マッカーサーは、六月にオーストラリア軍部隊がプルネイ湾を確保したとき、彼らとともに上陸さえしたのである。
 さらに7月1日に、3万3000人の部隊で、バリクパパンに水陸両面からの攻撃を実施したときにも、マッカーサーは上陸した。
 これは、マッカーサーの南西太平洋司令部としては、最後の作戦になったものであり、あとの掃討作戦をべつとすれば、この作戦は3週間で終了したのである。
 しかしルソンでの戦闘は、1945年7月になっても終了しなかった。
 この戦闘は、太平洋戦争では最大の陸上戦闘だったし、アメリカ軍15個師団とかなりのフィリピン軍部隊が参加した。
 これは連合軍が、シチリア島やビルマや沖縄でもっていた兵力よりも大きなものだった。
 フィリピン諸島内にいる日本軍の抵抗を撃破したあと、日本への侵攻に指揮下の部隊を投入したい、というマッカーサーの主張によって、太平洋での戦闘は短縮されなかった。
 オランダ領東インドを奪回しようする彼の計画も、もし実行されていたら、戦争の早期終結には役立たなかったであろう。
 “飛び石”作戦によって、できるだけ日本軍部隊をかまわずに、跳び越していこうというマッカーサーの最初の計画は、ニューギニア作戦では成功したのだから、この方針は継続実施すべきであった。
 しかし、マッカーサーは自分とアメリカの栄誉を求めようという考え方が強かったので、いつもこの方針を狂わしてしまったのである。
 しかし、マッカーサーは、太平洋での戦争がまだまだ続くという見解をもっており、トルーマンに対して、日本を本土で敗北させるには、少なくとも一年、あるいは、それ以上かかるだろうと報告していた。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/mac/mac11.htm