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事実だけを見るならば、当時の限界にチャレンジした試製48cm砲以外、41cm砲より大きい砲は
大正期には試作も計画もされなかった。

石橋孝夫氏の大作「図解〜」では試作、計画砲もふくめて各砲身、砲塔、砲弾のデータが知りうる限り
網羅されてるけど、大和用のもの以外に46cm砲のデータがない。
たとえば当時なら砲弾の形式は3年式になるだろうけど、砲弾重量の試算値すらないようだ。

大正9年9月に紀伊型の艦型決定、同時に造船側は46cm砲の可能性検討開始、12月に48cm砲試射、
平賀が大正10年6月に意見具申書で18インチ砲必須と主張し、速力30ノット(1ノット低下まで妥協可)
安全距離40cm弾に対し1万2千〜2万m(1万5千〜1万8千mまで妥協可)などと具体的に書く。

大正13年の平賀の報告書で、八八艦隊計画の最後の4隻については、全然決まってなかったと
述べているのが見つかる。

造兵、造船側では先を見越して色々研究していたようだが、用兵側からは公式にも非公式にも
46cm砲搭載の要求は出ていなかった模様。