>>927
>そもそもソ連の対日参戦&留萌-釧路線までの占領許可自体がレイテと沖縄で出遅れた合衆国の要請だから、

ソ連の参戦はルーズベルトの密約だけど、中立条約を破るにあたってソ連は参戦要請を出せと
言って、トルーマンは「連合国としての義務が何かを自分で考えてそれを果たせばいいんじゃね」
と言質を与えなかった。ソ連が欲しがった連合国からの参戦要請という大義名分が無かったから、
史実では「ポツダム宣言を蹴ったから」とやっと言えた8月9日になるまで戦争ができなかった。

征途では戦後の自己の立場を睨んだ源田が「アメリカの意を汲んで」ソ連駆逐艦に攻撃命令を
出したことで開戦した。>>929でも指摘があるけど、1945年4月1日付けのSWNCC/SFE150は対日
政策の変更を提言し、4月12日のルーズベルトの死去をうけて大統領に昇格したトルーマンの容
れるところとなり、ロシア人にヒールをやらせるために釧路-留萌以北への進出を認めた。