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インパール作戦総合スレッドです
ワッチョイは御座いません >>256
二十一号作戦の亡霊ですな。
当時牟田口はヒラの師団長だったので、まともな判断をしてこの作戦に反対したものだ。
しかし軍団長に出世して何個師団かを動かせるようになると、皇帝になってしまったんだね。
足元で連合軍のビルマ奪還作戦が始まっているのに、方面軍ではそれには目をつぶり、貴重な戦力をインパールへ
行かせてしまった。
この軍団を直接ビルマ防衛に使っていれば、一方的な負け戦にならず終戦を迎えていただろう。 >>256
ビルマ方面軍ウ号作戦準備要綱にも15軍作戦計画骨子にもそんなことは書いていないよ、土足君w
それは君の妄想だ。 >>258
あいかわらず海軍や陸軍の組織について理解していないようだね、土足君w
五十六はだたの現場のTOPにすぎないんだがw 土足ってバカは何年も掛かって牟田口のカスを擁護してるけど、ネタは軍研別冊の大田本だけで説得力がない。もっと新たなネタを出せよ!ただ執念だけはたいした馬鹿だわ! 土足君は8年間だたひたすら念仏を唱え続けている。
8年間もw >>259
MIは2対2(米軍側:ヨークタウン、ホーネット、日本側:加賀、蒼龍)の空母喪失ぐらいで終わらせておけば、まだ評価も違ったろう >>261
ビルマ奪還作戦が始まってるからこそ、牟田口は
内線作戦、各個撃破を狙ってインパールに攻め込んだ。
アラカン、インパール、フーコン、雲南の4方向で最も効果有りそうなのがインパール。
発想としては、アスターテのラインハルトばりというか、
その元ネタの1796北イタリアや
1813-1814のナポレオンばりというか。
ビルマで黙って待ってたら4方向からくる数倍の兵力に潰されて終わり。
負けを長引かせるだけ。 >>267
黙って待つどころか、ビルマの実情はすでにカチカチ山の状態になっていた。
モールに師団規模の要塞を作られ要地を襲われても、高々2000人のゲリラ部隊が侵入という認識しかなく、
小兵力の逐次投入で次々負けを重ねた。
さらにインパールへの補給部隊の活動も攪乱され、初めからインパール作戦は不吉な雰囲気に包まれていた。
フーコンでも、敵は米支軍(米式装備の支那兵)の大軍とは知らず、深いジャングルを越えてやってくるのはグルカ兵
くらいだろうと踏んでいた。
兵力差でも装備でもただ者ではない敵とわかっても、方面軍は守備隊を叱咤激励、督戦一方で援軍は送らなかった。
敵を知らず、己を知らず。
ここにきて裸の王様、日本軍に戦局の一発逆転の機会はもうなかった。 >>267
この頃には英軍の反抗計画は、フーコン・雲南・アラカン・アマンダン島上陸。
だが兵力不足のためアマンダン島上陸と雲南は中止になり、残ったのは
アラカンとフーコンの2方面と、ウィンゲートの後方攪乱だけ。
だからインパールがなかったらビルマは終戦まで日本が保持していた可能性は高い。 >>269
「ビルマ方面軍は、シナ方面を支えるため、陸路のビルマルートは1944年いっぱい、その後も可能な限り遮断すべし。
日本は1945年末まで保たないので、休戦交渉に資するよう、ビルマ方面軍は可能な限り戦力を保持しつつ、
1945年いっぱいタイに進入されないよう
ビルマの広大な平原と河を盾に遅滞作戦すべし。」
という任務が与えられたのであれば、インパール作戦は不要で、フーコンと雲南に増援してたでしょうが。 >>270
補給を度外視した無謀な作戦を行う理由にはならんだろう。 >>267みたいなことは
言おうと思えば太平洋戦争の全ての方面で同じようなことが言える。
圧倒的な国力を持つ連合国を相手にしてるのだから。 >>271
無茶をするしか無い局面ではあるけどな、まあ無茶して無駄に散ったのは事実だが座して死を
待つよりはなんぼかマシ この場合責められるべきは無責任な軍上層部、ビビッて何もできない税金ドロボーの政治家でしょ、
日露戦争の講和仲介の見返りの反故から始まり、リットン調査団の譲歩を蹴り飛ばし熱河作戦と言う
暴挙に出て外交的に完全に詰む。現場はやれる手を打ったまで。
ルーズベルトの反日陰謀なんか唱えて、上層部擁護なんかしてるカスが一番のクズではないか? >>272
軍事作戦として本当にマシなのかね?
どのみち負けるにしろ、敵に打撃を与えて持ちこたえるべきだと思うのだが? >>273
>責められるべきは無責任な軍上層部
これには牟田口も含まれるわけだが? 山本五十六のほうが、バカだったのである。
なんといっても、山本五十六がバカなのは、間違いないのである。
このバカが余計な対米攻撃、無駄な消耗戦を、しさえしななければ
日独は勝利していたであろう。
しかし好機は去った。 >>274
結果論としては意味が無いけど、守勢に立ったとしても万が一にもいい方向には
行かない、奇跡にすがるにしても攻勢じゃなきゃ何もつかめない まあナチと積極的に協調路線とったのは陸軍なんですけどねw >>277
守勢にたったイギリス軍にとってはインパールの戦いは奇跡の大勝利だけどな。 >>277
航空支援も補給もない。戦車・大砲だけでなく弾薬や食糧もない。
インパールで死んだ日本人将兵は5万人以上だが、イギリス軍との戦闘で死んだ数より
餓えと病気で死んだ日本兵の方が多いという。
これで奇跡を起こしてくれと言われても神様も怒るだろ。 >>280
実施後1ヶ月で作戦失敗を認めて早期撤退してたら、
1944の枢軸に貴重な戦術的勝利になってたと思う。
それが出来ないのが日本軍のポンコツ可愛いとこだけど。 >>276
君の頭の悪さは絶望的だね土足君w
アメリカとの戦争を決定したのは陸軍出身の東條首相なのだが? >>277
奇跡すら起きる状況ではないけどね。
今更インドに突入したところで何も無いよ。 >>281
なんせ陸大の戦術教育で徹底的に退却を否定しているからねぇ >>230
地上部隊はスピットファイアの「街道荒らし」にやられまくったからじゃないか。
入江連隊長も笹原中将もスピットファイアに襲撃されて戦死するくらいだから
下級兵がどれだけスピットファイアに襲撃されたか凄まじいもんだったろう >>253
スリムはディマプールを優先する余りコヒマを無防備に近くしてしまって、
おもにコヒマ守備部隊から批判されてるんだよな。
ディマプール進行の危険を不相応に強調してるのはその弁明のため。 >>230
古峰氏の受け売り?
彼の言うことをあまり真に受けない方がいいよ。 >>283
それでも2個旅団撃破して物資集積点奪取したんだから、
3週目時点ではロンメルのバトルアクス作戦撃破くらいの勝利では。 普通に勝てた作戦だわな。
たかがインド師団3個ごときに
日本の三個師団で負ける方が異常。 ウィンゲート旅団が痛かった。
ただでさえ戦闘力皆無な日本軍の輜重部隊が大量の荷物で身動きが取りにくいところを壊滅させられた
輜重部隊にはジャングル内での護身用にSMGや散弾銃、より上単位には機関銃や歩兵砲も多少は配備した方が良かったかもしれない
コストはかかるが前線で食糧を待つ将兵の命に比べれば遥かに安いものだからな 土足のカス!
皆に迷惑掛けんと大田本を抱きしめて寝とけ。
牟田口のアホが英軍将校の誉め殺し記事を後生大事にしたように。 >>288
単なる作戦次元の話しなら一理あるけど、田中師団長の意見具申を入れて
防御に転換したらなら無駄な損害を出さずにすんだ。 >>289
この作戦の日本軍の師団は通常の編成ではないんだよ、土足君w 戦闘機の護衛の下、ゼロ式輸送機で食料の空中投下をするべきだった。
それも米ではなくカロリー貨の高い羊羹。大量の羊羹をトン単位で投下していたら日本軍は勝っていた。 また運搬は加工しにくい牛ではなく豚で運搬するべきだった。
食った後の豚の頭を並べて防衛線を築くと英印軍のインド人兵士は近づけないぞ。
最強の野戦陣地だ。 スリム中将の評価では
原因は謎だが日本軍の師団長は、作戦を中止させるために
意図的に進撃を遅らせ、停滞し
連合軍をわざと勝たせたと評している。
まあ、海軍を中心とした日本の愚かな対米決戦派による
水面下での政治的策略があったんだろうな。 >>297
>原因は謎
第58連隊のサンジャック攻撃は今だに多くの謎を残しているね、土足くんw 基本的には糧秣の不足ではなく
行動時間の長大化による飲用水の絶対的不足が大量戦病死に繋がっている >>294
そう、ただし指揮官はイギリス人。
日本側は植民地のインド人兵士など弱いと舐めてたのもインパールの敗因の1つ。 >>300
ありがとう。インド兵だと日本軍も敵愾心がわかないね。
おいおい、ちょっと待てよという感じかな。 そんなの相手に二個師団使って二個大隊で足止めされた馬鹿牟田口が、敵の背後にもう一個師団来てれば勝てたと言い張るのは矛盾というもの
(二個師団を二個大隊で止められるんなら一個師団はもう一個大隊出せば止められる) 弱過ぎワロタ
地形的にSMG持って出直して来ないと無理だな 身内にボースの義勇軍がいるんだよ。
英グルカ兵も若い日本兵の屍を見て泣いたって話もあるし。
親分よりも自分らに似ている日本兵を見て泣いたんだよ。 インド人の多くはああみえてコーカソイド系なんじゃなかったか?
色的には間違いなく黄色人種なんだがね 東インド植民地兵が弱兵だったのは開戦当初だけ
頼れるオヤジと呼ばれるようになるまで現場に足を運んで兵隊と意識の共有に努めてきた結果が
円筒陣地が実用に耐える作戦になった原因
(シンガポールレベルの士気なら円筒陣地を作っても兵隊が勝手に降伏するので機能しない)
仕掛けるならスリムによる再教育が済む前だったのですよ
コンクリートが固まる時間を与えてから突撃させた馬鹿は牟田口 あとは敵にブレンガンが普及していた、これが痛い
誰が使ってもそこそこ強いからな ●ディマプールは攻略できた。そして、それで日本軍はインパール作戦で勝利出来た。というのが連合軍の一致した見解
★アーサー・スウィンソン大尉(英第二師団参謀 ディマプール)『コヒマ』
牟田口の方が、実際には正しかったのである。何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。
★スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」
★アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当)
「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」
★マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)
「英印軍に非常に幸運だったのは、日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。」
「すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、
そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。 」
★スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』
日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残、,師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。
★ストップフォード中将(第33軍団司令官・ディマプール担当)
「このときもし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら英国に勝利はなかった。(作戦全体において)」 あまり語られないがインパール作戦の原型は勿論
西亜作戦。
1942年7月、陸軍は西亜作戦を、海軍はインド洋作戦を
同時に奏上している。
これはとうぜん独伊の北アフリカ戦線とスターリングラード作戦に
呼応してやろうという、当然やるべき作戦であり
このときこれを実施していたなら、日独伊は確実にWW2に勝利できたのは
間違いない。 インパール作戦をいくら検証しても
それは木を見て森を見ずだな。
そもそも大東亜戦争で日本が大失敗した原因は何だ?
だれがどう見ても、山本五十六の暴走が原因じゃないか。
こんな明らかな歴史を、日本人は未だに直視せず
誤魔化して真剣な歴史検証から逃げてきた。
いつまでもそでで済むわけが無い。 >>308
往生際が悪いね土足君w
これが日本軍の作戦計画なのだよ。よく見るように。まぁ理解できないかw
ビルマ方面軍ウ号作戦準備要綱
一、主作戦方面
(1) 第15軍は英軍の反攻に対し努めて主作戦方面の兵備を整頓したる後
重点を「チンドウィン」河西方地区に保持しつつ一般方向を「インパール」に
向け攻勢を執り
成るべく我に近き地帯に於いて一挙に英軍の捕捉撃滅を図り
爾後
国境付近所在の英軍を撃破したる後「インパール」付近の策源を覆滅す
(4) 雨季明迄に「チンドウィン」河西岸地区「カレワ」正面に広く強固なる反撃
拠点を形成し爾後の攻勢を有利ならしむると共に作戦準備期間に於ける支拠
たらしむ
(5) 「インパール」付近の策源覆滅後は主力を以って同地付近の要域を又有力なる
一部を以って「コヒマ」付近の要域を占拠し持久態勢を確保す
15軍作戦計画骨子
(三) 第31師団は主力を先ず「インドウ」「ウントウ」「ピンポン」「ピンレブ」の地区に集中す
ると共に一部を「タマンティ」「ホマリン」「パウンピン」等「チンドウィン」河に推進す
攻撃部署は主力を以って「ホマリン」及び同上流域地区に於いて「チンドウィン」河を渡河し
「レイシ」「フォートケアリ」を経て「コヒマ」に有力なる一部を以って「ホマリン」付近に於いて
「チンドウィン」河を渡河し「ウクルル」−「マラン」道に沿う地区を「コヒマ」に突進し同地の
要域を占領して「アッサム」方面より予想する英印軍の増援を阻止す
状況に依り一部を「インパール」に転進せしめ「インパール」会戦に参加せしむ
これにはディマプールのデの字も無い。ディマプールは第二目標でも無ければ
佐藤師団長がどうとかいう物でもないのである。 >>309
西亜作戦なんて具体的なものは何も無いよね、土足君w 日本軍がインドを落とせなかったのは
21号作戦の時なら負け癖が抜けてない土人の寄せ集めと戦えばよかったのに
わざわざ根性を叩き直す時間を与えた馬鹿牟田口が全部悪い >>301
すまん、認識に間違いがあった。インド師団はインド兵のみでなく混成部隊だね。
インパール戦ではだいたい各師団に1/3くらいイギリス兵がいたようだ。訂正しとく。 昨日は東京上空で普段見かけない多数の軍用機が目撃され
いよいよ戦争勃発が近いのではないかと
噂が流れていた。
おれもヘリの編隊を目撃して不思議に思った。
と思ったら観閲式だったのか
https://www.youtube.com/watch?v=RdcOn0muCI8
しかし何でマスコミはまったく報道しないんだろうか?
首都圏の人間は観閲式があるなんて、だれも知らない。
そこへいっきなり首都圏上空に大型輸送機が飛来し
ヘリの編隊が続いて飛んできて
その後、戦闘機の編隊まで飛んできたのでは、いったい何事か?
と思ってしまう。
観閲式は誰も知らないところでこっそりやらず
国民の前で堂々とやってもらいたい >>311
悪いが、こっちの内容は
歴史的貴重な永遠に不偏の一次資料である。
おまえごとき、ただの軍事ヲタのぶんざいの戯言とは
わけが違う。
天土と地の差がある。
しかもおまえは頭が悪いので
おれと真面目に論戦する能力も無い。
五十六信者はなんでこうも、おまえみたいな
バカしかいないのか?w >>315
そりゃ、予行なんて報道しないだろ。
本番は14日だよ。 >>311
作戦通すためにディマプールを削ったんだが、
全く結果論だがディマプールを入れとくべきだった。
絶望のなか、死中に活を見いだすのがインパール。
狂ってなければ成功しない。 戦史にかかれる「日本軍一個師団/歩兵団の攻撃」って、実は師団や歩兵団の隷下の一個連隊の攻撃だったりするんだよな
宮崎支隊もそんな感じで、少将率いる歩兵団に見せかけた実態のところ歩兵第58連隊だった
>>302とか、「二個師団が二個大隊に負かされたワロスwww」みたいな感じだけど、実態のところ戦力差はそう無かったのかもしれないぞ >>316
軍ヲタでないなら君は何なのかね?土足君w 英軍の歩兵旅団
歩兵大隊X3 2または3インチ迫撃砲X24門
重火器大隊 機関銃×36丁 4.2インチ迫撃砲X4門
師団砲兵X72門
日本軍第15師団(インパール作戦時)
連隊 連隊砲X1門
歩兵大隊X3 機関銃X2 大隊砲X1
師団砲兵×10門
日本軍第31師団インパール作戦時)
連隊 連隊砲X1門
歩兵大隊X3 機関銃X4 大隊砲X2
師団砲兵×17門
英軍は機関銃や迫撃砲の火力で日本軍の何倍なんだ?!
というくらいの火力の差!!
師団砲兵を加えるとどうしようもない格差!!
日本軍は砲兵弾薬が乏しいので、1門あたりの携行砲弾も150−200発
1回本格的に戦闘したら弾切れ!!
一方英軍は1個中隊8門で1日3000発発射という恐ろしい火力。
本当にどうしようもないのだ。 やばいな、師団砲兵だけでドイツ軍の2倍…
しかも高性能な25ポンド野砲か?
教養人が不足していたであろうインド人に使えたんだろうか
勝負にならんな >>321
日本軍歩兵は迫撃砲で近接火力だけは互角だったのでは?
砲弾あればだけど。 第15師団はビルマ転戦前にかなり装備置いてきてる
編成も変わってるんだろう
野砲兵連隊なのに野砲を全て置いてきて代わりに寄せ集めた山砲で穴埋めしてた >>323
日本軍には迫撃砲は配属されなかったはず。
58連隊は鹵獲迫撃砲はありましたが、1-2回の戦闘で弾切れ。 >>324
しかも31年式という日露戦争時の砲(愕然 >>318
どのみち58連隊がサンジャック攻撃を始めた時点でディマプール進撃の目はないのだけれどね。 そもそも一個砲兵中隊って日本やドイツ、北朝鮮などは4門、アメリカやフランスは6門だったが
一個中隊8門というのは寡聞にして聞いたことがないぞ
一個師団あたり72門なら3個師団で沖縄戦の日本軍にも匹敵し得る筈だが
そんな重編成の師団をあんな地形に持っていけるのか? インパール作戦で戦ったインド師団ごときに負けるようでは
軍人を辞めるべきだな。
あんなのに負ける様では、勝てる相手が無い。
しかも奇襲は大成功したのだから
インパールの敵は3週間で粉砕しインパールを攻略なんぞ
やれて当たり前。
失敗することのほうが難しいし考えられない。
普通にやって負けるなんてことは、ありえんわw じゃあ3個師団全員解雇しろよw
武器の差で完敗しているんだからむしろ負けて当然の結果なんだがね もし宮崎が33師団で先陣の連隊を指揮していれば
シンゲルで得た武器でそのまま一気に突撃して
1個連隊で2週間でインパール攻略なんぞ終了していたと思う。
だれが指揮するかで結果は天と地の差がある。 敵から奪った武器のそのまた何倍もの武器とその予備兵力がなお控えていたってのは少しでも考えれば分かる事なんだがねぇ… >>332
★スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」 現にインパールで指揮していたジファード大将が
インパールから撤退して逃げる相談を
してるじゃないか。
日本は決定的に勝てる情況にあった何よりの証拠 >>309
つまり、どっちも失敗した時点でインパール作戦は無意味で牟田口はただの気違い >寡聞にして聞いたことがない
馬から落ちて落馬の類だナw >>319
実質兵力が少ないなら尚更、
英軍による想定の範囲内の襲撃なんで、壁に卵を投げつけるレベルの愚行じゃん。
しかも、それに必要な分の補給も届けられないって超絶無能牟田口伝説に新たな一ベージが(笑) >>337
コヒマに1個師団やってくるのは想定の範囲外だろう。 >>334
そいつの上司と筆者には虚仮威しと見抜かれてて駄目だしされてたのでアウト(笑)
内部の意見の相違で言うなら部下相手の図上演習さえマトモに出来ないムッチーの勝算の方が皆無(笑)
いや、そこでディマプール突貫をプレイして見せれば佐藤の選択肢に入ったかも知れないのに。 >>338
連隊レベルの火力しか持たせて無いんだから
虚仮威しがバレたら連隊でしかない。 ジイちゃん、虚仮威なんて言葉、オレら中年にはわからないわwww >>341
やだなーそんな馬鹿に「当時翻訳された」本が読める訳ないじゃんw
つまり、議論について行けないって自白しちゃったんだからさっさと退場してねw ●ディマプールは攻略できた。そして、それで日本軍はインパール作戦で勝利出来た。というのが連合軍の一致した見解
★アーサー・スウィンソン大尉(英第二師団参謀 ディマプール)『コヒマ』
牟田口の方が、実際には正しかったのである。何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。
★スチルウェル中佐(米支軍・フーコン方面軍作戦主任・北部ビルマ担当)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」
★アーサー・パーカー中佐の書簡(第四軍団参謀・インパール担当)
「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」
★マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)
「英印軍に非常に幸運だったのは、日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。」
「すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、
そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。 」
★スリム中将(第14軍司令官)『敗北から勝利へ』
日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残、,師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。
★ストップフォード中将(第33軍団司令官・ディマプール担当)
「このときもし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら英国に勝利はなかった。(作戦全体において)」 成功はしたが徒労に終わった南方打通における過剰布陣から
少しでも多くの兵力をビルマ方面にシフトして
兵力を4進路12万で作戦していれば
ディマプール攻略は現実となっていたことを勘案すれば
作戦骨子からディマプールの字を消したというのは本当にまずかった >>344
そうなんだよなあ。
インパール作戦は常軌を逸したキチガイ作戦だが、
ビルマ方面軍の日本軍師団は、世界戦史上最強の歩兵部隊で、
キチガイ作戦を成功する一歩手前まで持って行ってしまった。
あと1〜2個師団後詰めで第二梯団にできれば、1個師団壊滅と引き換えに
英軍の反攻準備を破砕できたかもしれない。 インパール作戦は、あと一歩で成功していた作戦だった。
これはもう疑う余地が無い。
しかしそんな事はどうでもいい事。
1942年になぜ西亜作戦をやらなかったのか?
これが最大の問題。
やっていれば勝てていた。
戦犯は牟田口なのか、山本五十六なのか
ここが最大のポイント。
まあ答えは考えるまでも無いがw >>346
ムッチーが21号作戦を蹴ったのが悪い。
例え敵中で全滅同然にされようと突っ込むべき時が有ると佐藤を避難する資格はこの時点でムッチーには存在しないからな(笑) >>328
>一個中隊8門というのは寡聞にして聞いたことがないぞ
英軍の8門バッテリーはなんかの本に書いてあったと思う。すぐには思い出せないくてスマン。
>そんな重編成の師団をあんな地形に持っていけるのか?
72門とはいってもその運用は1コ大隊に1コ中隊(8門)を配属する形にするから
砲兵連隊がそろって行動するわけではないよ。 例えば佐藤が全滅覚悟で前進して他の部隊も後退考えずに突進して最終的にインパールを占領出来てたとする
で補給は?
結局アラカン山系を超えて補給する能力が日本軍にはない
3個師団分の空中給油なんか当時のビルマ派遣軍には100%無理
結果的には英軍の反撃で壊滅してたのは明白
俺は牟田口が悪いというよりこれを認可した上級司令部や陸軍参謀本部が悪いと思うよ
少なくとも牟田口は勝手にインパール作戦開始したわけではなく許可された正式な作戦だからね >>349
>俺は牟田口が悪いというよりこれを認可した上級司令部や陸軍参謀本部が悪いと思うよ
>少なくとも牟田口は勝手にインパール作戦開始したわけではなく許可された正式な作戦だからね
西欧ならごもっともな話しだがなんせ下克上上等の日本軍ですからね。
牟田口が作戦を認可されるためにいろいろと手を尽くしたのは巷間知られているところです。
牟田口が攻勢を言い出す前は方面軍でも南方軍でも攻勢を考えてなかった。
必要のない攻勢を出世のために牟田口が言い出したわけです。まぁかなり言葉が巧みなんですよ。
上官の琴線に触れるのがうまいというか。
しかも6月には失敗を自覚していながら、河辺に言い出せず、
「顔色で」とか「河辺司令官から言われれば」とか言い出す始末。 >>329
>インパール作戦で戦ったインド師団ごときに負けるようでは
>軍人を辞めるべきだな。
>あんなのに負ける様では、勝てる相手が無い。
ビルマではもっと弱かったインド師団を逃がしてしまった
牟田口のことを言っているのかね?土足君w
>しかも奇襲は大成功したのだから
>インパールの敵は3週間で粉砕しインパールを攻略なんぞ
>やれて当たり前。
>失敗することのほうが難しいし考えられない。
>普通にやって負けるなんてことは、ありえんわw
君の言う普通にやってというのはどういう戦闘ことかね? >>331
>もし宮崎が33師団で先陣の連隊を指揮していれば
>シンゲルで得た武器でそのまま一気に突撃して
> 1個連隊で2週間でインパール攻略なんぞ終了していたと思う。
一気に突撃ってシンゲルからインパールまで突撃するのかね?
突撃隊形でかねw
>だれが指揮するかで結果は天と地の差がある。
宮崎さんはサンジャックみたい他の師団戦区に行ってしまうのでは?(ジョーク >>343
いや、師団は作戦計画にしたがって任務を遂行しているのだよ、土足君w
ビルマ方面軍ウ号作戦準備要綱
一、主作戦方面
(1) 第15軍は英軍の反攻に対し努めて主作戦方面の兵備を整頓したる後
重点を「チンドウィン」河西方地区に保持しつつ一般方向を「インパール」に
向け攻勢を執り
成るべく我に近き地帯に於いて一挙に英軍の捕捉撃滅を図り
爾後
国境付近所在の英軍を撃破したる後「インパール」付近の策源を覆滅す
(4) 雨季明迄に「チンドウィン」河西岸地区「カレワ」正面に広く強固なる反撃
拠点を形成し爾後の攻勢を有利ならしむると共に作戦準備期間に於ける支拠
たらしむ
(5) 「インパール」付近の策源覆滅後は主力を以って同地付近の要域を又有力なる
一部を以って「コヒマ」付近の要域を占拠し持久態勢を確保す
15軍作戦計画骨子
(三) 第31師団は主力を先ず「インドウ」「ウントウ」「ピンポン」「ピンレブ」の地区に集中す
ると共に一部を「タマンティ」「ホマリン」「パウンピン」等「チンドウィン」河に推進す
攻撃部署は主力を以って「ホマリン」及び同上流域地区に於いて「チンドウィン」河を渡河し
「レイシ」「フォートケアリ」を経て「コヒマ」に有力なる一部を以って「ホマリン」付近に於いて
「チンドウィン」河を渡河し「ウクルル」−「マラン」道に沿う地区を
「コヒマ」に突進し同地の要域を占領して「アッサム」方面より予想する
英印軍の増援を阻止す ←これ重要、師団の任務の核ですから。
状況に依り一部を「インパール」に転進せしめ「インパール」会戦に参加せしむ >西欧ならごもっともな話しだがなんせ下克上上等の日本軍ですからね。
>牟田口が作戦を認可されるためにいろいろと手を尽くしたのは巷間知られているところです。
頭悪いから連投してるんだろうけどよ
手を尽くそうがそれを認可した上級司令部が悪いんだよ
お前みたいに社会に出たことない奴に何言っても時間の無駄だけどな >>354
いや、インパール作戦までの流れを見ての話しなんだが?
南方軍、方面軍、上級組織にも責任の一端はあるが、
「現場が出来る」と強く主張しているわけだがらね。
また南方軍、方面軍ともに作戦をもっと堅実にするとう指導もしているね。
それを無視したのが牟田口なんだよね。 >>354
だったらムッチーを21号作戦ですり潰せば損害は全滅でも2個師団で済むw
命令拒否で予備役とか銃殺とかなら最高ですけどね
で、常識人たちが敵前で挑発ダンス踊って
馬鹿ムッチーみたいに無駄に居座らずに足元の明るいうちに帰れば
21号作戦はインパールよりマシな結果になるのは疑いようもないw
そもそもムッチーは大隊さえまともに管理できない能無し故、佐藤の靴でも磨かぜときゃ良かったのに
下らない年功序列のせいでこんなバカに3個師団も預けた陸助には恩給を受け取る資格なんか無い(もう兵卒かペーペーの尉官しか残ってないんだから勘弁してやれ) >>349
そうだよね。他にもインパール、コヒマ、ディマプールのあるナガランド州は、
インドでは例外的に殆どの住民がキリスト教徒なんで占領後の住民の協力がえられるかも疑問だな。 インパール作戦の批判本は中身はみな、お決まりのほぼ同じ内容ですが、
定説化されたそれらは事実を歪曲しておりデタラメです。
1ヶ月程度でインパールを攻略するというこの作戦は、
さほど無謀な作戦ではなく、また作戦計画(補給を含めて)も十分に練られたものであり、
予定通りに普通に作戦を遂行していれば難なく成功していた作戦です。
このことは連合軍の司令官、参謀など当時の関係者の多くがそのような
見解の記録を残しており、日本での定説、評価とはまったく異なります。
連合軍側の見解では、師団を指揮した師団長(特に31師・佐藤、33師・柳田)らが
あまりにも消極的で進行を遅くさせ、そのために日本軍は勝てた作戦で負けに転じた
(わざと勝たせたとも)と評してます。
これは多数の連合軍関係者が同じ見解です。英国公刊戦史にも記載されてます。
その他にもインパール作戦では定説化された嘘が多数あります。
●補給を無視した、補給をしなかった、険しい道なき道を進行したという定説の嘘
補給が無かったのは参加した三個師団のうち、31佐藤師団だけです。
他の2個師団には補給されてます。
また33師団は連合軍の物資集積拠点をほぼ無血で確保し有り余る物資(武器、弾薬、車両、燃料、食料)
を得ており、もし補給なしでも物資を持て余しています。
(シンゲルで師団2か月分の物資を確保したとの記録があります)
15軍の作戦計画である期間の1ヶ月程度、長くても2ヶ月程度では補給はまったく問題ないです。
(作戦が延長され4ヶ月にも及んだのは、参謀本部、南方軍の判断で牟田口の判断ではありません) 補給が無かったのは31師・佐藤師団だけです。
しかしこの部隊は敵の背後へ回り込むという、日本軍がもっとも得意とした迂回、浸透戦術の部隊です。
こういった特殊な任務の部隊は、普通、作戦が終了するまで補給が無いのは当たり前です。
佐藤師団長も、そんなことは百も承知だったはずです。
実際に15軍の想定した1ヶ月は物資に何の問題もありませんし、
2ヶ月間は問題無かったわけですから、補給が尽きた責任は15軍・牟田口の責任ではありません。
作戦延長の判断は参謀本部によるものです。
(参謀本部の判断は中国からB29で日本本土を空爆するという連合軍のマッターホルン作戦を阻止すべく発令された
大陸打通作戦との兼ね合いから、ビルマに米支軍を引き付ける意味でインパール作戦がさらに重要となったため)
(またチャンドラボースも作戦中止に猛反対したため、日本軍のインパール作戦中止の判断が遅れました)
進行経路は険しい山岳地帯の道なき道を進行した、という話も嘘です。実際には道路が完備されています。
33師団、15師団の進行経路は全てトラックが通れる道路が整備されてますし、
もっとも険しいとされた佐藤31師団の進行経路でさえも、実は連合軍側によってジープ道が整備されており
それを利用し道なき道では無かったことが判明してます。
牟田口15軍はそれらを綿密に調査した上で作戦を立てています。
●参謀ら皆が無謀だと反対していたという嘘。
参謀らが反対したのは、以前の計画のウ号作戦です。
これはインド、アッサム州を攻略するという作戦であって、
それより遥か手前のインパールを攻略するインパール作戦とはぜんぜん別物です。
話がスリ変えられています。 ●白骨街道の嘘
撤退時に飢餓で苦しんだのは15師団(山内師団)だけです。
31師団(佐藤師団)と33師団は飢餓に苦しんでいません。
また餓死者が多数という話も嘘です。
飢餓に苦しんだ15師団でも、餓死という記録はまったくありません。
負傷兵が撤退をあきらめて自決したのがほとんどです。
撤退時に飢餓で苦しんだのは15師団の特に60連隊(松村連隊)だけです。
しかしこの白骨街道の話の当事者である60連隊の公式連隊記録(二つの河の戦い)は驚くべき内容です。
60連隊が悲惨な撤退を強いられた原因は、佐藤師団の抗命、無断撤退が原因であるとして、
佐藤師団を激しく非難した内容です。牟田口に対する批判は一つもありません。
60連隊が飢餓で苦しむ2ヶ月の撤退を強いられた要因は(白骨街道となった)
佐藤師団(烈師団)の無通告撤退、撤退時に集積所の食料を強奪したためだと明確に書かれ、
31師、烈師団を「劣師団」だと激しく非難しています。
インパール作戦の資料として日本で最も価値のある一次資料は
この60連隊の公式連隊記録(二つの河の戦い)で間違いありません。
連合軍側の資料では、スリム中将の「敗北から勝利へ」です。
全てのインパール作戦本は、この二つの資料をソースとして書かれているはずです。
奇しくも両資料とも、佐藤師団に対する激しい批判が共通しています。そこに重点が置かれています。
牟田口15軍に対する批判はまったくありません。
しかしどの書籍にも、この肝心要の両資料の一番言いたかったことが作為的に削除、改ざんされてきました。
(スリム中将の佐藤批判を、牟田口批判であるかのように改ざんされてます)
他にも定説化されたインパール作戦批判は、事実の歪曲が多数あり突っ込みどころが満載です。
とても書ききれません。
なおこれらの貴重な情報は歯科医師、軍事研究家であった故・大田 嘉弘氏の功績です。
氏が始めてその全貌を書籍で明らかにしました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています