価した話は知らないが >>336
前に古墳時代の出土馬具の再現を見たのだけど(馬も再現されていて)小さくなかったよ。サラブレッドというより牛みたいだったけど、高さがなくて横にでかいみたいな。 >>337
よく知らんが、大陸から連れてこられた馬は最初大きかったが、日本の狭い国土と
乏しい草原=食料に合うように馬の方が小型化した、と >>337
木曽馬など、日本在来種の馬をみればわかるでしょうが
まあ、そうした馬のほとんどが農耕馬だから
合戦で使われたのとは品種が異なるかも知れないが ポニーは定義幅が広いから、一概に在来馬が小さいとか、
付け焼き刃の知識でドヤ顔するのは恥ずかしいぞ。
鎌倉時代末の軍馬で130cm前後だから現代でも中型種相当。
それから、サラブレッドで不整地走らせればたちまち骨折だろ。 漫画の前田慶次ならペルシュロンとかシャイヤーじゃないと無理そう(足遅い馬だけど)
実在の前田慶次なら在来馬でも大丈夫でしょ モンゴルでもアラブでもどこでも一番いい牡馬を種馬にしてダメな馬は去勢するんだが
日本の場合いい牡馬を召し上げてダメな牡馬を種馬にしてたので モンゴルなんて日本のすぐ近くだし去勢の知識がなかったはずがないんだが、、、 歴史群像の文禄・慶長の役を借りてきたけど93年出版だなあ 内容は古いのかな >>346
それでも一般向けとしてはほぼ最新くらいの書籍でないかな。
後は『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』とやはり歴史群像の本誌で
散発的な記事が出てるくらいじゃなかったっけ。
もっとも、かなり朝鮮側視点で編集されてるので、その辺は割引いて
読む必要有り。 >>345
平安時代まであったらしいけど何でだろう
残酷だから?日本人の心理的に広く受け入れられなかったとか 日本の宗教的心情に合ってないから。宦官、纏足とかシナには有っても日本は拒否
してるモノは多い、動物の去勢もその一つだろう。 体弄ったり矯正するのってほとんど日本には定着しなかったよね
せいぜい刺青が罪人やアウトローの証明として日陰にあるくらい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています