>>150-151
実際は、>>143の長畜のたわ言と違い兵農分離は進んどったよ。
「健児(こんでい)として地方国府重要施設の警備に当らせた。ところが九州は
「地これ辺要(辺境の要害)にして、備えなかるべからず」として除外された。
このため九州の兵、農民らの苦しみは続いた。名前は兵士だが、実は役夫
(人夫・にんそく)と同じで、体が疲弊し兵の役にはたたない事態であった。
 これを改善するために設けられたのが、九州各地の辺要警備につくられ
たのが「選士・選士統領制」なのである。
 そしてこの選士の中核となったのが、豊後大野郡、直入郡の者達であった。
 類聚三代格には「豊後国大野直入両郡、騎猟の児だし、兵において要となす」と
伝える。また、直入郡には官の牧(官営牧場)があって古くより、大野直入地方
では、馬の飼育、馬役の仕事を生業としていた。この大野直入の原野で弓矢射ちに
長け馬を乗り回し狩猟を行う人々を、大宰府警備の兵に組み込み、豊後選士の巧みな
馬術、弓矢射ちの技術を広めようとしたのである。」
土地に労働投資の時間に追われる農奴たぁ、狩猟生業、漂白民賎民の方が戦闘の
即戦力になるけぇ、「ごろつき」らを雇おうたし、それらが武士となった。
漂白賎民の被差別民部落囲い込みの江戸期も、百姓一揆鎮圧は被差別民じゃったし、
凶悪犯逮捕も最前線で犯人らと戦い取り押さえるんは被差別民の仕事で、捕えた
犯人を後方で見学しとった下級武士の同心(足軽)に引き渡すわけで、貧弱な役人化
世襲武士じゃけぇ戦力にゃならんわ。