マクロン大統領がフランス訪問中のネタニヤフ首相にお説教したそうで

仏大統領、入植凍結求める=イスラエル首相と会談−パリ
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017121100152

なお、ネタニヤフ君は「今年がヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件75周年だということを忘れてないよな?」と念を押した模様

※ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E9%87%8F%E6%A4%9C%E6%8C%99%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(Rafle du Velodrome d'Hiver)、または、その略称であるヴェル・ディヴ事件(Rafle du Vel' d'Hiv)は、
第二次世界大戦下、ナチス・ドイツの占領下にあったフランスで1942年7月16日〜17日に行われた最大のユダヤ人大量検挙事件である。
本質的には外国から避難してきた無国籍のユダヤ人を検挙するためのものだったとされる。1942年の7月、ナチスはヨーロッパ各国でユダヤ人を
大量検挙することを目的とした「春の風」作戦を計画した。フランスにおいては、ヴィシー政権がフランス警察を動かし作戦を実行した。パリで
9000人にも及ぶ警察官と憲兵が動員された。警察庁の記録によれば、7月17日の終わりには、パリと郊外での検挙者数は1万3152人で、そのうち
4115人が子供だった。
ヴェロドローム・ディヴェール(Velodrome d'Hiver)とは冬期競輪場のことで、本事件で用いられた中間収容施設の中で最も大きかった。
最初、検挙されたユダヤ人達の多くは5日間、ここに閉じ込められた。競技場に屋根はなく、真夏の太陽が照り付ける中、食料や飲料水をほとんど
与えられず、トイレも少なかった。身動きもできないまま、飢えと渇きと臭気に襲われ、その光景は人間に対する冒涜そのものであった[1]。
その後、アウシュビッツを初めとする東欧各地の絶滅収容所へと送られた。収容所生活の中で、終戦までに生き延びたのは100人に満たない
大人のみで、子供は生き残らなかったという[2]。