1918. 6. 19
フランチェスコ・バラッカ戦死

 イタリア軍の撃墜王、フランチェスコ・バラッカ少佐は、この日対地攻撃任務を与えられて
ピアヴェ川西岸丘陵地の敵陣地を攻撃した。

 バラッカは新米の僚機を上空警戒に残して低空に降り、敵塹壕を機銃掃射していたが、
ふいにその機は敵弾を受けて炎上し、モンテロの丘に墜落した。

 数日後、イタリア軍部隊が丘を占領した際に、彼のスパッド戦闘機の残骸と遺体が
発見された。頭に銃弾を受けていたこと、彼の拳銃が抜かれていたことから、彼は捕虜に
なるのを恥じて自決したものとうわさされた。生涯撃墜数34機。

 イタリア軍は、彼を撃墜したのはオーストリア軍の地上砲火であると発表したが、
オーストリア軍はアルノルト・バルヴィヒ少尉(機長、偵察員)とマックス・カウアー軍曹
(操縦士)のフェーニクス複座機の後部機銃が撃墜したものと発表した。

 フェラーリの馬のエンブレムは、バラッカの戦死後に、バラッカの母が彼の紋章の
意匠を贈ったものと言われている。