>>684

当時の小学校校長ってのは、地域じゃ名士に入るから、口伝も残ってるんじゃないかな。
あと、公務員の職務中の殉職だから、少なくとも地元の役場とか、郷土史とか、復興省(?)
の恩給名簿なんか調べれば、何も残ってない、ってことは無いはず。
(昔、軍人恩給のシステムやってた。カビ生えそうなガリ版資料のコピーで、旧字が多くて
 往生したわ)

でも、この大石の妄想が、グラマン射撃で殉職、ってところまでは事実でも、そのうち、ご真影を
背後に守って、グラマンに対して一喝絶叫しながら壮絶な殉職を遂げた、くらいには妄想拡張
しそうだね。そそういう御仁だから。

その学校の後進があれば、記録があるかもしれない。この時期は特に開示されたりするかも。
「丸」なんかで、鹿屋への艦上機のガンカメラ映像なんかは結構最近多いけど、民間施設を銃撃
したというのは見当たらない。

ウチの祖母(故人)や母親は、北九州小倉で悪天候で原爆投下免れたが、八幡製鉄所とか小倉砲兵工廠
では、艦上機の機銃掃射は日常茶飯事だったらしい。
「この広い世界の片隅で」のアミメをDVDで見て、「この人、幸運だったのね」と素で言いきったのは
流石に凄味があったよ。JR折尾液なんかでは、昭和22年の冬あたりまで、戦災孤児や復員兵の凍死体が
ゴロゴロしてる中を、女学生は自転車で通学してったそうな。で、男子中学生や高校生は駅員に通報して
ガレキの木片やら枯れ枝で印付けておくと、翌日までには片付けられてた。そういうのが当たり前のオババ
だから、息子や孫が少々の怪我しても、腕や足がモゲ無い程度じゃ屁とも思わないw