1945年7月25日。原爆計画は最終段階を迎えていた。グローブスが起草した原爆投下指令書が発令されたのだ。
この指令書をトルーマンが承認した証拠は見つかっていない。そして8月6日原爆は広島に向けて落とされた。
一方トルーマンはその頃大西洋上にいた。戦後処理を話し合うポツダム会談から帰る途中に
原爆投下の一方を聞きつけ船の上で演説を収録した。
「先程アメリカ軍は、日本の軍事都市である広島に一発の爆弾を投下した。
原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の頭上に落とされたのだ。」。

トルーマンが軍の策略に気付いたのはそれから2日後のこと、ワシントンに帰宅した直後のことだった。
陸軍長官のスティムソンの日記には「8月8日、午前10時45分私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた。」。
この時のトルーマンが発した言葉も記されていた。「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある。」。
軍の狙いを見抜けなかったトルーマンはその自らの責任に初めて気付いたのだった。
しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走し始めた。そして8月9日、原爆は長崎にも投下された。
トルーマンが広島の実態を知った半日後のことだった。これに対しトルーマンの8月9日付の日記にはこう記されていた、
「日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。」と。
その翌日、トルーマンは全閣僚を集め、大統領の許可無しにこれ以上の原爆投下を禁じると発表した。
この時トルーマンは「新たに10万人、特に子供たちを殺すのは考えただけでも恐ろしい。」と語った。
これを知ったグローブスは「3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り、投下はできなくなった。」と述べた。
これで日本への原爆投下が止まったのである。