シャーロッツビルは漂流する政治の原型

 シャーロッツビルの暴動は少数の狂信的な極右と極左による動きであり、通常の右派や左派には関係がないと言う人もいるだろう。だが実際には従来の行動と目的の規範を外れて漂流している政治の原型かもしれないと私は思う。
 街頭デモは政治につきものになった。街にはスローガンを叫ぶ集団が常に出ている。米国のキャンパスは終わりのない抗議の中にある。
 そうした抗議が何らかの信念や感情に基づいていることは間違いないが、保守やリベラル、あるいは進歩主義と関連する政治的ゴールは見えにくいことがほとんどだ。
抗議の多くは、感情の発露となっていたり、関心を集めるための行動だったりするように見える。
 シャーロッツビルは遊びではなかった。組織された2つの暴徒集団――右の白人ナショナリストと極端に報道の少なかった強硬な反ファシスト団体――の戦いだった。
反ファシスト集団による組織的暴力に関する話は今でこそ漏れ伝わってくるが、この危険な動きについて国民に知らせるまでなぜこれほど長く待ったのか、報道の観点から説明できる弁明はない。
 目的のない政治を可能にしているのはインターネットだ。ネットは、心理的なつながりのない左派・右派の若者が組織を形成する道具になっている。
群衆に車で突っ込み、ヘザー・ヘイヤーさんを殺害したとされるジェームズ・アレックス・フィールズ・ジュニア容疑者も、まさにそうした若者だ。犠牲者はヘイヤーさんだけで終わらないだろう。
 筆者はフィールズ容疑者から、一般市民の枠を飛び出して殺人鬼と化す米欧の1匹オオカミ型ジハーディスト(聖戦主義者)を連想している。
彼らはコンピューター画面から離れず、インターネット上のプロパガンダで自らを洗脳し、突然「政治的声明」を出す。インターネット上のウェブサイトやソーシャルメディア、掲示板は、政治的パラノイアを増幅させ、普通の政治を否定している。

(続く